ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年02月


  失せた心
 
いつしか春を楽しむ心も失せて
失せた心が芳春を舞っている
いつしか花を愛でる心も失せて
失せた心が落花を浴びている
いつしか新芽を喜ぶ心も失せて
失せた心が新芽を噛んでいる
いつしか己を慈しむ心も失せて
失せた心が短い弦を震わせる
過ぎ去った春の巻き尺は切れ
また来る春までの時計は狂い
無数の季節の余事に絡まれ
乏しい接線を切れ切れに解いて
かじかむ手から汗ばむ手へと
見渡す春に渡されてゆく
 
(1999年03月30日)
 
 
  陽気
 
突然言うんだ
生活者なんかじゃない
変態のガリガリ亡者だ
そうじゃない
まともな生活はしてないが
そうじゃない
すると車の中にいる
乗せた覚えのないやつが
隣で言うんだ
この春は
何か欠けているな
そうかな
この一年いろいろあったけど
そうかな
脳ミソの神経か血管でも欠けたか
ふーっとため息ついて
また部屋に戻っている
春は そうだ いつも
わけのわからぬ問いが
ちらほら降ってくる
腕を組み
首をかしげ
この部屋の中に
同じように首をかしげてるやつが
少なくとも二、三人はいる
 
(1997年3月31日)
 
 
  三寒四温
 
ふるえながら部屋で
キーボードを叩いていた
ディスプレイにやられたらしい
目汁
鼻汁を笑えぬ
寒さかな
で翌朝は
水の冷たさが憎たらしくない
昼は車の中で汗ばんで
暖かいのやら寒いのやら
温かいのやら冷たいのやら
夕方 宙ぶらりん
俺みたい どっちつかずの
ぼんやりしている瞼よ開け
顔から早く
飛びだせ目玉
 
(1997年3月6日)
(2011年2月28日、若干修正)
 
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旧作ばかり。再投稿があるかもしれません。
当地では、暖かくなった。暖房を入れなくなって何日経つだろう。
また寒い日もあるのだろう。
冬から春への不安定な気候。心はずうっと不安定なままだが・・・
 
 
 
 


  ものごころ
 
刀を振り回して叫びながら走っていた
通り魔というわけではない
最古の記憶
よほど欲しかったのだろう
おもちゃの刀を買ってもらって
喜びの雄叫びを上げながら
路地を走っていたようだ
 
ものごころ
物心と書く
「ぶっしん」とも読めるが
物が分かる心
心に残ることでもあるだろう
記憶の発達ならば
まだ記憶力も弱かった頃だ
記憶の錯誤かもしれない
脚色されているかもしれない
それ以前にも出来事はあったのだから
それ以前の記憶を
想起できないだけかもしれない
さらにもっと前の
原始の記憶が眠っているかもしれない
 
叫びながら刀を振り回して走っているのは
曖昧な記憶の中の子供か
雄叫びの刀を振り回して
よほど欲しいのだろう
衰えた老人の物心か
 
(2011年02月25日)
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こんなことを考えながら過ごしておりました。
昨日57歳の誕生日、・・・喜べ、天国は近づいた(苦笑)。
 
 
  胎児の記憶
 
どこかに残っている
原始の思い
何も問われず
あるものに手を伸ばし
満ち足りて
横になっている
 
どこかに残っている
胎児の記憶
力なく
目を閉じて
うずくまり
まるく 浮かんで
与えられたものだけによって
ゆっくり
回転する
地球のように
 
何かに抱(いだ)かれて
好きなだけ眠っていたい
そんなときにはひょっとして
かすかな胎動のように
かくされた記憶が
小さな命の歴史を
宇宙へ連なる道へ
いざなうのかもしれない
 
(96年か、それ以前)
 
 
  あしたはいらない
 
あしたは いらない
きょうは すてました
ひとこと
もう おわりました と
いってくれればよいものを
わかれることに まよいはない
だから なにも いわない
しずかに おりてくる
きり の なかに
まなざしを おとして
つらい ことば と
そのあいだに あるものを
たえるから
なにも いわない
たれのせいにも しない
たれも にくまない
たれも あいさなかったから
わかれるときまで
あしたは いらない だから
あしたを
すてたり
しない
 
(96年か、それ以前)
 
 
 
 

ブログ「日常×非日常」→「挨拶は祈りです」から・・・
記事は異なりますから、私なりに考えたことに過ぎませんが。
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  祈りの入り口
 
他者と自分は違う
神も人も
他者は常に未知であり続けるのだから
安定した良好な関係は
思い込みの
偶像との予定調和になってしまう
 
神を確認できないからこそ
神を信じるのではないか
 
しかし信じている対象が
神であることさえ確認できず
人にとっては神の像に過ぎないならば
 
確信ではなく可能性と呼んで
「かもしれない」を付け加えても
言葉ではなく
信仰と心なのだから
たちまち
人が探れない永遠と無限に触れてしまう
 
絶望的に希望を求める信仰は
自らが立っている突き出た崖っぷちで
木枯らしに吹かれながら
わざわざ自ら求めて
自らの足場をより深く掘り下げようとしている
 
他者に自分を見ることがある
自分も常に未知であり続ける
永遠と無限に触れて
 
落下 ・・・ とてもシンプルに
へりくだって挨拶しよう
安らかに甘えて
神を知らず
人を知らず
身の程を知らず
祈る
 
(2011年02月23日)
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2011年02月24日、
やはり・・・「と祈る」に違和感を覚える・・・→「祈る」に修正・・・。
 


  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
しかし私は語れない
そのことばかりは
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
(1998年3月29日)
 
 
  幻と命
 
机上の陽気な景気は
蜃気楼への逃げ水だから
命は飛んで火に入り
あとは焼けた屍を見渡して
ざっと数えられたら数えるだけの
夢の残骸のようなものだ
 
火の玉になって飛び出すぞ
 
肉は焼けるが
魂(たましい)は火の魂(たま)に
あらゆる魂になって飛び出すだろう
夢でも幻でも残骸でもなく
ときとして永遠に迫るものを
残ったものに遺してゆく
命とはそういうものだ
 
(2007年03月12日)
 
 
 
 


  へりくだる先・人の側
 
何をどう信じようと
信仰は個人の自由である
これが正しいのは
人に影響を及ぼさない限りにおいてである
 
人に伝える使命と可能性においては
人として当然
わきまえておくべき意識と態度がある
 
あくまで人の側(がわ)から見ると
 
信仰の殆どは
思い込みと思い上がりで出来ている
 
例えば
「神は人を救う」の対象に
自分は含まれていると信じること。
「地獄の炎に投げ込まれる」の対象から
自分は除外されていると信じること。
自分が受けた賜物を
人に伝えるのは正しいと信じること。
自分の足らざるは
神が補ってくださると信じること。
自分の存在と言葉は
聖書の神によるのだから
必ず人のためになると信じること。
これらの根拠は
人の側にはない
 
また
信仰者は突然悲劇的に死ぬことがある。
信仰は狂信に変わることがある。
それによってもよらなくても
信仰者は言葉または行為によって
人を殺傷することがある。
これらを否定する根拠は
人の側にはない
 
人の側に根拠のないものを
ためしに取り去って
へりくだる先
あらゆる理不尽に対して
人が生きている間
唯一正当な祈りは
「一刻も早く御許に逝かせて下さい」
のようなものだけになる
 
祈りの罪を自覚するものは少ない
いつもいつも
神によって殺される覚悟を持って
生きることは苦しいから
 
しかし信仰は常に
おびやかされ
ときには壊されることから
目を背け体裁を繕う危険性を
人の側は明らかに持っている
 
信仰と祈りの根底にさえ
すでに罪の性質がある
ということを認めることなく
感謝と讃美を人に伝えようとするなら
それは福音の伝道というより
宣伝に過ぎなくなる
和みと賛同の歓談を喜ぶが
疑いを問いかける交流を嫌う
高い塀の中の平安である
 
今日一日は何も罪を犯さない
と言える者はいないはずだが
一日生きれば一日分の罪を犯すのに
一日生かされたことを当然のように
自己中心に感謝し讃美するのが
人の側というものである
 
大切な信仰に人は
思い込みと思い上がりを
避けようとすること以上に
思い込みと思い上がりを
すでに避けようもなく
持っていることを知るべきである
 
(2011年02月20日)
 
 

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