ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年06月

下の記事にも関係するが、
示唆に富むコメントの遣り取りがあったので
ここで考えてみたい。
 
コメント:Aさん
私は牧者Bさんを信じています。
コメント:牧者B
人は愛し合う関係ではあって、信じあう関係には耐えられないのではないでしょうか。人が愛し合う関係と言っても、人のうちにそうする力があるとも考えてはいません。イエスのうちにのみ人を愛し、信じ抜かれる神を十字架の姿に見出すことが出来るようですね。
 
Aさんのコメントには2通りの意味が考えられる。
1.「信仰している」「(絶対に近いくらい)信じている」と
2.「人として(ある程度~かなり)信頼している」である。
 
牧者Bは、前者1.と受け取って
「信じあう関係には耐えられない」と戒めるようなレスを返し、
さらに、それに続けて信仰についての聖書的な話を述べている。
 
Aさんの本心は厳密には分からないが、
後者2.の場合も当然考えられるというのが常識であろう。
 
しかし牧者Bは、後者2.の場合について述べていない。
 
これは信仰者や牧者が信仰的見解に凝り固まって、
それ以外の受け取り方をする余裕や懐の広さを持っていないときに
起こりうることで、配慮不足または片落ちということになる。
 
仮に後者2.の場合、あくまで推測だが、
牧者Bのコメントを受けて
Aさんの反応は
「信頼という意味で書いたのに・・・」と
がっかりするか、
「「信じる」と書いてはいけないんだ」と真に受けて、
素直すぎる自戒をするか、萎縮するかであろう。
 
人と人とは、まるで
「信頼と裏切り」、「愛と憎しみ」で
成り立っているかのような世の中である。
 
信仰を語ることは
世の中や日常を語ることにもなるのだし、
また
信仰を語り合う場といっても
殆どが日常語を使っているのだから、
牧者が信仰用語にこだわりすぎて
日常語的意味を忘れているようでは、

語り合うことに余計な緊張を強いられることになる。
 
このコメントの遣り取りの場合、
その気さえあれば、
誤解を解くことも確認しあうことも
難しいことではない。
 
しかし信仰について深く語ろうと思えば思うほど、
このような簡単な用語の使い方だけでは済まされないような
深刻な問題が起こりうるということを痛感している。
 
信仰者は、「キリストに帰れ」と唱える前に、
「人間に帰れ」「人間であれ」「人間としてキリストに帰れ」
ということを言いたくなる所以である。
 
(2011年06月26日)
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そういうわけで?・・・一連の私の記事のような
ややこしい文章を書かざるを得ないことになるのであります。
 
 
 
 

コメントを封殺された者としては
ここに書くしかないのだが・・・
 
讃美の家:書庫「土の器」→記事「赦されて生きる」
 
>私たちもまた神様に背いてしか生きることのできない弱い者ですが、
>このイエス様をとおして示された神様の愛を受け入れるとき、
>しなやかでありながら岩のように微動だにしない生き方へと変えられます。
 
他の聖職者の聖書的言葉を借りている。
引用の目的と意図は、恐らく、
「しなやかでありながら岩のように微動だにしない生き方」
をキリスト者に説くことと
自らに擬(なぞら)えたいのだろう。
 
日付は下の記事「粘土細工」の翌日である。
「石灰」「粘土細工」と書いたことへの
当てつけのようではあるのだが・・・
 
 
                         しなやかな岩?
 
 
             「しなやかでありながら岩のように微動だにしない生き方」
                  「岩」の名を持つのは使徒ペテロである。
                      この表現の微妙さ以上に
 
                    「しなやかであり」の偽りは既に
               反対意見を封殺する行為に表れているのだから
                    「岩のように微動だにしない」は
             怖いほど硬い頑なさに過ぎないことは明らかなのだが
                      恐らく人間として自分で
              信仰について考える心も言葉も失っているのだろう
 
                            信仰も
                    ここまで自己防衛と正当化に走って
                       内省~訂正不能になると
                    自己満足から自己陶酔に至っていて
                       返す言葉に戸惑いを感じる
                           何故なら
             何を言っても自己満足で悦に入る人が相手なのだから
 
                 この路線でどこまでも行くつもりなのだろうか
 
                        (2011年06月26日)
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むしろ心配である。
前に危惧していたことだが
牧者を信じる人まで現れてきている。
それが人として信頼することであったとしても
 似たような信仰者
お味方の数に頼みつつある状況なのではないだろうか。
宗教人と信仰者の怖さを見る。
 
 
 
 

一部旧作を借りています。
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粘土細工
 
 
反応がない
貝になりたいのか
でも貝のようで貝ではない
無遠慮な発言だけは続けている
 
人の気持ちが分からなくなっているらしい
 
批判する者を悪魔に見立てて
「何を言われても安らかです。聖霊が守っているから」
くらいのことは言いかねない
神がかりの人間離れの
宗教人の怖さの典型を見る
 
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように影を好み
知らぬ間に蔓延(はびこ)ってゆく
それゆえ暴かれると
あるいは密かに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せつける
 
反論もしなければ
内省もしないところに
深まるものなど何もない
 
やっていることは傍若無人の極みであるのに
イエスマンに対してだけ快く
バランスのとれた穏やかな人を演じ続けている
 
言論の反応と違って
為したことが暴力であるから
それを改めず気にもせず
継続していることも暴力である
 
傍らに人を発狂させながら
一生暴力のままなのだろうか
それで聖なる御方について語れるつもりなのだろうか
非暴力の生涯を貫いた御方の
しもべをずっと気取るつもりだろうか
 
気づきすぎる不幸もあるが
まるで無機質の石灰のように
気づくことを捨てた不幸を見ている
 
信仰者の怖さの典型を見る
動じないことと固執することは違うのに
「岩」の名を持つ聖人の真似をして
石灰が粘土細工を身に着けて
人の信仰を
人の血と涙を育てるつもりでいるようだ
 
(2011年06月23日)
 
 
 
 

封じられ、承認されない私のコメント:
 
>この辺りでコメントは終わりにしたいと思います。
とうとう承認制にしましたか。しかも「終わり」とは・・・
私のコメントは、やはり、敵の攻撃と見做されたようです。
>お元気で!
虚偽の挨拶、白々しい皮肉です。
これが「圧力」と「無視」の態度というものです。
正面を向いて話そうとしない人の結論と判断します。
もう何の期待もしないので、ご心配なく。
2011/5/21(土) 午後 6:25[ st5402jp ]
 
 
シャロム様に、私は、今すぐ考え、今すぐ結論を出せ
とは書いていないのですが・・・残念です。
コメント承認制は、管理者の権限ですが、
それはコメントの選別であり、不都合なコメントの不可視化~削除
という体質を管理者が持っている証拠でもあります。
私は「荒らしコメント」「迷惑コメント」を書いたつもりはないし、
大方徹夜に近い状態でも書かずにはおれず、真剣に真面目に書いてきたつもりですから。
2011/5/21(土) 午後 6:46[ st5402jp ]
 
 
コメント承認は得られないようですね。
 
ここのコメントを私のブログに載せたいと思いますが、
1.HNとブログ名を出して可
2.HNとブログ名を出さないことを条件に可
3.許可しない
いずれか、お答えください。
目的はもちろん批判のためです。
2011/6/21(火) 午後 1:43[ st5402jp ]
 
 
>人が自分を神の位置におくことは自分を神とすることにほかなりません。
 
人の犯しうる罪でこれ以上の罪はありません。
なぜならすべての罪はここから生み出されるからです。
私たちは何気なく、自分の善悪の基準で、他の人を裁いたり、
しばしば自分自身をも裁き、罪責感で苦しんでいますが、
そのとき自分の本当の姿が見えなくなっているのです。
 
それは正義を装ってイエスを陥れようと、またイエスの前に引きずり出された女に向かって
石を振り上げている人たちと同じ姿ではないでしょうか。

 
具体的に石を投げ、人の口を殺したのは誰でしょう。
2011/6/22(水) 午後 9:36[ st5402jp ]
 
 
「石を投げ」は強制力の譬えです。
私はあくまで言論で批判しました。
あなたは言論の場で、言論で批判するのではなく、
強制力を使いました。福音伝道、キリスト信仰を語る場で。
よく引用のようなことを記事にかけますね
・・・あなたによって、私は
呪いに定められたように生きてゆかねばならないのです。
2011/6/22(水) 午後 10:00[ st5402jp ]
 
 
もう私は獄につながれても死んでもいい。
名指しで記事にします。
2011/6/22(水) 午後 10:10[ st5402jp ]
 
 
またですか・・・記事「本音と建前」
>その本音が自分の心に隠された痛みや悲しみや憎しみや怨念を伝えるべき相手をかえりみず、
>表現していることに気づくことはそれほど容易ではないようです。
>自分の言い分、行為は絶対正当だと信じて疑うことがほとんどできないようです。
>だれでも陥りがちなことですが、本音を隠ぺいするための建前に陥ってしまっているのです。
>ですから自分に対して、あるいは他者に対して、物事に対して
>…すぎる言動をしている時には要注意ですね。

自分のしたことを省みず、棚に上げて、よく書けるものです。
心いっぱいの悲しみを添えて、そっくりそのままお返しします。
2011/6/23(木) 午後 5:18[ st5402jp ]

(2011年06月22日)
(2011年06月23日、加筆)
今のところ以上です。
 


ますます面倒くさいことになってきました。
>読まれる方がどのように感じられるかはわかりませんが
>きっと読まれる方それぞれでしょうね。
シャロム様の記事にしても、他の人の記事にしても、
どう読んでほしいという想定と期待を込めて書いておられるのは
シャロム様に他なりません。
>st5402jpさんはそのおひとりということです。
もちろん私は「その一人」に過ぎませんが、
まるで読んだ側の自由と自己責任に任せ、
書いた(あるいは引用・転載した)側の責任を放棄している
印象になります。今回のレスは全体にそんな感じです。
2011/5/21(土) 午前 5:54[ st5402jp ]
 
他の人の記事の引用や転載には「引用または転載するべきだ」
という選択がなされているはずです。それは
管理者であるシャロム様が選ばれているわけです。
今回のレスは、失礼な言い方になりますが、
「自分ひとりの責任ではない」
「好きなように受け取って、好きなようにやってくれ」
という丸投げ的な、一種の開き直りであり、
投げやりとも受け取れそうな言い方です。
2011/5/21(土) 午前 5:56[ st5402jp ]
 
私は特定の他の人については書いておりません。
このシャロム様のブログの
全体に流れるキリスト者の信仰の在り方について、
人知についての考えが、あまりにも違う点について書いています。
信仰観の違いや、ちょっとした解釈の違いではなく、
「信仰観の違いで済ませるには、あまりにも大きな問題です」
と前のコメントに書いたとおりです。
 
「達し得たところ」については
私においては信仰について考えている途上に過ぎません。
シャロム様もそうおっしゃるのかもしれませんが、違うのは
2011/5/21(土) 午前 5:57[ st5402jp ]
 
人知によって否定も肯定も出来ず、なおかつ
生きることに不可欠ならば信じるしかない。
とブログに書きました。それが信仰ですから。
しかし
シャロム様や、推測として恐らく多くの似たようなキリスト者は、
人の側に根拠のない多くの出来事や解釈について、
いともたやすく神の行いを断定し確信しているように思われます。
そしてそれを「平安」と呼んでいるように感じます。
 
「神の導き」「聖霊の働き」「主イエスの救い」「奇跡」
いずれも聖なる御方は起こせるのだと信じます。
しかし可能と信じるのと違って、
それを個別の肉体や精神の出来事に人が当てはめる確信は
「聖なる御方に対する越権行為」「神を恐れぬ態度」
だと言わざるを得ません。
2011/5/21(土) 午前 6:06[ st5402jp ]
 
この辺りでコメントは終わりにしたいと思います。お元気で!
2011/5/21(土) 午前 7:34[ shalom ]
 
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ここでコメントは承認制になった。
次の記事からは、封じられ、承認されない私のコメント:
(続)
 

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