ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年08月

数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/archives/65509108.html?1314708081#comment-form
からの問題
 
第143回「可視領域」
問題
 
広い場所に高さ5.5mの棒が垂直に立っています。
遠くからこの棒に向かって秒速1mでまっすぐ進みます。
上から5mの赤い部分を見込む角度(χ)が30°以上であるように見えるのは何秒間でしょうか?
ただし、目の高さは地面の位置(高さ0m)とします。
 
イメージ 1

解答例 :
 
xを、地面から赤い5mの部分を
見上げる視野角と解釈します。
遠すぎると視野角は小さくなります。
近すぎても、横から見るのに近くなり、
視野角は小さくなります。
その間に視野角x=30°になる2点があり、
2点を含む間でx≧30°になる。
 
解答例1:めんどくさい計算     図1
 
イメージ 2

上図1のように
tanα=b/u ―――――――――――――――――――――(1)
tan(x+α)
=(tanx+tanα)/(1-tanxtanα)=(a+b)/u ――――――(2)
以下めんどくさいので計算は端折ります。(1)(2)より
 
tanx=au/(u^2+b(a+b)) ―――――――――――――(4)
x=30°、a=5、b=1/2 を代入して結局
 
16u^4-1112u^2+121=0
 
という方程式になり、解くと、
u^2=(139±2√4800)/4>0 (u^2は、きわどく正)
そして、64+75=139,64×75=4800より
二重√を外すことが可能で
u=±(8±5√3)/2 という4つの解を得る。
この中でuが正の解は、
 (8+5√3)/2 と (-8+5√3)/2 であり、
その差を取って、8m 通過時間8秒 (答え?)
 
 
解答例2:別の計算による解法     図2
 
イメージ 3

上図2のように
30°になる遠い点をA、近い点をBとする。
そうすると赤の棒を弦として、
その両端(下C、上D)と、
AとBは、円周角として、同一円周上にある。
弦が5、円周角が30°だから、
中心角60°で半径は5になる。
その円をOとして
CDの右側に地面(U軸)と垂直な接線を引き
これをV軸とする。接線V軸とCDは平行なので、
接点のV座標=円Oの中心のV座標
=1/2+5/2=3
U座標=-半径=-5
円Oの中心のUV座標(-5,3)、半径5より
円:(U+5)^2+(V-3)^2=25
A,Bは、V=0として
U^2+10U+25+9=25
(U+1)(U+9)=0 → U=-1,-9
A(-9,0),B(-1,0) ∴AB=8,
1m/秒より、通過時間8秒 (答え?)
 
 
解答例3:図形を中心に       図3
 
イメージ 4

上図3のように
△OCDが正三角形なので
円Oの半径=CD=5
 
AEが直径だから△EABは直角三角形
AE=10,そしてEB=E’H=CD+DE’+CH
=5+1/2+1/2=6
以上より△EABは、3:4:5の直角三角形
ゆえに、AB=8 通過時間は8秒 (答え?)
 
※ ちなみに
少し一般的に、視野角をx、
CD=a、CH=b、半径r、とすると、
ODと水平のなす角は、中心角/2=円周角=x
 r・sinx=a/2 → r=a/2sinx ―――――――――(3)
三平方の定理より
AE^2=直径(斜辺)^2
=(2r)^2=AB^2+(a+2b)^2
∴(3)より 
AB=√(4r^2-(a+2b)^2)
 =√(4(a/2sinx)^2-(a+2b)^2)
 =√(a/sinx)^2-(a+2b)^2)
問題のように、x=30°、a=5, b=1/2、
CD=半径=5を代入すると、
AB=√(100-36)=√64=8となります。(検算?蛇足)
 
さらに、xの最大値は分からないが、
tanxの最大値について・・・あまり自信はないです。
上の(4)より
tanx=au/(u^2+b(a+b))
   =a/(u+b(a+b)/u)
ここで、x,a,b,u は正だから
相加平均≧相乗平均より
tanx
 ≦a/2√(u×b(a+b)/u)
 =a/2√(b(a+b)) 
(問題では)
 =5/2√((1/2)(1/2+5))
 =5/2√(11/4)
 =5/√11 ・・・(tanxの最大値???)
そのとき、u=b(a+b)/u
 u^2=b(a+b) → u=√(b(a+b))
(問題では)
 u=√((1/2)(1/2+5))
 =√11/2 ・・・かな???
 
(2011年08月31日、同日、余計なこと?加筆修正)
---------------------------------------------------------
何がめんどくさいといって、前にまとめた2つと今回考えた1つ(2番目)の
3つの解答例をまとめるのに時間がかかりました。・・・終わりのほうは
間違っているかもしれません。コメントいただければ幸いです。
 
 
 


原初の信仰から
 
 
最初に信じたことが
後付けされた確信を否定する
 
生きている個人が最初に信じたこと
つまり原初的で根源的な信仰こそが
後付けされた傲慢な「確信」を否定する
一見好ましくても
人が作った信仰の尾ひれを否定する
 
神を恐れよ
神に近づくことは出来ない
 
神に出来ないことはないが
人には出来ないことがある
ここで
人に出来ないことに明らかに含まれるのは
神の立場と行為を確認することだ
 
神を恐れよ
神を近づけることは出来ない
神に近づくことは出来ない
 
 
(旧作から少し借りて)
 
たとえ?として
 
 
神は火である
人は一本の髪の毛である
 
髪の毛は
火を仰ぎ見ることしか出来ない
 
火に髪の毛をかざしても
火を髪の毛に近づけても
髪の毛は一瞬のうちに縮み上がり
燃え尽きる
 
人が生きていられるのは
神に近づくことも
神を近づけることも出来ないということだ
 
また言うまでもなく
聖人や預言者の言動を
自らに当てはめるのは傲慢である
 
 
(前にも述べたようなこと)
 
原罪について
 
 
キリスト者なら
失楽園に始まる人の肉による原罪を認めない者はいないだろう。
認めるからこそ救いを求めて信仰に至るのである。
しかしながら人の信仰そのものに原罪がある
ということを認める者には、まだ出会ったことがない。
信仰に原罪があるなどと語れば
無視されるか排斥されるのが落ちである。
 
多くのキリスト者は原罪から救われるために、
より強い信仰を求めている。その強さとは何か。
信仰は、神の前にへりくだることから始まっている。
つまり強さとは神の前にへりくだることだ。
より強く
神の前に塵に等しい人の分際をわきまえることである。
信仰の強さはしばしば履き違えられている。
 
体験から生まれた神への思いは否定しがたく、
その後の生き方に大きな影響を及ぼす。
前にも述べたように
その体験が神からだと確認する根拠を
人は持ち得ない。
したがって、この「思い」は罪である。
しかし「思い」は思ってしまうのだから避けがたく、
ゆえにこの罪は「原罪」である。
傲慢の罪と違うところである。
 
信仰の原罪は肉の原罪と通じる罪であり、
どちらも避けようもなく持ってしまう罪である。
よって「原罪」と呼ぶ。
「信仰の原罪」によって信仰は成り立っているのである。
 
傲慢の罪は、神に対する人の立場をわきまえず
言葉や出来事において、やすやすと確信犯として
人と神とを結び付けてしまう。したがって
避けられない原罪よりも重いと言わざるを得ない。
それは強い信仰を求めるところにおいて
しばしば犯しやすい罪である。
 
「信仰の原罪」を認めない者は
ますます人と神の間のいわれなき注解者となって
神を主語(守護?)にした人の確信を付け加えてゆく。
それによって失ってゆくものは
神ならぬ人としての立場、つまり人間性である。
 
「信仰の原罪」と「傲慢の罪」の違いは
「思い」と「確信」の違いであるが、
言葉にすると微妙なものになる。
結局今考えられることは
神に対して
「信仰の原罪」を認め自覚するか否かにかかっている。
その自覚だけが唯一の
傲慢から遠ざかる救いの希望であろうと考える。
 
(2011年08月24日)
 
 
 
 


地獄
 
 
地獄の話を聞いたことがある
あるブログでは
たくさんの閲覧があり
賛同や共感のコメントとともに
リンクと転載依頼のコメントが寄せられたという
しかし多くのコメントの中に1つ2つ
「事実を確認しましたか」
というコメントに
少しほっとしたことを否定できない
 
殺人や事故など
悲劇は毎日のように起こっている
数が多いから地獄なのではない
いわば毎日どこかで地獄なのである
無残な死体の有様を見聞きしなければ
見過ごしてしまうような
地獄
 
自らの中にも地獄
気づくか気づかないか
こればかりは
見てしまうと
目を逸らすことが出来ない
何が自らに地獄を作ってしまうのか
自らが地獄なのか
 
地獄の中で光を見出すこと
もちろん
気安く語れることではないのだが
 
(2011年08月16日)
--------------------------------------------
言葉に尽くせないことで
この国のどこにでも同じリスクはあるけれど
他人事のように
私は感情が鈍麻していますから
  
(2011年08月24日、若干修正加筆)
 
 
 
 


みにくい羊
 
 
みにくい羊は
いてはいけないのでしょうか
まばらに毛も禿げ落ちて
太るだけの羊は
病んで痛みにほろほろと
よろよろと躓きながら
人里離れて奥山で草を食みながら
命が尽きるのを待っています
 
飼い主に殺していただけるなら
それでよかったのです
何の役にも立たなかったのだから
生きるために食む餌よりも
それが最後の唯一の希望
最大の幸福なのです
 
至る所で蹴られ遠ざけられ
嫌悪の眼差しの中で
あらゆる群れから身を引いてきたのですから
 
誰もいない
いなくなった地の果てに
肉体だけが無価値に長らえているだけ
 
何も見ず
何も聞かず
何も言わなくて済むように
誰の手も煩わせず
誰にも影響を与えないように
飼い主よ
おられるなら
この不器用で臆病な羊に
この離人の地にでも青山を定め
一刻も早く人知れず
永い眠りをお与えください
 
牧場の夢などもう見ません
この空しさと苦しみと痛みとともに
存在することの悪を滅ぼし
消し去って
みにくい羊を
二度とお造りにならないでください
 
(2011年08月16日)
 
 
 
 

「讃美の家」批判11
「7×7×10=無限」未承認コメント続き
 
土の器→「平和の福音」
 
>まず行って兄弟と仲直りをし
>わたしたちも互に愛し合うべきである
 
最初に私を敵としてコメントを葬ったのは誰でしょう。
それを改めないでいるのは誰でしょう。
私は和解を申し出たのに応じなかったのは誰でしょう。
 
>和解しなければならない人の前でも、ともすれば
>「なぜ、私のほうから謝らなきゃいけないの?
>私は何も悪いことしてないのに」と
>自分を正当化し、保身に走ることがあります。
 
私が和解できないのは、
 
あなたが和解に応じないまま
私のほうが謝罪して和解するのは、
あなたという人に隷属することになるからです。
 
あなたのほうは、
上の「私」に自分を当てはめることはなさらないようです。
 
そういう人がこの記事を書き、または引用するのは
驚きとしか言いようがありません。
 
2011/8/16(火) 午前 9:19[ st5402jp ]
 
(2011年08月16日)
 
 
土の器→「「宗教」に変質させてはならない」
 他の牧者の記事の転載
 
>キリスト教信仰は、自分を安全地帯に置き、
>苦しむ者の叫びに耳を塞ぐ生き方とは無縁です。
 
この生き方・行き方をしているのは、続けているのは、
まさに、自分を自分のブログという安全地帯において
耳を塞ぎ続けているのは、あなたご自身ではありませんか。
 
記事としては、この部分も「もっともな話」だが、
あなたが語ると「もっともらしい(ことを言う人の)話」になってしまいます。
 
2011/9/6(火) 午後 3:57[ st5402jp ]
 
(2011年09月06日、加筆修正)
 
 
 
 

このページのトップヘ