ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年07月

「讃美の家」批判10:
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」
未承認コメントの続き
 
聖書のみ言葉の黙想→「イエス信仰と人依存」
 
記事全体としては
牧者などの人に依存した信仰の在り方を
信仰は神との関係だという正しい方向へ導こうとするものですが、
あなたが語れば以下のような感想~批判にしかなりません。
 
>人に依存している時、わたしたちは自分の問題と責任が
>人にあると信じて疑おうとはしません。
 
人と人との間で起こった問題の責任が
人にないとでも言うのでしょうか。
人間関係というものを考慮に入れていない言葉です。
 
「自分は人に何をしても許される。自分に責任はないから。」
と言っているようなものです。
2011/7/9(土) 午前 3:18[ st5402jp ]
 
>わたしたちが過去体験した怒りや悲しみ、
>怨念、挫折感、無力感、罪責感によって
>背負わされ自分が自分であることを否定され、
>自分を生きることのできない心の苦しみ、
>悲しみの為に、人への深い怒りと不信によって
>人の支配によって呻き苦しんでいるからのようです。
 
苦しみの種をまいたのは自分であるのに
「苦しんでいる人のほうが悪い」と言っているようなものです。
苦しませているのは、あなたのひとつの行為であり、
また支配しようとしているのは、あなたであるのに・・・
 
あなたにだけは言われたくない言葉です。
2011/7/9(土) 午前 3:20[ st5402jp ]
 
>わたしたちの苦しみや悲しみの問題と責任は人にある
>という偽りの真理と怒り、裁きを捨て去る必要があるようです。
>なぜならそれが人に対する依存の鎖だからです。
>すでにイエスによって鎖は砕かれているのです。
 
あなたは片足で人を踏みつけながら、
それを人に見えないように隠しながら、
見えないまたは見ないことをよいことに平気で説教をして、
「苦しみや悲しみの問題と責任は人にあるというのは偽りだ」
と言っているようなものです。
 
したがって「裁きを捨て去る」というのは
片足で人を踏みつけながら
そういう自分に責任はないから責めることをやめよ
と言っているようなものです。
2011/7/9(土) 午前 3:23[ st5402jp ]
 
原因が残り続けていて何も解決していないのに、
人に対して、現に続いている問題を問題にするな
と言うようなものです。
 
あなたが自分の足の下に踏み潰したもの、つまり
あなた自身の問題を正視することをやめたときから
・・・ずっと・・・
 
自分が踏みつけた足元が血まみれで腐れかけているのに、
あなたは清潔な服を着て人に語れるのでしょうか。牧者よ。
 
祈りと黙想の場においても、あなたが
「イエスによって鎖は砕かれている」という信仰で、
許しを祈り、許されることを感謝し讃美するような
白々しい場面が想像されるだけなのです。
 
原因がなくならない限り、結果がいかに空しくとも、
批判を書き続けざるを得ません。
2011/7/9(土) 午前 3:26[ st5402jp ]
 
「赦し」と書かずに「許し」と書いた理由は分かりますよね。
これからも解決策を講じようとは思いませんので、
そのことを「前もって許可」してくださいという祈りになるからです。
2011/7/9(土) 午前 3:38[ st5402jp ]
 
(2011年07月09日)
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「膨れあがる不安」
 
>安心、安全を保証していたかのように思っていた大地が揺れ、
>自然が牙を剥いた時、
>豊かな生活、人との関係、社会という保証が幻想だったことを思い知らされ、
>人は生きている者ではなく、
>生かされている者であることに気づかされる恵みの時なのです。
 
死んだ人にどういうつもりなのでしょうか。
被災者は「生かされている者」「恵みの時」と感じるでしょうか。
 
>主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた
 
これを震災に当てはめてよいのでしょうか。
 
感情が、人間から、ずれてはいないでしょうか。
2011/7/13(水) 午後 5:07[ st5402jp ]
 
※ なお上の引用の下部は
旧約聖書詩篇46章8節だが、9節は
「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、
弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。」
という戦争をやめさせる神をたたえているようである。
 
(2011年07月13日、追加)
 
 
聖書の御言葉の黙想→「キリスト馬鹿」
 
>そもそもキリスト教信仰は人間にとっては奇想天外な信仰なのです。
 
同意します。
 
>クリスチャンという呼び名の由来は
>キリスト馬鹿というあだ名だったのです。
 
「キリスト馬鹿」?
 
自分を「馬鹿」と呼ぶ人は、
へりくだる人であって、
人を下に見る「上から目線」を持ちません。
 
したがって
「キリスト馬鹿」は
人の意見を封殺するような行為をしません。
 
あなたは「キリスト馬鹿」ではなく
「キリスト権威」なのです。
 
あなたは、また白々しい嘘をつきました。
2011/7/18(月) 午前 1:21[ st5402jp ]
 
(2011年07月18日、追加)
 
 
 


ジッチャンは
 
 
ジッチャンだけど
いつまでたっても子供だよ
未熟だってことだけど
自分が分からないから
枠とか当てはめたりしない
こうでなければ、こうであれば
なんて
確かなもの何もないから
情緒不安定で
怠けもんで
ほおうっとしていて
力が抜けたり
入ったり
冷めたり熱くなったりする
もう足腰は衰えたけど
野球したくなったり
目うすくなっても液晶にらみつけたり
口あけて首をどちらかに
だら~んとして
じっとしていても
いつまでもってわけにはいかず
何やら落書きして
空しさに
空しさをうめてゆくんだ
あるかなきかの
夜の六等星
昼間の星
見られることなく
見ることなく
めぐる日々のいつまでか
たたずんでジッチャンは
おかしな顔しているさ
 
(2011年07月06日)
 
 
 
 

「讃美の家」批判9 : 未承認コメントの続き
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」
 
 
無題→「弓と矢」
 
また、他人の記事を引用して、パウロになぞらえて、
 
>キリストでなく、教会や、牧師・神父や、先生や、
>信仰仲間に引きこまれては矢は飛ばない。
 
キリストでなく、あなたが放った矢は、私の
胸に突き刺さったまま、血を流し、抜けようもない。
 
>使徒パウロは、キリストに引きこまれる度合いが、なみ外れて大きく、
>キリストを喜ぶ深さが絶大だったので、
>あんなに遠くローマまで弧を描いて飛べたのだ。
 
>いまのクリスチャンも、自分たちが「救われた」と喜んでいるばかりではなく、
>遠く世界へ放たれるキリストの矢になろう。
>自分の生活のまわりに突き刺さる矢になりたい。
>自分以外の、なにがしかに関心をいだく「飛ぶ矢」になるのだ。
>ありがたいことに、いまはインターネットに乗って、世界中へ矢は飛べるのだ。
 
パウロや世界のことは考えても
自分がネットで身近に放った矢のことは無視したままのようです。
 
>「お前の左手から弓を叩き落とし、右手から矢を落とさせる」
>(エゼキエル39・3)
 
また聖句単独一句引用・・・強烈な皮肉です。
2011/7/5(火) 午前 2:42[ st5402jp ]
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「足ることを知る」:これも別の牧者の記事の引用
 
>生きるということは選択の連続と言えると思います。
>たとえ思いがけないことが起こっても、
>それに対してどのような行動を選択するかは自分の責任です。
 
身近な、ひとつの出来事について
その自分の責任を全く無視しているのは、あなたです。
 
>使徒パウロは獄中からピリピの人々へ次のように書き送っています。
>「私は乏しいから、こう言うのではない。わたしは、
>どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
>わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。
>わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
>ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
>私を強くしてくださる方によって、何事でもすることが出来る。」
>(新約・ピリピ人への手紙4章11~13節)
 
まことに手段を選ばず、あなたは何事でもすることが出来るようです。
そしてそれを、またパウロになぞらえて、
「私を強くしてくださる方」によるものだと確信して
迫害されている者を演じているのは、あなたです。
2011/7/5(火) 午前 2:44[ st5402jp ]
 
 
土の器→「人間を救うのは」:これも別の牧者の記事の引用
 
>どんなに厳しい事態を前にしても、
>神ご自身が立てて送り出してくださるのでなければ一切は虚しい、
>との献身の原則が示されています。
>何故なら、福音宣教とは宣教する者の思いや感情を伝えることではなく、
>派遣するお方(神)の意志を伝えることにあるからです。
>真に、人間を救うのは、伝道者なのではなく、神ご自身だからです。
 
福音伝道を語り続けるつもりならば、その前に
あなたには為すべきことがあるはずです。
 
さて人間を壊すのは神ご自身でしょうか。
ひとつの出来事について
そう言いたいのであれば神のせいにする卑怯な言い訳になります。
まことに
人間を壊すのは、最終的には神ご自身ですが、
ひとつの出来事については、神ではなく、あなた自身です。
まことに
私は傷み壊れましたが、
神ご自身の救いによって
完璧に速やかに壊される日を待ち望んでいます。
2011/7/5(火) 午前 2:49[ st5402jp ]
 
 
どの記事も、それなりに福音伝道に適っているように思えます。
しかし、あなたが選び引用した記事として読むとき、
あなたが踏み潰した一つの信仰を無視し続けている間は、
嘘と欺瞞が、隠れていても明らかになってしまいます。
 
福音伝道を語り続けるつもりならば、その前に
あなたには為すべきことがあるはずだからです。
2011/7/5(火) 午前 3:00[ st5402jp ]
 
 
隠し通しますか。それとも、
しまいに全部、最初から無かったかのように
根こそぎ削除してしまいますか。
恐ろしい予感がしています。
2011/7/5(火) 午前 3:09[ st5402jp ]
 
 
PS:
前と、前の前のコメントなど、以上より、
批判の対象にしかならないのです。
2011/7/5(火) 午前 3:20[ st5402jp ]
 
(2011年07月05日)
 
 
無題→「自転車とキリスト信仰」
また別の人の記事の引用ですか。
自転車に例えて
>チリン、チリンとベルを鳴らすと、
>うしろ向きにならんで歩いているかたがたも、道をあけてくださる
>キリスト信仰で生きるこつがわかると、すいすい走れる。
 
この記事を書いた人を私は知りません。
信仰についての例え話として昔は読めたでしょう。
せいぜいコメントを書いても
「事故を起こすこともあります」という程度でしょう。
しかし、あなたによって引用されると、私は
「あなたはこの例え話から、かけ離れている」
という動機で批判を書かざるを得ません。
2011/7/6(水) 午前 3:11[ st5402jp ]
 
「道をあけてくださる」「すいすい走れる」ですか・・・
あなたは既に故意の人身事故を起こしています。
しかも、あなたが示談(和解)もしようとしていないので、
追突され脇に飛ばされ放置されて大ケガしたままです。
・・・という例えで返すしかありません。
 
恥でなければ、言い返すか、
少なくとも隠す必要はないはずです。
きれいな見かけのままでないと気が済まず、
どこまでも恥を残したくないのでしょうね。
神はすべてをご存知であるのに・・・無駄か・・・
2011/7/6(水) 午前 3:13[ st5402jp ]
 

(2011年07月06日、追加)
 
 
聖書のみ言葉の黙想→「優先すべきもの」
 
>イエスは言われました。
>「ただ、内側にあるものをきよめなさい。
>そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。」
>(新約・ルカによる福音書11章41節)
 
あなたには内側に隠したものがあります。
封じ込め隠蔽する行為は清いのでしょうか。
あなたは引用する御言葉を裏切っています。
外側だけ清く見せるパリサイ人は誰でしょう。
2011/7/8(金) 午前 1:49[ st5402jp ]
 
(2011年07月08日、追加)
 
 
 


ゆく夢
 
 
未来は砂漠の蜃気楼を
羊がふらついて歩いている
 
過去は洞窟を色違いに塗り変えた
あれはあったのか
本当にあったのか
 
今は失われる
色も、形も
ヒト、人、人間
モノ、物、動くもの、止まるもの
 
食うことも出すこともなく
何も必要ではなく
何も期待されず
ゆえに何も失望されず
 
ぼんやりと有るか無きかの意識で
大きく映るスクリーンに
この世を眺めることができたら
 
心気は霊のようなものになり
洞窟を染めて
羊に乗って
姿を涙ぐんでなくしながら
フワフワしていたい
 
(2011年07月03日)
 
 
 
炎症
 
 
炎症は燻(くすぶ)り続けているので
矢も盾もなく異国語のように甲斐なく叫ぶ
へぶりぎゃぶりぎゃあ
鎮痛剤は歯痛に働き
飲みすぎた抗生物質が胃から臭ってくる
ボツリヌスは耐性に痺れたまま
あらゆるトキシンはペニシリンは
病気が当てはまる不審者に親しみながら
冤罪のスキームで常同の書類を呼ぶ
溶かせるものがあるならば
吊るされたドクターの膿(うみ)を出したい
牧場に散らばる羊飼いの糞が
通りがかりの風に乗せて
実の生(な)る木の対称を崩して
異境の象形を鬼籍に収めんとするは
鎮まるものがないからか
燻(いぶ)し出された不協和の傷が
さびしい夕陽の眼差しに冷めて
次の発病のために
町から遠く
癒しの種を土中に葬るまでは
奇声の熱は夜に任され
サイコの草原に隠されてゆく
束の間ひっそりと暗闇の質量に
 
(2011年07月03日)
(2011年07月05日、若干修正)
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ポエムらしいポエムを、と思っていたけれど、私らしく、
結局奇怪なものになりました。失礼・・・

人から聞いた話ですが、昔、外国の人に英語で何か聞かれて、
日本の高校生が、英語が分からないものだから、
へぶりぎゃぶりぎゃあ・・・と、やけくそで言って、
外国の人は肩をすくめて去っていったそうです。(笑)
中学と高校で英語は習ったけれど、私も
英会話、聴いて分からず、しゃべれません。(苦笑)
日本人の若者が英語で話しているのをテレビなどで見ると
うらやましい・・・といっても私は努力しなかっただけで、結局は
母国日本語のコミュニケーションにも不自由してるのに気づくことになって
伝わらない、伝わってこない・・・へぶりぎゃぶりぎゃあ・・・(悲・苦笑)
 
 
 
 


過激に
 
 
信仰は過激でなければならない
もちろん暴力という意味ではない
いかなる場合も強制力は不可である
 
微笑みを絶やさず柔和に
などというのは
自らの失敗に気づかないだけだ
 
話し合うことに
人によって気遣いは必要だが
遠慮や忌憚があってはいけない
疑問を抑えこんではいけない
信仰は本質的に
人の側からは
自発的でしかありえない
だから
不穏当である・・・などと
一方的に判断して
自発的なものを抑え込んだり
排除したりするのは
自らの傲慢に気づかないだけだ
 
話し合うことは深めることだから
自分の都合に信仰の名をつけて
話を取捨選択するのは
自らの不遜に気づかないだけだ
 
へりくだる姿勢というのは
神に対して自らを低めることだ
神を恐れることだ
人に対しても何も強いることなく
また自分の思いで
神や人を決め付けないことだ
だから口数の少ないことや
控えめであることと勘違いしてはいけない
ましてや何でもありがたがるような
弱者の道徳を教えるのは
自らの尊大に気づかないだけだ
 
それでも傲慢は教え
不遜は微笑み
尊大は優しいだろう
隠れて人を侮辱しながら
 
傲慢・不遜・尊大は
すぐ傍にいて
従属されることを喜び
偽善へ向かう道を
信仰の硬化と破綻という
失敗の典型によって
常に反面教師として示している
 
(2011年07月02日)
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今日はどうしたんでしょう。
もうすぐ死ぬんじゃないだろうか・・・(苦笑??)
 
 
 
 

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