ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年06月


>なかなかお任せできずに、
>心も思考も静まることがないことで疲れることがよくあります。
>荒波にほんろうされる弟子たちの知識や思考や経験によって
>必死にもがいている姿は自分の姿でもあります。
>イエスの“黙れ、静まれ”の声が届くことが私の願いです。
これは私もよくあることです。
共感を求めておられるのかとも思いますが、
命令形の聖句引用には注意が必要です。
穿った見方をすれば、
「黙れ、静まれ」という聖句を引用して
発言者を黙らせようとする意図とも受け取られかねません。
それは神に対して傲慢であり、
人に対して陰険で無礼ということになりますから。
私の被害妄想ということにしておきます。
 
今お疲れでしたら、おっしゃってくださいませ。
2011/5/19(木) 午前 3:57[ st5402jp ]
 
私はいずれの時、イエスと顔と顔を合わせるその時までは、肉にあるものとしての未熟さ、弱さ、限界、問題を背負って生きていますが、イエスの十字架の死において、神はそのような私を既に死んだものとして認め受け容れ、愛して下さっていることを喜んでいます。
今は信仰の導き手であり、完成者であるイエスを仰ぎ見つつ歩ませいただいています。
私はわたしの達し得たところに従って、未熟さ、弱さを抱えたひとりのクリスチャンとして生きていこうと思っています。
2011/5/19(木) 午前 7:53[ shalom ]
 
そのクリスチャンとしての信仰の在り方、および、「達しえた(と思ってらっしゃる)ところ」を問題としているのですが・・・まるで敵に迫害されているかのような書き振りです。失礼いたしました。
2011/5/19(木) 午前 10:05[ st5402jp ]
 
私の信仰にはst5402さんの純粋な信仰によれば問題があるとしても、私はわたしの達し得たところに従って歩むほかはありませんのでご容赦ください。イエスはわたしのすべてのご存知ですからイエスにゆだねたいと思います。お気遣いありがとうございます。
あるいは私の信仰の問題によってst5402jpさんが苦痛を感じておられるのであれば申し訳ありません。
2011/5/19(木) 午後 3:28[ shalom ]
 
私が書いた「敵に迫害されているかのような書き振り」というのは「私の」ではなく
「シャロム様が(私に対して)敵に迫害されているかのような書き振り」
という意味です。
前回のシャロム様のコメントが
私のコメントに対するレスにも批判にもなっておらず、
問いかけとは別のような聖書的な言葉で、
まるで敵を(私を?)前にした信仰告白~宣言のような書きぶりだったからです。
シャロム様が「達しえたところ」について確信を持ち、疑うことなく、
絶えず思考し再検討する姿勢をお持ちでないのは残念なことです。
2011/5/20(金) 午後 1:27[ st5402jp ]
 
なお「純粋な信仰」と私が言うのは、ブログに書きましたが、
例えば死ぬ前などの絶望、等々、において、
「信仰の原罪」を考えること自体が無意味になるような
特殊な場合なので、私は「純粋な信仰」を持ち得てはいません。
 
ブログに書くつもりですが、
驚くべき素晴らしい出来事について
「奇跡体験であるという可能性」は、
人知によっては、否定できません。
否定する根拠が、人の側には、ないからです。
しかし
「奇跡体験であるという『人の側の確信』」は、
人知によっては、肯定できません。
肯定する根拠が、人の側には、ないからです。
2011/5/20(金) 午後 1:30[ st5402jp ]
 
長年MLなどでお世話になったシャロム様に食い下がって
厳しいことも書いてきたのは、
シャロム様は牧者であり、
またこのブログを通して、福音伝道者として
他のキリスト者に及ぼす影響も大きいと思うからです。
 
恐らく奇跡体験を、聖書的言葉を、
自己の信仰そのものの本質を内省することなく、
「達しえた(と確信する)ところ」に従って
語ることが福音伝道の使命を果たすことだと
思い込み続ける似たようなキリスト者が
たくさん育ってゆくことでしょう。
2011/5/20(金) 午後 1:54[ st5402jp ]
 
私のブログにはわたしの記事だけではなく、他の人の記事も多く引用して載せています。それらを読まれる方がどのように感じられるかはわかりませんが、きっと読まれる方それぞれでしょうね。st5402jpさんはそのおひとりということです。
st5402jpさんはst5402jpさんの達し得たところに従ってこれまでも歩んで来られたように、これからも歩んで行かれたらいいのではないでしょうか。
2011/5/20(金) 午後 3:41[ shalom ]


「しかし希望は絶望との関係からしか生まれないとブログに書きました。」
 
十字架なしには復活はないのですから。
イエスの十字架は私たちの罪のあがないであり、わたしたちの人間としての絶望を明らかにしていると思います。
イエスの十字架の死とよみがえりと生けるイエス(聖霊)に希望の根拠があるのであって、私の信仰に希望があるとは考えられません。
私の信仰はおっしゃる通りこの世にある限り、信仰の原罪という鎖から自由ではないからです。しかし、いずれかの時、イエスにある完全な自由を与えられる希望に生かされています。
2011/5/17(火) 午後 0:56[ shalom ]
 
>十字架なしには復活はないのですから
唐突なコメントのような気がします。
これがレスになるようなコメントを私は書いた覚えがないのですが・・・
>イエスの十字架の死とよみがえりと生けるイエス(聖霊)に
>希望の根拠があるのであって、
これが信仰なのではないかと・・・
>私の信仰に希望があるとは考えられません
したがってこの行は「私の」を強調された否定なのでしょう、
でないと発言が矛盾しますから。
>この世にある限り、信仰の原罪という鎖から自由ではないからです。
シャロム様の「信仰の原罪」と私のそれと、
遠いのか近いのかも、これだけだと、よく分からないです。
・・・無理にどうこうと言うつもりもないです。
>しかし、いずれかの時、
>イエスにある完全な自由を与えられる希望に生かされています
多少めんどくさくなられましたかね・・・
主にお任せするのは信仰の基本ですが、
与えられた人知である思考停止の傾向を感じます。
一時的な思考停止なら、疲れたときなど、私にもあります。
そしていつか思考する必要もなくなる時が、お互いどちらにも、
いずれ来るのですから。失
2011/5/18(水) 午前 2:55[ st5402jp ]
 
「最後の主イエスの「・・・休ませてあげよう」には、
今のところ一応私も信仰者なので、特に異存はありません。」
 
イエスが休ませてあげようと言われた休みがst5402jpさんの心に届いているのはすばらしいですね。
イエスの十字架(絶望)なしには復活(希望)も休みもないのですから。私はイエスが与えてくださる休みのうちに思考停止できるのもすばらしいと感じています。
 
「主にお任せするのは信仰の基本ですが」
 
なかなかお任せできずに、心も思考も静まることがないことで疲れることがよくあります。
荒波にほんろうされる弟子たちの知識や思考や経験によって必死にもがいている姿は自分の姿でもあります。
イエスの“黙れ、静まれ”の声が届くことが私の願いです。
2011/5/18(水) 午前 7:49[ shalom ]
 
お疲れではないようですから、話を続けます。
>イエスの十字架(絶望)なしには復活(希望)も休みもないのですから。
これはキリスト信仰の誕生についての聖書の話で、
それは今も生きている「聖書解釈」として妥当だとは思いますが、
その信仰をどのように受け取っているか
という人である信仰者の側の
「信仰の原罪と絶望」「信ずるがゆえの罪」の問題とは
離れてゆく方向、問題回避の方向だと思います。
2011/5/19(木) 午前 2:48[ st5402jp ]
 
「めんどくさくなって疲れた」というレスなら、私にもあるし、
人間的といえるけれど、
>私はイエスが与えてくださる休みのうちに思考停止できるのも
>すばらしいと感じています。
それはすばらしいことですが、
「思考停止」が主イエスから与えられたかどうかを
確認する手段は、人の側にはありません。
自分の不快感からの逃避や問題回避、
自分の都合による思考停止に過ぎないかもしれないのですから。
 
シャロム様は信仰の理想を語ってらっしゃるということなのでしょうか。
ならば私は信仰を受け取る側の考え方を語ったと申し上げておきます。
2011/5/19(木) 午前 2:49[ st5402jp ]
 
ましてや
>イエスが休ませてあげようと言われた休みがst5402jpさんの
>心に届いているのはすばらしいですね
と、人のことにまでそれを当てはめようとする、また、
当てはめることが出来ると思ってしまう、
キリスト者にしばしば見られる体質を問題としてきました。
 
それと、シャロム様が前コメント引用部で
理想や希望を語っておられたのなら、上の
「イエスが休ませてあげよう・・・届いている」
というコメントはないはずです。
私はこの聖句を知っていますが、私の一時的思考停止がそれだ
とは書いていません。
 
そういう体質が、人に起こった出来事を
「聖なる御方」と結び付けて確信を持ってしまうからです。
これは主イエスの問題でもなく、聖書の問題でもなく、
これは信仰をどう受け取るかという人知の問題です。
だから体質・傾向・さらには確信というものについて
思い切って語ることが出来るのです。
そこを避けて通ることのほうが、
賜物としての人知を人が自ら損なってしまうことだと思います。
2011/5/19(木) 午前 2:57[ st5402jp ]
 
(続)
 


>主イエスご自身には
>「聖書的言葉絶対という上からの圧力」
>「異なる人や世界の軽視~無視の態度」を見出すことはできません
私は「主イエスに(その圧力・態度を)見出す」とは書いておりません。
ここではシャロム様ということになりますが、
誰についてかというと、キリスト者全般です。
 
次のコメントもパウロの改心についての話ですから、
1番目と同じコメントをお返しするしかありません。
2011/5/17(火) 午前 1:47[ st5402jp ]
 
今ブログに載せる「純粋な信仰」という記事を書いている途中です。
まだ文章の体をなしていませんが、
1.「信仰の原罪」を突き詰めて、
「信仰が罪ならば、いったい何を信じれば良いのだ」と叫ぶとき
2.非常な苦難の中にいて死を思ってしまうような状況
3.死が間近に迫っている時
 
1.は思索による絶望、
2.3.は状況や境遇による絶望
3つに共通するのは絶望です。
こういうときでも信仰も祈りも捨てられない人がキリスト者です。
ここにおいて、まさしく理屈抜きの信仰は
一番「純粋な信仰」に近くなると思います。
 
しかしいつも絶望して生きるわけにはいきませんから、
そこそこ無事に過ごしているときには、
今の「自分の信仰の原罪」を自覚するのとしないのとでは
「自分の判断や解釈を神の言葉として正当化するかどうか」
の問題となります。また、それによって
「他者を上から圧するか軽視するか」という問題にも関わってきます。
2011/5/17(火) 午前 1:51[ st5402jp ]
 
>このような聖書に表明されたパウロの言葉も
>人の論理を超えた「言い放って終わり」・・・のようですね。
述べたように私は、二千年前の、今は聖人とされているパウロ
について述べているのではありません。
今回シャロム様からコメントを頂きました。それは
聖書的な話に終始していることに変わりはないけれど、
「言い放って終わり」とは今のところ違うだろうと推測する
と申し上げておきます。失礼いたしました。
2011/5/17(火) 午前 1:54[ st5402jp ]
 
「私が書いた
「信仰の原罪」のどんでん返しは死ぬ時まで起こりません。
たとい自覚しても、その罪は常態であって、
どんでん返しは起こらない本質を持っていると考えます。」
 
それがst5402jpさんの信仰なのですね。
その絶望のなかで「信仰も祈りも捨てられない人がキリスト者」として生きておられるのですね。
「ここにおいて、まさしく理屈抜きの信仰は
一番「純粋な信仰」に近くなると思います。」というご自分で純粋だと考えられる純粋な信仰に生きておられるのですね。
2011/5/17(火) 午前 7:44[ shalom ]
 
そういう純粋な信仰に生きていると、
 
「自分の判断や解釈を神の言葉として正当化する」
また、それによって
「他者を上から圧するか軽視する」ことは
 
純粋な信仰に生きる絶望の上にさらに絶望を積み上げられるように感じられるかもしれませんね。すみません。
 
律法はすべての人に罪の自覚をもたらし、イエスとの出会いに導きますが、律法主義は純粋に生きようとすることによって自己の不純を赦すことが出来ない自己義認をもたらし、同時に人に対する過酷なさばきに生きるように導きます。
 
それは信仰においても言えるかもしれません。
自分が自分であることを赦さない、受け容れないことに対する絶望を背中に背負い、背負わされて生きているのが人間なのでしょう。
 
イエスはそのようなわたしの十字架を負い、私のところに来なさい、休ませてあげようと言われたのですね。有り難いことです。
2011/5/17(火) 午前 7:44[ shalom ]
 
私はそれほど純粋な信仰に生きているとは言えません。
なかなか更新のないV様のブログにも書いたのですが、特に最近は
「神について人は何を知りうるか」よりも
「神について人は何を知りえないか」のほうにこだわって
「人にとって可能な信仰とは何か」を考えています。
昔から、このことにこだわっていたような気がします。失礼。
2011/5/17(火) 午後 0:04[ st5402jp ]
 
どんでん返しは「肉の罪」においては、パウロに起こったように
私たちにも起こるでしょう・・・希望として・・・。
しかし希望は絶望との関係からしか生まれないとブログに書きました。
最後の主イエスの「・・・休ませてあげよう」には、
今のところ一応私も信仰者なので、特に異存はありません。
2011/5/17(火) 午後 0:10[ st5402jp ]
 


>人にはまったく理解できないのでしょうから、
>きっとイエスをお遣わしになられたのでしょうね。
私も外国語は分かりませんし、
神の言葉を証しするために主イエスが遣わされた
ということには同意できますが、
主イエスの言葉も聖書の言葉ですから上と同じことになります。
 
私は神を信じ、主イエスを信じ、聖霊を信じます。
しかし信仰すべてにわたって自分の解釈と判断が伴います。
自分の解釈と判断を信仰するということは
自分を信仰することに他なりません。
それは明らかに的外れの罪だと考えます。
 
だからといって解釈も判断もせずに信仰生活は成り立ちません。
したがってその罪は人の信仰の本質的な不可避的な罪であり私は
それを「信仰の原罪」とブログに書きました。
そして「信仰の原罪」を自覚するか自覚しないかを
信仰観の違いで済ませるには、あまりにも大きな問題です。
2011/5/16(月) 午前 1:52[ st5402jp ]
 
ここのコメントを、シャロム様のコメントは省略しますが、
私のブログの記事にするかもしれません。
2011/5/16(月) 午前 2:42[ st5402jp ]
 
「私は神を信じ、主イエスを信じ、聖霊を信じます。
しかし信仰すべてにわたって自分の解釈と判断が伴います。
自分の解釈と判断を信仰するということは
自分を信仰することに他なりません。
それは明らかに的外れの罪だと考えます。」
 
本当にそれは不可避な問題ですね。
ですからパウロは十字架につけられたイエスを信じることはイエスと共なる自己の死を受け容れることであり、肉にある限りイエスから遠く離れているとも述べ、ああ、われ悩める人かなと嘆き、しかし、だからこそ、最後には、ああ、神は感謝すべきかなと書いたのですね。
2011/5/16(月) 午前 7:58[ shalom ]
 
そのことをガラテヤ書において「わたしは神に生きるために、、律法によって律法に死んだ。わたしはキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、肉にあってわたしが生きているのは、わたしを愛して私のためにご自身を捧げられた神の御子を信じる信仰によって生きているのである。わたしは神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であったことになる。」(2:19~21)と書いていると思います。
ここでパウロが述べていることは不可避である信仰の原罪のどんでん返しが起こっていることに対する神の恵みに対する感謝だと思います。
このような聖書に表明されたパウロの言葉も
人の論理を超えた「言い放って終わり」・・・のようですね。
 
神の言葉は決して
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」
 
からの出た言葉ではありませんが、人が肉によって生きている限りそのように感じさせられてしまう言葉ではないかと思います。
ほんとうに悩ましい事柄ですね。
2011/5/16(月) 午前 7:58[ shalom ]
 
「神の言葉を証しするために主イエスが遣わされた
ということには同意できますが、
主イエスの言葉も聖書の言葉ですから上と同じことになります。」
 
主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
主イエスご自身には
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」を見出すことはできません。
2011/5/16(月) 午前 8:10[ shalom ]
 
使徒パウロではなく、かつてのパリサイ人、迫害者サウロは
「聖書的言葉絶対という上からの圧力」「異なる人や世界の軽視~無視の態度」によって生きていて、恐るべき信仰の原罪のもとにあったということが出来るかもしれません。しかし、イエスご自身との出会いによってどんでん返しが起こったということではないかと思います。
2011/5/16(月) 午前 8:19[ shalom ]
 
>イエスを信じることはイエスと共なる自己の死を受け容れることであり
>肉にある限りイエスから遠く離れているとも述べ
>神に生きるために、、律法によって律法に死んだ
これらの罪は、古い律法主義が陥る罪か、
この世に肉体を持って生きているがゆえに犯す罪でしょう。
 
私が「信仰」と言うとき、それは当然キリスト以降の、
まさに現代のキリスト(教)信仰のことです。
ですから私が述べた「信仰の原罪」を
>不可避である信仰の原罪のどんでん返しが起こっている
>ことに対する神の恵みに対する感謝だと
このように使われるのは心外です。私が書いた
「信仰の原罪」のどんでん返しは死ぬ時まで起こりません。
たとい自覚しても、その罪は常態であって、
どんでん返しは起こらない本質を持っていると考えます。
2011/5/17(火) 午前 1:43[ st5402jp ]
 
したがって
>「聖書的言葉絶対という上からの圧力」
>「異なる人や世界の軽視~無視の態度」
>人が肉によって生きている限り
>そのように感じさせられてしまう言葉ではないかと思います。
これも上の肉の犯す罪のことでしょう。
でも、これを「信仰の原罪」と見做して
止むを得ない罪と判断してしまうとき
思考は停止してしまうことになります。
 
>主イエスの言葉も聖書の言葉ですからではなく、
>主イエスご自身が神の言葉ですからではないかと思いますが。
その主イエスの言行録を述べているのは聖書です。現代において
主イエスから直接聞くことのできる人はいないと思います。
2011/5/17(火) 午前 1:45[ st5402jp ]
(続) 
 


讃美の家「7×7×10=無限」コメント

関係ない他の人のコメントは載せていません。
私のコメントも、些細なことから始まっており、
論理の破綻も多々あるでしょう。
 
怒りには健全な怒りもあるようですね。怒るべき時に怒りを抑圧するとかえって血圧をあげてしまうようですが、怒っても罪を犯してはならないと聖書には書かれているようです。罪を犯すというのはつい自分を神のような位置においてしまいやすいということでしょうね。やはり最後にはイエスのように手離して生ける神の御手にゆだねることが一番良いようですね。
2011/5/12(木) 午後 8:45[ shalom ]
 
同じ記事のようです・・・「完全数7」、
「完全数6」も割と知られているのですが、
「完全数7」は古くから広く使われていたのでしょうか・・・
聖書的完全数とか、天地創造にまつわる「総て」「完全」
を意味する数「7」とかの説明、言い方はなさらないようです。
このブログの中では誤解の恐れはないと思いますが、
子供~少年が「完全数は7」「いや6(、28,496)だ」
と教えられて、間違いやすいような気がしますが、
二度も書かれると頑固さに負けて、
こちらが「数学的完全数6」と書くしかないようです。
何故こんなことに引っかかるのかと考えてみると、
同音異義語があるのに説明なしお構いなしという態度に
聖書的言葉絶対という上からの圧力を感じるとともに、二度目ですから、
それが異なる人や世界の軽視~無視の態度につながる危惧を
感じているからかもしれません。失礼いたしました。
2011/5/15(日) 午前 10:25[ st5402jp ]
 
時々以前投稿した記事を再掲載しています。
確か前回も質問をいただきましたね。
私はよく知らないのですが、完全数というのはユークリッドによって名づけられた数だそうですね。
同じ言葉を使われてはいますが、ご承知のようにキリスト教信仰における完全数は数学的完全数の意味ではなく、神による天地創造の完全に基づくものだという信仰の表現なのではないでしょうか。
 
「聖書的言葉絶対という上からの圧力を感じるとともに、二度目ですから、それが異なる人や世界の軽視~無視の態度につながる危惧を
感じているからかもしれません。」
 
私は恥ずかしながらあまり知識がないために、説明の必要も感じませんでしたし、
また「異なる人や世界の軽視~無視の態度」になるともまったくわかりませんでしたが、そういうふうに受けとられることもあるということなのですね。こちらこそ失礼いたしました。
2011/5/15(日) 午後 0:02[ shalom ]
 
聖書の言葉は神のことばであるという信仰なしには聖書のことばを神のことばとして理解することは難しいのでしょうね。神の言葉なのだから神の言葉で書かれることになればいちばんいいのでしょうが、同じ人間の言葉であっても外国語すら理解できませんし、それはもう人にはまったく理解できないのでしょうから、きっとイエスをお遣わしになられたのでしょうね。
2011/5/15(日) 午後 0:14[ shalom ]
 
>確か前回も質問をいただきましたね。
あのときの私のコメントも唐突だったかもしれませんが、あのときの
shalom様の「言い放って終わり」みたいなレスが今回の私のコメント
に関係しているかもしれません。
「言い放って終わり」・・・似たようなことを何度か感じました。
ユークリドかどうか私は知りませんが、
「完全数」の問題自体は些細なことに過ぎません。
しょうがないので記事に「完全数」が出てきたときには私が
「聖書的完全数」と「数学的完全数」という同じ漢字熟語で
違う内容(数値)の言葉があることをコメントで、気がつく範囲で、
違いを説明するしかないようです。
2011/5/16(月) 午前 0:08[ st5402jp ]
 
>聖書の言葉は神のことばであるという信仰なしには
>聖書のことばを神のことばとして理解することは難しいのでしょうね
私のブログの訪問者履歴にshalom様(以後シャロム様)の
名前がありましたから、私が「聖書は人の言葉」と書いたことも
ご存知であるならば、若干狙い撃ちという感がありますが、
私の言いたいことは、
「聖書は神の言葉」を私も信じている一人です。しかし
人が聖書に触れるとき必ず咀嚼し解釈せざるを得ないので、
結局、人の言葉として扱っていると言わざるを得ないという意味です。
それゆえ上の引用の「聖書の言葉は神の言葉であるという信仰」は
「聖書の言葉を自分が解釈した言葉は神の言葉」という信仰になり、
それは思い込み~傲慢と考えます。
2011/5/16(月) 午前 1:14[ st5402jp ]
 
(続)

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