ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年02月

昔々の、下記の年月日よりもっと昔に口ずさみ始めた
・・・私の若い頃の・・・幼稚な・・・恋歌(詩?)・・・
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  あなたの夢を見ました
 
あなたの ゆめを みました
いそぎあしで すぎゆく ひとの
あいだで ほほえむ あなた
て を のばせば とおざかるばかり
 
あなたの ゆめを みました
みしらぬ みちへ さる ひとを
おっても おっても とどかない
よんでも よんでも こたえない
 
あなたの ゆめを みました
あなたの ゆめから さめて
あなたの ゆめが にくくて
あなたの ゆめが いとしい
 
あなたの ゆめを みました
えみを うかべて かたわらに いて
かいなに むねに いだいて みれば
なぜか あなたに 似ぬ ひと ・・・
 
あなたの ゆめを ・・・
・・・ ・・・
 
(1999年06月25日)
 
 
  恋歌
 
あなたの こえが ききたくて
みみを すましてみるけれど
いまは やさしい ほほえみも
うたごえさえも とおすぎて
 
あなたの ゆめが しりたくて
こころを こめてみるけれど
とおい おもいで 追うばかり
間(あわい) せつなく 問うものを
 
つきぬ おもいよ いまさらに
なにを もとめて たちどまる
ささげるものと 問われては
とどかぬ うたと しるゆえに
 
わたしの おもいの はかなさを
ささのは ささぶねに おりなして
この かわの もに うかべましょう
はてる さだめと しりながら
はてる さだめと しるゆえに
 
(1999年06月25日)
 
 
 
 

昔 ~ 昔々・・・
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  暖冬
 
問わず語らず疑わず
安らかな感謝と賛美に
凝り固まろうと
もがいている
悟りの微笑よ
起きていることが
目覚めとは限らないのに
眠りを
眠らせるのか
暖かくなった冬が過ぎて
居眠りが大好きなこの季節に
似つかわしくない一枚の枯葉に
似つかわしく散った一枚の花びらに問う
いつどこでどのように
なにゆえ
舞い落ちたと思っている
 
(2007年03月05日)
 
 
  砕ける思い出
 
砕けてよ
波よ
岩よ
二十歳(はたち)の夏よ
 
あれから幾度
海を見てきた
 
今は冬
風も
冷たい
なのに白波もなく
打ち上げる波の
しぶきも
妙に やさしげ
 
かじかんだ手
砕けるのは
僕の方か
それとも僕が見ようとして
見ることのできない思い出の方か
 
逃げてゆく
言葉 愛の
その後ろから
石を投げてる
自分を見てる
 
こらえきれずに逃げてきたよ
 
遠い海鳴り
二十歳の夢のように
 
(1999年06月25日)
 
 
 
 

ブログ「日常×非日常」での私のコメントから考えたこと
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  無限の属性
 
属性において
神は無限であるが
人もまた無限である
神は無限を支配するが
人は無限のほんの一部でさえ支配できない
 
「無限であるということ」と
「無限の中身」とは違う
「を知っている」を付けて命題としても
 
「無限の中身」については
神と人と同じであるかどうかさえ人は分からない
確認のしようがないのである
 
しかし神と人の無限には共通部分があるだろう
部分と書いたがそれも無限なのだろう
無限にも大小関係がある
数学的な話だけではない
神の無限は人の無限に触れてくる
それが信仰である
共通部分がなければ人から神に祈ることも
神が人に働きかけることもないだろう
神と人には共感や反応が可能であるということ
それが人としての信仰が可能となる所以である
 
人は「無限であるということ」は知り得ても
「無限の中身」を把握することは出来ない
それゆえ哀しくも人は
それを「無限」と呼ぶ
 
(2011年02月15日)
 
 


  異言と超人意識
 
異言は聖書の時代に起こったのだから
今も起こりうるというのは正しい
しかし人としての
自らに起こったという確信は別である
それは自らの判断であり
人としての身の程知らずと言うしかない
 
今キリストが肉体を持って現れたら
今神の声が聞こえたら
 
真偽の見分け方は推測として
神もキリストも詰まるところ
「人を殺せ」とは命じないだろう
 
ある種のトランス・忘我・恍惚状態は
人を様々な超人意識へ誘う
それを善き聖なるものとして信じてしまうと
見分け方や判断力さえ失うかもしれない
 
人は人を殺してしまうかもしれない
人はキリストを殺してしまうかもしれない
異言に限らず
信仰はそれほど危うい側面を持つということさえ
超人意識は忘れさせるかもしれない
 
神は人に働きかけるだろう
ひょっとしたら常に
しかし
いやそれゆえに
人は常に
働きかけの主体が神であると
同定できないことを知るべきであろう
 
(2011年02月13日)
 
 
  人としての信仰
 
神秘体験についての確信は
神秘は確認しようがない
という矛盾律によって担保されている
 
聖書に表されたキリストによって
キリストを信じることは
癒しや慰めや平安を受け取ることであり
人間性の範囲を超えていない
したがって確信つまり
信仰となることは人間的である
 
聖なる働き
神の導きや奇跡や聖霊の働きは
もちろんあり得ることだが
そうかもしれないという可能性を超えて
確信として信じるとき
聖なる御方との
直接の交わりを意識することになり
人間性を超えるものとして
罪びとである人が人間としての分を超え
一種の超人意識を持つこと
人間離れすることに他ならない
即ち
神の導きだという確信
奇跡だという確信
聖霊体験だという確信
さらに預言や異言の体験的確信は
いずれも人としての信仰ではなく
自らを人として高める態度ではなく
聖なる御方へ近づいたという態度であり
人が人の分をわきまえず
人を超越したという傲慢である
何故なら
これらの聖なる働きは起こり得るが
聖なる働きだと確信するかどうかは
人の判断だからである
 
繰り返すが
聖なる働きが起こらないというのではない
自らに起こったという確信が問題なのである
 
確信つまり信仰と
驚きや恐れは違う
後者が情緒であること以上に
前者は内省と訂正の不可能性に直結する
 
人は人であり死ぬまで聖ではない
いかなる聖なる働きに接しても
それを人が聖なる働きと確信することは
聖なる御方に対する無礼であり
人の分際においては
ご無体なことでございますと言えるほどの
謙虚さによって遠慮申し上げるべきことである
 
聖なる働きについての人の確信は
聖なる働きを聖と
人は確認できないのに
という矛盾律によって担保されてしまうのである
 
(2011年02月13日)
 
 


  春の市場
 
春の市場の
夢が形を失うとき
夢見る人も形を失いながら
はっと冷汗の雫を振って
何もかも変わった世界の
何も変わらないベッドから
眠い目をこすりながら
冬の終わりの光を浴びて
ぼんやりから
すっきりへと
やはり春の市場を目指して
目薬は振られてゆきました
 
(2011年02月09日)
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2011年02月14日、最終2行「春の市場を目指して」と
「目薬は振られて」の間の「別の日の」をようやく削除修正。
投稿を見ると「別の日の」に違和感を感じるのに、
下書きではわざわざ挿入している跡がある。
挿入したわけがあるはずだが、なぜ?と考えていました。
結局どうも冬だから「春の市場を目指して」では合わない
と考えて挿入していたようです。そう思ったとき、
辻褄合わせと詩心は違うのに、日常感覚にとらわれて
合わせてしまったことを反省して削除することにしました。
挿入した言葉を削除するのに自分で納得できるまで
時間がかかりました。愚作なれど、やれやれ・・・
なかなか飛べない私なのでございます。
 
 
 
 

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