的外れの批判2
     by 佐倉哲
 
 
佐倉哲という人のサイトですが、楽山の師であろうかと思いましたが、決めつけて説得力のない自己満の筆致が楽山に実によく似ています。既に、聖書のキリストから人間として生存することについて癒しと慰めを得ている信仰者としては、コピペした記事について批判してゆくことにします。
 
もし佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、どういう魂胆で引用したのでしょう。佐倉哲という学者が楽山と同じくキリスト教の神を否定している・・ということで、楽山自身の正当性に箔を付けたいのでしょうか。その佐倉哲の文章が、呆れるほど無理解な先入観に過ぎないのですが。
 
楽山には、高等感情に属する深い情緒からの共感性がありません。さらに洞察力も皆無です。そして、佐倉哲も同様に、事実と理屈の辻褄合わせだけで神を否定したつもりの高慢が表れています。どんなに飾っても、人を生かす言葉として、幼稚は幼稚、無理解は無理解、無知は無知なのです。
 
聖書の神を、深みのない理屈で否定してくる学者モドキの佐倉哲は、楽山の成りすましである可能性が高いと思われます。楽山の無理解を、佐倉哲が繰り返しているように見えるだけです。心の深みを、全くと言っていいほど洞察も共感も出来ないこの二人に、どうか関わらないでください。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。
 
おかしいです。神と聖書の正しさを、人間が完全に理解することは不可能です。そこを弁えないのはカルトや偽善者ということになります。神聖については、人の側に不完全性定理が成り立つようです。神について、人によって、いるとかいないとか、正しいか否か、などは分からないのです。
 
むしろ、そこから、聖書は、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、体験との間を何度も往復する動機となります。「神の霊に導かれて書かれたもの」かどうか、神でない人に、評価できるものではありません。
 
 
聖書の記述が間違いだらけであるということは、もし神が正しいことしか語らない<真理の神>であるとすると、聖書は<神の言葉>ではありえないという事を意味します。
 
「だらけ」と意味を強めてきました。生かす言葉のヒントも見つけられないでいて「<神の言葉>ではありえない」というような結論に到達することも「ありえない」わけです。聖書から、心、命、人生を、生かす言葉を見つけられない人は、見つけられない自らの身の程を弁えるべきです。
 
 
それでも、もしあくまでも聖書は<神の言葉>であると言い張れば、神は<真理の神>ではないということなり、結局、神の言葉そのものが信用できないという、より受け入れ難い事態が帰結することになります。神が<真理の神>であるとすると、どうしても、聖書は<神の言葉>ではない、ということになります。
 
神と神の言葉を否定して決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。理路が悲惨です。
 
自分にないものを人が持っていることへのジェラシーでしょうか。自分は分かっているから、分からない人へ教えようとする態度だけで書くと、こう言う屁理屈を振り回すようになるという例になるでしょう。この屁理屈も、実に、楽山に似ています。情感と感性が悲惨です。
 
 
聖書が神の言葉ではないことの証明
前提:神の言葉は正しい。(神の定義より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、聖書は神の言葉ではない。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、神を判定するのは、自分は神と同等かそれ以上だと言うのと同じです。神聖を自分の屁理屈で否定する・・楽山に似ています。佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、実に有害で狡猾な陰謀と因業であります。
 
キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。学者も、思想家も、もちろんペテン師も、口をさしはさむ余地はありません。上の判断は、神の言葉でないのはもちろん、人の言葉でもありません。不潔な培地に、ぶわぶわと湧いているカビの類です。
 
 
しかし、もしあくまでも「聖書は神の言葉である」と言い張れば、
前提:聖書は神の言葉である。(キリスト教の教理より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、神は真理の神ではない。
 
歴史の定説と思われたことが、のちに、疑われ、否定されることがあります。過去の事実は証明できませんし、神を証明する事実も否定する事実も証明できません。神を事実によって否定する人の理屈、とても、幼稚だと思います。こういう醜いことばかり書いてくるのも、楽山に酷似しています。
 
人間の辻褄で、貧相な思想家気取りが、神を否定したつもりでも、そこには、神についての事実を人が決めつけるという欺瞞が働いています。これは、信仰を語る思想の是非以前に既に成り立たないことです。恥ずかしげもなく根拠みたいに言う貧弱さは学者気取りの惨めな偏見を表すだけなのです。
 
 
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する結論は、「聖書は神の言葉ではない」か、あるいは(聖書は神の言葉であると言い張るなら)「聖書の神の言うことは信用できない」ということです。
 
激しい短絡と傲慢が働いています。この発言者は、人間の理路で、あら捜しはしても、救いとなる言葉の実感に到達していないようです。つまり、聖書について、理屈や事実をいじくるだけで、人生の言葉として何も考えていないのです。自己満だけの、誰も救えない人だと思います。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、共感であり、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、貧弱な思想家気取りで浅ましい文句など言わず、ただ黙っているべきです。
 
 
さて、聖書が間違いだらけであるとしても、それで聖書のすべてがでたらめであるということにはなりませんから、たとえば、神が世界を創造し、イエスを救い主として世に送り、彼の犠牲の死によって、彼を信じるものは救われるなどといったキリスト教の中心的教理が間違っていることが、この「聖書の間違い」シリーズから帰結するわけでは、もちろん、ありません。
 
卑怯ですね。否定しまくっておきながら、間違っていること・・帰結するわけではない、などと言っても、それは安い言論者の責任回避であり、このように、神とキリスト教を否定する人が、自らの貧相な理屈を振り回すだけで信仰も真実も知らない証拠なのです。とても、卑怯で、醜いです。
 
 
しかしながら、「聖書に書かれていることは全て正しい」という主張が覆されてしまった以上、「聖書に書いてあるから」という理由では、それらキリスト教の教理が真理であることは、もう主張できなくなります。
 
聖書が神の言葉と信じても、全ての正しさを、人間は理解できるわけではないという敬虔を、このブロガーは分かっていないのです。人間のインテリジェンスは、信仰と聖書を理解するうえで、超常がどうこう・・といったことについては、全く無力です。私たちは超常に住んでいないからです。
 
 
聖書が真理の根拠ではありえないことの証明
事実: 聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論1:ゆえに、「聖書に書かれていることはすべて正しい」という主張は間違っている。
結論2:ゆえに、「聖書に書かれているから」という理由は、ある主張が正しいことの根拠にならない。
 
神は絶対であっても、人は絶対ではない、という基本が、信仰の弁えです。同格に見て論ずるなら、それに使う時間はことごとく無意味です。つまり、神と聖書が無意味であると否定することは、そう言った者を、とことん無意味にするでしょう。論理に見せかけた詭弁・・無駄なことは止めるべきです。
 
 
(結論1より)
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する二つ目の結論は、「イエスは人類の罪のあがないのために犠牲の死をささげた」とか「イエスをキリストと信じるものは救われる」などといったキリスト教のすべての教理は、それらが「聖書に書かれているから」という理由では、真理であることを主張することはできない、ということになります。言い換えれば、聖書は真理の根拠あるいは権威ではあり得ないということです。
 
論理的に見せかけていますが、現に、キリストを好きになり、生きる縁としている人々への悪質な侮辱になります。その原因は「聖書に書かれているから」が、正しさの理由になっているという先入観的な見方が批判者側にあるからです。共感と愛が人間をとらえること何も理解していない人の言です。
 
聖書は神の言葉であっても、ゆえに、人の言葉しか持っていない私たちには、完全に理解できるものではないということです。人の理論体系に、神は、納まる御方ではない、という恐れをいだくべきなのです。それを自覚せずに、神と聖書を理屈で否定したつもりでいることは、呆れるほど傲慢です。
 
教理は、聖書に書かれているのではなく、聖書に書かれていることから生まれています。この佐倉哲という楽山類は、楽山と同様、理論家ではなく詭弁屋です。楽山の成りすましの可能性が高いです。誰も褒めてくれないから、学者か何かに成りすまして満悦しているのでしょうか。哀れです。
 
 
聖書の記述における数字の不一致のような、一見「些細な」矛盾も、したがって、キリスト教の中心的教理の主張とまったく無関係というわけではなく、むしろ、それらの教理を真理であると主張するための重要な、おそらく唯一の、土台そのもの(真理の権威としての聖書)が、その「些細な」誤謬のために崩壊してしまったといえるでしょう。
 
呆れます。既に生きるとに必要だから信じている信仰者を屁理屈で否定したつもりです。今まで書いてきたように深みも洞察もない決めつけの屁理屈で否定したつもりになっている自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の見せかけだけで実質が皆無の自慢話につきあってはいけません。
 
信仰は、数字や理屈の一致に支えられてはいません。矛盾がないから信じているのでもありません。また、教理と、信仰は、違います。教理は、直観に結びつきにくいものですから、心の癒しにも直接は結び付きにくいものです。教理は、信仰のヒントとなる言葉の集まりに過ぎません。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、幼稚で拙劣なものになるのです。
 
この佐倉哲という人が、批判しているのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。それを、既に救われ癒されている人の信仰に向けることは、即、侮辱となります。佐倉哲は、直観力も理解力もないと思います。
 
今回、批判対象の作者である佐倉哲は、教会で、教理ばかり信じるように言い聞かされて、傲慢のために反省もしないで、根こそぎ否定の方向に変えたのでしょうか。深いところを受け取れないために、屁理屈だけの筆致は、楽山に、実に、よく似ています。つまり、思い込みだけの空想屋に過ぎません。
 
 
聖書は、長い歴史の中で育まれてきた先人の知恵と、神を表す言葉であり、未熟な理屈遊びで論文の適否を論ずるような思い上がった決めつけの対象には決してなりません。楽山と似たような、勉強しない天才気取りが何を書いても、刺激性の悪臭をもたらすだけです。的外れもいいとこです。
 
 
的外れ 発泡性 根無し

的外れ 発泡性 根無し
 
 
(2021年12月28日)
(2023年01月05日、再録+加筆)
 
 
 
  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書くことはあっても、本当に反省することはないのでしょう。しかし無反省で無理解のまま言葉だけ書いて、それで済む世界は存在しません。
 
楽山は、利用できるものを、無断で好きなだけ利用してきました。しかも、言葉の表面だけだから悪用というべきです。しかし、この記事の屁理屈は、楽山の筆致に、実に、よく似ています。上のS氏も、楽山の成りすましなのでしょうか。罪は、犯したとき心地よく、後から、責めをもって、追いかけてきます。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、
アンチが相手でも、冷静に対話ができる人もいる一方で、
アンチはこういう者だと決めつけて、即、拒絶する人もいる。
こういう違いは、一体何が原因なんだろうな。
午後0:06 · 2021年12月26日
 
楽山が原因です。人を生かす言葉を、安い世辞と勘違いして、他には何も用意できず、人のせいにする悪口だけ積み重ねてきた雑言屋の宿命です。楽山は、芝居が得意なのではなく、自己中と怠慢のために、いつのまにか、三文にも値しないペテンの芝居しかできない大根役者になっているのです。
 
楽山は、先入観と偏見と妄想で、いつも、「決めつけて」きます。そして、他者の言葉を、都合のよい言葉だけ、都合の良い方向に、引用して、味方が多いように見せかけてきます。一般常識がありません。良心がありません。たくさんのHNに成りすましていると思います。
 
楽山には、冷血はあっても「冷静」はありません。楽山は、正当な対話が出来ません。不快なことや都合の悪いことは無視します。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、自己中の単方向しか持っていません。それを、丁寧語で、ごまかしているのです。
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 自分で決めていいことは、
自分で決めるのが一番いい答えなのよ。
 」
自分で決めていいはずのことに、あれこれ口を挟む人はいっぱいいるのだけれど。 
 
「自分で決めていい」のは「自分で決めていいこと」です。それを、楽山は、何でも自分で決めていいという詭弁にして、宗教や思想というような大きなものをも、自分で決めつけてきたのです。どこまでも、くだらない詭弁で誘導してきます。無反省、無神経、無責任の、訂正不能の自己中です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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