楽山は闇の中に2
 
 『朝の光の中に』溝部脩著
 2021年11月21日 楽山日記(LD)
   を改めて再録+批判。
 
 
楽山が、いかに、美化しようとしても、楽山の体質からの発言は、言語を通して、楽山の卑怯と病質を表して見苦しいだけの雑言になってしまうようです。楽山には、深い文章、特に、宗教や信仰の文章について、全く理解力がないことを、自ら表しています。
 
(ネットより)
溝部 脩(みぞべ おさむ、1935年3月5日 – 2016年2月29日)は、カトリック教会の司教でサレジオ会士。カトリック高松司教区及びカトリック仙台司教区の教区長。洗礼名は「フランシスコ・ザビエル」。
 
 
*概略
本書は溝部司教の説教集である。収録されている説教は、一、二頁と短く、読みやすいものが多いが、やや長く難しいものもある。
以下に、本書中で特に印象に残った箇所をメモしてみたい。
 
楽山は、いつも、メモするだけです。それで責任を逃れようとしています。表れてくるのは、楽山が、理路を正して自分の意見をまとめることが出来ないということなのです。「読みやすい」・・楽山は、何も読み取っていないと思います。心にもないことを平気でいう男です。
 
 
*聖書
著者は亡くなった司教様のことに思いを馳せつつ、次の言葉について触れている。
わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。
(黙示録2:19)
 」
これは心にじんと来る言葉だ。自分のことを理解してくれている存在があると思えば慰められる心持ちはするが、その一方で怖ろしくもある。
 
「心にじんと来る」・・楽山は、しばしばこういう単純な感動言葉を使いますが、こう書けば受けるじゃろ・・という、実感のない世辞の類です。「怖ろしくもある」・・これも嘘です。そう思わせたいのでしょう。もし本当であるなら、今までの偽善と嘘と詭弁は書けなかったはずなのです。
 
寒い世辞です。「心にじんと来」て「慰められる心持ち」で「恐ろし」いのでしょうか。感情がバラバラであることに気づいてください。こう書いとけばいいじゃろ・・という楽山にしばしば見られる受けねらいの細工なのです。言葉の深い意味が分かっていないからです。
 
 
*罪と救い
著者はイエスの系図に罪を犯した者がいることを指摘しつつ、次のように述べている。
罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれてきます。アウグスティヌスではありませんが、罪のないところには救いがありません。わたしたちの罪深さ、ほんとうに深い人間のもつ罪深さ、これらを通してこそ、神の救いがあるのです。
(『朝の光の中に 溝部司教の説教より』溝部脩著、ドン・ポスコ社、2003年、p.64)
 」
罪があるから救いがあるというのは、悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある。
 
「イエスの系図に罪を犯した者がいる」と書いて、キリストの神性を暗に否定したい楽山です。本では「罪深い人間の子孫として、イエスが救い主として生まれ」という救い主の由来を書いて、超常のスーパーマンの家系ではないゆえにこそ、罪深い人間に多く接して、共感できるということでしょう。
 
「罪のないところには救いがありません」・・条件法ではなく、罪なき人はいないということです。言い換えれば、罪の自覚のないところには救いはないということです。誰でも人間として完全ではなく罪を犯すから、悔い改めて正直に祈ることで救いがあるのです。自己中の楽山には理解できないのです。
 
楽山は、罪を自覚したことがないので「罪があるから救いがある」という「どうしても救いが必要な人間」という意味が理解できないのです。"罪" と "救い" を、単純に反対語として受け取っています。こういう人には、救いも信仰も分かりません。言葉を表面的にしか受け取れず、詭弁しか語れないのです。
 
悔い改めない自己愛性人格障害の自己中である楽山は、救いに該当しません。このように、話を進める前提に、既に、詭弁の躓きの石を置いてゆく楽山です。小さい言葉一つ、楽山を信用してはいけません。根っからのペテン師になり下がった男です。
 
「罪のないところには救いがありません」とか、罪人が救われる、とか言ったことは誤解を招きやすく、早速、楽山は、罪があるから救われるから自分も救われるという詭弁として悪用しています。罪人の自覚が、救いを求める動機になるということであり、楽山には一度もないものです。
 
「悪があるから善があるというのと、どこか似た所がある」・・説明もなく、意味不明です。楽山のような作為の偽善という極悪があるから、その反対側に、悪の自覚から善を考えられる信仰という意味なのだろうと受け取っておきます。楽山は、自らの救いの可能性を自ら否定してゆくようです。
 
 
そういえば、三浦綾子の『氷点』のヒロインは、自身の出生の秘密を知って悩んでいたのだった。先祖に不義を犯した者が一人もいない者はいないだろうが、それについてさほど気にせず生きられる人と、それらの不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人とでは、その生き方は全く違ったものにならざるを得ないのだろう。
 
楽山は、罪の物語を、他人事としてしか受け取らず言っているのです。いつもそうです。楽山は、不義も罪も偽善も全く気にしないでいられる自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の生き方をしてきました。楽山には、このような題材で、何も書く資格はないのです。
 
「不義が自身の中に潜んでいることを強く感じないではいられない人」・・楽山は、いかなる悪も偽善も、感じないでいられるということが今までの記事に表れてきました。確かに、罪深さを自覚する人と、自覚しない楽山では、生き方が全く違います。楽山は罪の自覚がないために根腐れになっています。
 
 
*聖体拝領
著者はその昔、太平洋の島にやってきた司教や白人女性が、現地住民に食べられてしまった話をしつつ、聖体拝領の意義を説明している。
現地住民は、司教のような偉い人にあやかりたい、美人の白人女性のように美しくなりたいということから食べたのであるが、聖体拝領には次のような意味があるという。
ご聖体を戴く度ごとに、わたしたちはイエス様に同化し、大きく成長して、今度は自分を人々にあげられるようになるのです。
(同上、p.188)
 」
自分としては神の血と肉を食べるというのは感覚的にどうにも受け入れがたいものがあるのだが、この説明を聞くとその論理に関しては理解できなくもない。ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かるので。
 
現地住民に食べられることを「理解できなくもない」と言っています。とんでもない不祥事でしょう。「相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・気でも狂ったのでしょうか。それとも、キリスト教はそんな宗教だと、吹聴したいのでしょうか。楽山の狂気と悪意が全開です。
 
聖体拝領(聖餐式)のことを、楽山は、人食いやライオンの話におとしめています。やはり、偽善の作業のために、悪意も疲弊して、楽山の人間性を破壊しているようです。私は教会を離れてしまったが、聖餐式は、そのような儀式ではありません。キリストの血と肉は、あくまで比喩~希望であります。
 
信仰者が、希望を求めようとしているところで、それを腐らせるために、楽山のような反キリストが、悪意を向けてくるのです。聖餐式は、キリストの犠牲の血と肉の、象徴的儀式です。「力を得ることができるという発想は分かる」という楽山は、人食いの精神で、血を求めているかのようです。
 
楽山は、ふつうに読めば、慎重に構えるべきことくらいは分かることが、分からなくなっているようです。こういうことしか書けないのは、既に末期なのか。楽山のことをケダモノとは書いてきたけれど、本当に肉食本能だけの飢えた動物に堕ちているのでしょうか。楽山の文章が、臭くて、たまりません。
 
「ライオンを食べれば、ライオンのように強くなることができるという風に、相手を食べることでその力を得ることができるという発想は分かる」・・比喩とも言ってないようです。牛肉を食べれば牛のように強くなるでしょうか。「分かる」などと根拠もないことを言う楽山は、正気ではありません。
 
以上のようなことを平気で書いてくる楽山の非人間性です。楽山は、本当に、偏見と悪意しか持っていないと思います。精神病質でサディストで、良心の慎みの欠片もない男です。読む人の心に与える寒気と吐き気が楽山の生産物です。さらに増悪する恐れがあるので、決して関わらないようにしてください。
 
 
どんな間違いや嘘を言っても反省も訂正もしない楽山のような人間になってはいけません。そういう人間は成長しません。人間は成長するのが特徴ですから、訂正不能の人間は、人間ではありません。そういう人は、関わる人々に迷惑をかけながら、混乱し劣化し崩壊してゆくだけです。
 
 
人の心を食らう肉食獣

人の心を食らう肉食獣
 
 
(2021年)
(2022年12月15日、再録+加筆)
 
 
 
  (抜粋)
 
ある日ネズミを捕まえた親猫は
しばらく足でいたぶっていたが
にわかに頭から口に入れ
バリバリと骨を砕く音を立てながら
尻尾まで残らず食べてしまった
そのときの親猫の眼は
獲物を奪われないように警戒する
肉食獣のそれを思わせて
さすがに恐かった
 
 
  引き継がれ
 
ときに和み
ときに競い
ときに揺さぶり
ときに闘って
似ていても
相反していても
結局どこまでも孤立しており
いつまでも孤立していながら
引き継がれる力がある
 
微かな光を浴び
あるいは底知れぬ陰に沈み
あるいは叩かれて去り潰されて消え
あるいは独り獣道に迷い込んで倒れ
犬か鼠のように死んだとしても
 
信じようと信じまいと
それぞれは役割を担っており
そのそれぞれを刺激し賦活し
いつまでも秘密でありながら
引き継がれ押し出そうとする
大いなる力がある
 
だから心置きなく
時が来たら安らかに速やかに死ね
だから心置きなく
時が来るまで苦しみ抜いて生きよ
 
無数の苔むした躓(つまず)きの石の潜む
果てしない樹海へ
無数の肉食プランクトンの生息する
果てしない深海へ
押し出されて行け
 
 
  混線ラップ
 
ぎ・み・さ・わら
少しでいい
いがらっぽい毎日に
煙草のせいではなさそうだ
呪いの国 笑いの街角 箱の中
 
殺伐たる事件の数々
せめて明るいニュースで埋めて
メリットだらけのメッセージ入れて
 
無理な遊戯の化粧と愛想が
期待通りの笑みを浮かべて
飛びたい刃物の獣性を隠して
二十歳(はたち)過ぎても三十過ぎても
食えるのにまだ飢えている
 
 どんなに図体(ずうたい)でっかくても
 線が細いと長持ちしないぜ
 だって太い線はみんな完全
 感電・感染しているくせに
 罅(ひび)割れ漏電しかけているから
 下手に触ると怪我(けが)するよ
 
これはフィクションです
これはフリクションでガーガーガーガー
 
銃声とジェット機が
走る背中を追い越してゆく
 
呪詛の国
笑って殺すか殺されるか
期待の未来の原稿読むか
うりゅ・ぎ・み・さ・わら・ぷり ?
これはフィクションです
水を水を水を水を
聞こえますか どうぞ?
 
 
※ 初めの1行目と、数行前は、は、一応、
  ( will you ) give me some water please のつもり。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、サディスティックな性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
 
 
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