無視教の狭窄度
 
   嫌われる勇気
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41571142.html
   楽山のブログ記事+コメント欄
 
 
楽山は、嫌われても書いてゆくのでしょう。嫌われたことを無視するわけですから。
嫌われても気にしないということは、嫌われる原因も、自分の欠点も、無視することを表しています。そういう人は、つまり、反省によって自分を正すことをしない人だということです。
 
記事本文と批判:
 

『嫌われる勇気』を読んでいる途中だけど、
その主張をざっくりといえば、
ものの見方、考え方を変えれば、
世界が変わるし、自分も変わることができる
ということのようだ。

 
アドラー教の宣伝に過ぎないと思います。
楽山には、人に何かを勧める資格はないと思います。
アドラー教によって
気に入らないことは無視する、ということに徹底しているからこそ、
提示された疑問や批判に何一つ答えることなく、
根拠を示さず、代わりに、詭弁を弄して、
また、性懲りもなく、記事を書くことが出来るのです。
 
人の話など聞いていないからです。
言いたいことを言って、それで終わりなのです。
お仲間のシャロームが相づちを打っているだけです。
どうか底意地の悪い二人に近づかないでください。
 

スピリチュアルな方面では、
心を変えれば、すべてが変わる
というような考え方があるけど、
それと瓜二つと言えるかも。

 
楽山は、スピリチュアルについて語る資格はありません。
心を変える、総てが変わる、などということを、平気で言えることに
心というものを、いかに軽く考えているかが表れています。
真実の深淵に、指一本触れていないと思います。
 

したがって、
本書は、
事実について研究するというよりは、
人生をどう解釈するかという
人生観、人生哲学といった風合いなので、
合う人もいれば、合わない人はいるだろうなとは思う。

 
事実について研究するのが学問です。
アドラー心理学が、心理学という学問ではなく、
人生観や人生哲学という美名によって
説教をする宗教であることを楽山が明示しています。
 
実際には、
楽をしたい、自己を肯定したい、
という人間の欲望の弱みにつけ込んで、
誘導をするカルトであることが明らかになっています。
 

ちなみに自分はどうかといえば、
部分的には共感できるところもあるが、
アドラーの教えによって、
すべてを解釈しようとしているところは、
若干、無理があるのではないかと感じた。

 
いつからか、楽山は、引き気味になっていますが、芝居だと思います。
欠点もあるが・・ということなら
欠点を明示して、良いところを汲み取るように説明するはずですが、
どちらも明らかに表してはいません。
 
万事が、このように、はっきり言わずに、ボンヤリ誤魔化して、
結局、書籍紹介して進めているわけですから、
アドラー教を勧めていることは明らかなのです。
既に、この記事が、誘導なのです。
 

もっともこれは、
アドラーの教えに限ったことではなくて、
どんな思想であっても、
一つの体系をこしらえて、
それですべてを説明しようとすれば、
屁理屈、こじつけ、辻褄合わせ…
などが生じるのは仕方ないのだろうけど。

 
屁理屈、こじつけ、辻褄合わせ…を好きなだけ続けているのが
楽山とシャロームです。しかも、楽山は、明らかな批判ではなく、
仕方ない、という不可抗力の表現をしています。
微に入り細に入り、楽山は詭弁を弄します。
 
そして、どんな思想であっても、と言って
他の思想を巻き込んで、正当化しようとしています。
ボンヤリ言語を通して
微に入り細に入り、楽山は詭弁を弄します。
 
このように、批判に応えることなく平気で詭弁を続けることによって、
さらに、楽山が、
ボンヤリの奥底に、悪意を燃やしていることが明らかになるでしょう。
 

ただそうはいっても、
本書に提示されている考え方には、
自分が過干渉するのも、されるのも退けて、
自己の人生を充実させるために
活用できそうなものも多々あるし、
この部分については
知っておいて損はないのは確かではある。
この意味で、一読の価値はある本だと思う。

 
過干渉について、
ボンヤリ言語による暗示、詭弁、誘導、誘惑を含めていないのです。
知るだけ、取り込まれ、洗脳され、他者無視=自己中心となり、
自分を、人格を、かえって失い、カルトの部品になって、
活発な、意欲も、感性も、損なってゆくでしょう。
 
あらゆるアクティブな心の活動を損ない
うすぼんやり、どんより、もやもやした
霧か煙のような存在にしたうえで支配しようと企む者たちに
魂を売ってはいけません。
代価は、グロテスクな鈍感、つまり、人間でなくなることです。
楽山の記事は、それを、既に表しているのです。
 
 
コメント欄と批判:
 
(シャローム)
自由さん こんにちは
yahooブログもいよいよあと一週間となりましたね。
「自分が過干渉するのも、されるのも退けて、
自己の人生を充実させるために
活用できそうなものも多々ある」
私も嫌われる勇気を読んでなるほどと思いましたが、
 
(私)
悪辣で、そのくせ、理路も情感も持ち合わせていない
という証拠だけを約8年積み上げてきたシャロームは、
妄想教理と他者に対する不感不応によって、
今までと全く変わらない口調で、一人前の思想家気取りで
臭い芝居を、今日もここで、繰り返しています。
怖いのは、破壊的な過干渉が、刷り込みという手段によって
隠れていることなのです。
 
(シャロームj)
でもちょっと疑問も残っていますね。
自分自身が他者に過干渉したり、他者から過干渉されたりすることから自由であるには、基本的に確かなI am OK!という自己肯定感なしにはむずかしいと思いましたが、どうでしょうか。
また他者が自分に対して過干渉であったりすることはその人自身にかかわることだという理解とYou are OK!という他者受容も必要ですね。
 
(私)
基本的に確かな自己肯定感とシャロームが言うとき、
シャロームの、罪を気にせず、悔いることも反省することもない、
という妄想教理を表してきたのが、この8年間でした。
シャロームは、どうしようもない人です。
自己中心の尊大だけが今も物を言っているようですが、
シャロームは、人間性の、温もりも潤いも持たない、
それを、丁寧語と世辞で補っているつもりの狂信者です。
(私)
ある意味、自己中心による人格破壊を
そのまま、なぞっている結末が、シャロームその人なのです。
 
(シャローム)
そのような確かな肯定感はどこから与えられるのかなとも思いました。
その肯定感なしには嫌われる勇気をもって自分の人生を充実したものと生きるのは難しいのではないかなと思いました。
shalom!
2019/8/24(土) 午後 3:35[ shalom ]返信する
 
(私)
シャロームは、肯定感を繰り返し強調しています。今となっては、自己中心の妄想家であるシャロームを、シャロームが肯定する以外にないからです。これは独り言に過ぎません。
人間性を失って滅びゆく者の末路なのです。だから、平気で嘘を吐いてきたのです。
(私)
罪を犯しても、偽善を働いても、その罪と偽善を無視している、という点が、楽山のアドラー教と共通しています。成りすましを疑っています。
 
(楽山)
いま、第四夜を読み終わったところですが、その点については、勇気づけという方法が紹介されてました。
「ありがとう」と感謝されることによって、自分は共同体に有用な存在だと思うことができて、勇気をもって主体的に生きられるようになると…。
 
(私)
楽山の「ありがとう」をはじめとする様々な説明が、あまりに、幼稚で、白々しくて、醜くて、楽山の本心ではないことを今まで書いてきました。
平気で、世辞を言い、やさしいお人柄を装い、一方で、執拗で頑迷な信条を、ボンヤリ言語で表して、刷り込んで、受け入れさせるために、今日もアドラー教の無視力をフルに活用しているのが楽山です。
 
(楽山)
自己肯定感については、感謝がカギになってるんだろうと思います。
あとは、アドラーでなく、ユング心理学の方の人ですけど、林道義の本で、自己肯定感は乳幼児期の環境が大切だと説いていたのを読んだ記憶はあります。
 
(私)
私の「心の理論」という記事において批判しましたが、
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12450774365.html
楽山は、他者の誤信念を判断できるようになる理路について書いてある簡単な質問を見抜けないばかりか、仏様の気持ちがわかる、という霊感に結び付けて、子どもには、そして楽山自身にも、霊感があるかのような気持ち悪い話として書いていました。それを批判したわけですが、楽山は、それを無視しているから、今回のように、性懲りもなく、また、平気で学問気取りの記事が書けるのです。
(私)
このように、反省と修正が必要な事柄でさえ無視して、今までと同じ訂正不能のまま、生きてゆくことが、アドラー教の教えに結び付いているのです。
 
(楽山)
乳幼児期に周囲から愛され、大切にされていると、自分は愛される価値あるという刷り込みがなされ、長じてからも自分に自信が持てるようになるとのことでした。
2019/8/24(土) 午後 5:27[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
愛情を、刷り込みだと言っています。それで自信が持てると言っています。
(私)
恐ろしいことです。誰が作為で子どもを愛するでしょう。恐ろしいことです。
(私)
楽山は、愛されたことがないのでしょうか。
愛さえも行為の要素か手段のように対象化して語れると思っているのです。
・・OUTだろうと思います。
 
(楽山)
ブログについては、
先日は、アメブロにブログを作ってみました。
なんか、広告に埋もれてる感じですね。
・楽山日記(a)
https://ameblo.jp/aankzf2019/
2019/8/24(土) 午後 5:42[ 楽山 (自由) ]返信する
 
(私)
楽山の上記アメーバブログを見てみると、
現時点では、刷り込み記事の合間に書く、音楽のリンクが張ってある記事です。
また、アドラー教宣伝を続ける気なのでしょうか。やめてください。
楽山こそ、邪魔で厄介な広告です。
 
(私)
私は、子どもの頃から、内向的で、物もろくに言えない性格でした。そのために、失格者みたいにレッテルを貼られるような体験もあります。しかし、私は、人間を見るのが好きで、その振る舞いや、言葉、リアルには表情などに、興味をいだいていることが、今も、人間の信仰というものを考える、という経過になっているようです。
(私)
そういう私から見て、美しいとは、人間らしいことで、それは、微笑ましく、大切にしたい心なのです。カルトには、読むたびに、人間らしさを微塵も感じさせず、かつ、人間らしさを奪うものとして、明確な憤りをいだきます。私の人生の残りは、そう長くはありませんが、召される時まで、書けるあいだ、批判を続けてゆきます。
 
 
(2019年08月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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