ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年05月

数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
からの問題
 
第133回「長文読解」
深い森の奥に妖精の村がありました。
妖精は皆、赤色か青色の帽子をかぶっています。
 
しかし、村に何人住んでいるか、赤と青の帽子が何人いるか、
自分の帽子が何色か無関心に暮らしていました。
その上、他人の帽子の色には触れてはならない掟があったのです。
 
しかし、自分の帽子の色がわかるときがきました。
百年に一度、青い帽子をかぶった妖精しか参加できない祭りの開催です。
誰も自分の帽子の色を知らないので、知らないうちは、祭りに参加出来ます。
 
しかし、もし自分が赤い帽子だと分かったら最後、翌日からの参加は出来ないのです。
初日は、妖精全員が参加しました。集まった妖精は全部で、400人でした。
みんな密かに赤い帽子青い帽子が何人いるか数えてみました。
でも掟のため、話題にできません。
 
妖精たちは、自分の推理で自分の帽子の色を判断しなければならないのです。
じつは、この祭りの初日には青い帽子の妖精が、200人。
赤い帽子の妖精が、200人参加していました。
もちろん、妖精たちは、自分以外の帽子の内訳しか分かっていません。
では、赤い帽子の妖精が祭りからいなくなるまで何日間かかるでしょうか?
 
 
解答例1:
 
(200人の)赤はそれぞれ、赤199人を見る。
赤は199人か200人だが、自分の色は分からない。
「自分が青ならば赤199人:仮定1回目」と考える。
(あとは他者の論理的推理をも考えるということで(汗)、
 (他の)赤はどう考えるかを考えてゆく。)
その仮定の上で
199人の赤はそれぞれ赤198人を見るはず。
その198人について、199人がそれぞれ
「自分が青ならば赤198人:仮定2回目」
と考えると考えると、
その198人の赤はそれぞれ赤197人を見るはず。
その197人について、198人がそれぞれ
「自分が青ならば赤197人:仮定3回目」
と考えると考えると考えると
197人の赤はそれぞれ赤196人を見るはず。
その196人について・・・
・・・
・・・
(「自分が青ならば」という仮定で
こういう引き算が成り立ってしまうのは
自分には赤199人が見えるけれど、
青とも赤とも情報交換は出来ないから
見えている199人の
「赤が自分と同じように見えているとは限らない」からだろう。
自分が青なら、199人の
それぞれの赤は198人の赤しか見えない。
(その赤は自分の色を知らないから)また、それぞれ、
自分が青なら、197人の赤しか見えない。
という繰り返しで仮定が増えて引き算が続く・・・そして)
・・・
・・・
それぞれ「自分が青ならば赤2人:仮定198回目」と・・・
赤2人はそれぞれ赤1人を見る。
それぞれ「自分が青ならば赤1人:仮定199回目」と・・・
赤は2日目に消えるはず。しかし消えない。
仮定199回目は間違い。3日目に消えるはず。
消えない。
仮定198回目は間違い。4日目に消えるはず。
消えない。
・・・
・・・
仮定1回目は間違い。自分が赤。201日目に消える。(答え?)
 
(妖精たちはこの問題が解けるくらい賢いことが条件。)
 
 
解答例2:

こちらのほうがすっきりした解答のようです。
赤の人数を一般的に考える。
 
赤1人なら1日目に周りは青ばかりなので
赤は自分が赤だと分かる。2日目にいなくなる。
赤2人なら1日目に赤1人には赤が1人見える。
自分の色が青だとすれば
2日目に赤は消えると推測。
出てきても消えてないことで、自分は赤だと分かる。
3日目に赤2人が消える。
 
赤k人のとき(k+1)日目に赤が消えると仮定。
 
赤(k+1)人のとき
赤1人は1日目にk人の赤を見る。
自分が青ならば、赤はk人であり、
(k+1)日目に赤はいなくなるから、出てきて待つ。
赤全員そう思って出てくるので
(k+1)日目に赤は消えない。
それによって自分は赤だと知る。
(k+2)=((k+1)+1)日目に
赤は全員消える。(青の数は関係なさそう?)
 
以上より(数学的帰納法)
赤n人のとき(n+1)日目に赤は消える。
赤200人なら、201日目に赤は消える。(答え?)
(赤は一度に全員消える。)
 
(2011年05月31日)
 


謙虚
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ない
真実である
しかしそう言いながら
解釈においては
人にとって常識的な論理つまり知性を用いて
人は神との関係を持つことが出来る
それが神を知ることだと語る
ここまでは
「信仰の原罪」である
不可避である
信仰者にとって生きるために不可欠だから
 
しかし
神との関係を持ち
神を知った者が
やはり常識的な論理の言葉を用いていて
つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに
様々な個別の出来事や事柄を
人の及ばない秘め事であるのに
神の行為と結びつけて判断し
確信をもって伝え広めようとするなら
その者は預言者かキリストか
聖なる御方ということになってしまう
明らかな傲慢である
 
自分は神のしもべですが
様々の驚くべき出来事について
しもべは主(あるじ)が
人知を超えた御方であることを知るゆえに
信仰をもって
それを恐れ
主なる神の行いについて
しもべの浅知恵や
限りある経験によって断定することをも恐れます
 
慎ましく受け取り
あたかも間違いのない神のごとく
確信を持って声高に語ることをせず
慎ましく語り
何事も包み隠さず考え
正直に祈ります
少なくとも都合の悪いことに
目をつぶったり
耳を塞いだり
口をつぐんだり
他の口を封じたりはいたしません
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して
まるで最初から
なかったかのように
見せたりもいたしません
 
さもなければ
起こっている悲劇を聞きながら
我が身の多幸を感謝して
自分を満たすために
心地よい信仰の砦を作って
抵抗しない人だけを招き入れ
自分の解釈に神秘の味付けを加え
自分の花園をこしらえ
造花を植えて
愛でることになるからです
 
(2011年05月31日)
 
 
 
 

一部旧作引用です・・・
---------------------------------
 
希死の履歴
 
 
死にたいと思ったのは
十年やそこらではない
 
死ぬ勇気がないから
一刻も早く御許へ
と祈るのも
今に始まったことではない
 
排除に留まらず
「神を知らない」ことは
「死」ということになっていた
 
正面から聞くことも言うことも
拒否しておきながら
婉曲的に
婉曲的に
 
神が裁き
与える
「永遠の命」
「永遠の死」
何を知っていると言うのか
 
昔々記しておいた
不信仰告白
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
罪の報いの
死に定めるなら
 
殺してみよ
 
あの遠い日に注がれた
水の命を
 
(2011年05月29日)
 
 
 
 


  日記:整理してみる
 
神・聖霊・キリスト
(神と総称しておく)
による救済については
肯定する根拠はないが
否定する根拠もない。
生きるのに不可欠ならば信じるしかない。
それが信仰である。
 
聖霊体験・奇跡体験・預言・異言など
(奇跡体験または「しるし」と総称しておく)
については
神からであるかどうか
肯定する根拠はないし
否定する根拠もない。
救われたという思いが否定できないから
生きるのに必要ならば
感受したという思いにとどめるべきである。
それが人間性による不可避な
「信仰の原罪」である。
 
しかし
奇跡体験についての
『人の確信』についてならば
肯定する根拠のないことが
思いが残るのとは違って
否定する根拠になる。
つまり
驚くべき出来事が
神からであるという根拠がないことによる。
(可能性として例えば
悪魔からかもしれない
人からかもしれない
自分の期待や自己暗示からかもしれない)
なのに
神からだと人が確信するのは
思いが残るのとは違って
「神の行為を人が確信する」ということであり
「神の行為を人は理解し確定できる」
という人の傲慢であり
人間性で感受可能な救いを損ない
神を恐れぬ態度というべきであろう。
 
 
神は人知を超えた判断によって
人を導き人を救うと教えながら
ここにおいて
人知を超えた判断をして確信しているのは
神ではなく
まさに人に他ならないからである
 
 
そのような指導者が
奇跡体験「しるし」を確信を持って伝える
   ↓
信仰者は自分にも起こるかもしれない
という期待を抱く→自己暗示の可能性も
   ↓
ちょっと似たようなことが起こると
起こった(!)と確信する
   ↓
他の信仰者に自分にも起きたと
さらに大きく伝える
   ↓
「しるし」を期待し求める常態が生じる
   ↓
「しるし」によって成り立つ信仰になってしまう。
 
というようなことを述べていたら
途中で突然
一方的に排除されたということです。
 
(2011年05月28日)
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以上のような「人としての立場をわきまえる信仰の謙虚さ」
については何度も考え整理し直す必要がありそうです。
さもないと単に信仰観の違いでは済まされない問題で、
違う宗教・違う信仰になってしまうからです。
 
何も整理しようとしないでしょうし、
その必要も感じない信仰者もいるということです。
 
 
 

  日記:打ち切られる
 
斬られるのではなく、
打ち切られるのというのは、
かなり応える。
その怒りも悲しみも、
そろそろ治まってもよい頃だが、
動機を得たのか、
モチーフを得たのか、
別のものが動いていて、
いつ自然冷却するのか
今のところ分からない。
突然ダウンしてしまうかもしれない。
いつ何を幾つ書くかという予定も立たず、
何を書いたかも忘れそうだが、
いつ死ぬか分からない年でもあるのだから、
書けるときに書いておくことにする。
 
(2011年05月27日)
 
 

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