ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年09月

  重心について
 
重心のxまたはy座標をひっくるめてGkで表すと
 
          「シグマ(k=1~∞)Sk・Gk」
重心は、 ―――――――――――――――――――
       「シグマ(k=1~∞)Sk」(つまり総面積)
 
ではないだろうか。・・・と
いきなり書くのは
自信がないからです。
(Sは面積、物理では質量m・・・?)
 
 
1.三角形の重心G
イメージ 3

重心Gのx座標は、頂点からの中線を2:1に分ける点だから、
(X2+X3)/2+(1/3)(X1-(X2+X3)/2)
 
=(X1+X2+X3)/3 ―――――――――――――――――(1)
 
ということで、y座標も同様だから、
 座標の平均値になるようだ。。――――――――――――――――(1)
 
 
2.しかし四角形の重心となると、そうはいかないようだ。
 
イメージ 1

四角形の重心G
 =(S1・G1+S2・G2)/(S1+S2)――――――――(2)
となるようである。
ここでG1,G2は、それぞれのxまたはy座標を示す。
 
 
3.(2)の例として
 
イメージ 2

積分による回転体の体積Vは、
△ABCを回転させた体積の2倍だから
 
BAは、y=x+3
BCは、y=(-3/2)x+3 より、
 
V=2×(∫(0-2)π((x+3)^2)dx
   -∫(0-2)π((-3/2)x+3)^2)dx)
=2π×∫(0-2)((x^2+6x+9)
          -((9/4)x^2-9x+9))dx
=2π×∫(0-2)((-5/4)x^2+15x)dx
=2π[(-5/(4×3))x^3+(15/2)x^2](0-2)
=2π((-5×8)/12+(15×4)/2)
=2π(-40/12 + 30)
=2π(-10/3 + 30)
=2π(80/3)=(160/3)π ―――――――――――――(3)
 
次に、前の記事に使った回転体の体積を利用する。
具体的には、
図の四角形を回転軸で回転させたときの体積
=図の四角形の面積×2π(回転軸と重心の距離p)
=積分で求めた図の四角形の体積
つまり「面積×重心の対称軸を中心とする円周」として求めると、
V=5×4÷2×2πp=20πp ――――――――――――――――(4)
 
(3)(4)より (160/3)π=20πp
 
 ∴ p= 8/3 =2.666・・・
  ABCDの重心G(2,p)=(2,8/3) ―――――――――(5)
 
ここで、
△ABDの重心G1(2,3+2/3)=(2,11/3)
 面積は △ABC=4
△BCDの重心G2(2,2)
 面積は △BCD=6
 
ABCDの重心Gを
4つの点の座標の平均と仮定すると、(2,11/4)になり
(5)と異なるので、4点の平均とするのは誤りである・・・。
 
(2)の重心の求め方
(S1・G1+S2・G2)/(S1+S2) を用いると重心Gは、
((4×2+6×2)/(4+6)、(4×11/3+6×2)/10)
=(2,(44+36)/30)
=(2,80/30)=(2,8/3)になり
これは(5)と一致するので、こちらのほうが正解である。
 
(2)を用いると、すべての四角形は、
例えば対角線をx軸にして、
4頂点のxy座標が与えられることによって
四角形の重心の座標を4頂点のxy座標の値で表すことが出来る。
(長い式になるので省略)
 
さらに次に
五角形は3つの三角形に分けられるので、
そのうち2つの三角形からなる四角形の重心を(2)より求めて
その四角形の重心と面積、また残りの三角形の重心と面積より
五角形の重心
=(四角形の面積×四角形の重心座標
  +三角形の面積×三角形の重心座標)/五角形の面積)
=((S1+S2)×((S1・G1+S2・G2)/(S1+S2))
  +S3×G3)/(S1+S2+S3)
=(S1×G1+S2×G2+S3×G3)/(S1+S2+S3)
 
(G1~3は重心のxとyの座標をひっくるめているので、
式は重心のx座標の式とy座標の式の2つになる。
今までのG1やG2を使った式も同様である。
つまり、X1~3、Y1~3、を使う2つの式だが、
x座標なら、G1→X1、などと置き換えるだけでよい。
いちいち書くのは面倒なので省略した・・・失礼。)
 
このことから一般に、
n角形は(n-2)個の三角形に分割できるので、
n角形の重心は、
「シグマ(k=1から(n-2))Sk×Gk」/「シグマ(同左)Sk」
=「シグマ(k=1から(n-2))Sk×Gk」/全体の面積
(Skは、それぞれの三角形の面積、
 Gkは、それぞれの三角形の重心のxまたはy座標とする。)
ということではなかろうかと考えたりします。・・・
 
冒頭の式は、有限のnを無限大∞にしただけです。(汗)
 
(2011年09月29日、同日修正加筆)
(2011年09月30日、三角形のところ間違い修正)
 
 
 
 


矢印と受容体の人々
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
彼らに都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして記憶から消えるのを待つ
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも味方になる彼らの神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐する
「彼は少し、冷静さを欠いたようだ」
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感情のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
すべて彼らのような信仰を持たないから
という因果律を当てはめて
ひたすら伝道を促す
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間は潰されてゆくことでしょう
 
彼らは実に
彼らのベクトルによって他を省みず猛進し
レセプターによって強引に奇跡だけを持ってくるのだ
 
(2011年09月28日)
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穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じてきて、
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
この記事には少しばかり別の思いも入っています。
人がいるところには色々な神話や信仰があるでしょうから。
 
 
 
 

「讃美の家」批判13
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
 
批判・・・っていうのか・・なんだか・・・
 
無題→「キリストのまことを信じる信仰」
 
>「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、
>ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
 
>律法の行いによるのではなく、
>キリストを信じる信仰によって義とされるためである
 
ここまでは聖書の言葉として分かるように思います。
 
>「信じる」を、「キリストの<まこと>」と読めば、その喜びがわかる
 
ここまでは他の人の文章のようです。
 
「キリストの<まこと>」+「を信じる」でないと文として
おかしくなることを指摘しておいて・・・
「信じる」ではなく「まこと」と、わざわざ読んで、
喜びがわかるというのは何故でしょう。
「信じる」では喜びは分からないのでしょうか。
 
2011/9/28(水) 午前 2:20[ st5402jp ]
 
 
>イエス・キリストを信じる信仰は信じる自分自身の信仰にではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
 
これも「「にではなく・・・なのですね」の繋がりが、
「ではなく・・・なのですね」か「にではなく・・・にあるのですね」
でないと文として少しおかしいが・・・、複雑な・・・
「自分自身の信仰に」のあとに何か省略されているのか・・・、
 
「イエス・キリストを信じる信仰」と
「イエス・キリストのまことに信を置く信仰」と
どう違うのでしょう。何かの強調でしょうか。
言い換えることに特別の意味があるのでしょうか。
 
イエス・キリストを信じる者は
イエス・キリストのまことを信じているのではないのでしょうか。
「まこと」をつけないと偽物にでもなるのでしょうか。
 
また「信を置く」の主語は自分自身ではないのでしょうか。
さらに「信を置く」は「信じる」ことではないのでしょうか。
 
真の信仰者にだけ分かるという主張でしょうか。
「お仲間語」とでも言うべき奇妙な言語があるようです。
 
2011/9/28(水) 午前 2:22[ st5402jp ]
 
 
上の引用部分は、
>イエス・キリストを信じる信仰は
>信じる自分自身の信仰に(信を置く信仰)ではなく、
>イエス・キリストのまことに信を置く信仰なのですね。
という意味でしょうか。
それなら分かります・・・と言いそうになりますが、
上と同じような疑問として、
 
イエス・キリストを信じることが
人の信仰ではないのでしょうか。
信じるの主語は自分自身であるはずです。
ということは、引用部分は
信じる自分自身の信仰に信を置くな。
言い換えると
信じる自分自身の信仰を信じるな
と言っているに等しい。
えらく複雑で矛盾に近いものになります。
 
キリスト信仰に「信仰にではなく」とまで書いて
「イエス・キリストの『まこと』に信を置く」と
わざわざ「まこと」を強調して書いているのは、
真の信仰者なら
今信じているイエス・キリストの「まこと」が
分かるはずだという主張でしょうか。
 
結局、引用部分で、あなたから伝わってくることは、
あなた自身は「イエス・キリストのまこと」が
分かっていると思っていて、
それゆえに「まこと」を強調して、あなたが逆に
「自分自身の信仰のようでなければ真の信仰ではない」
と言っているようなものです。
 
なお「信を置く」が「委ねる」「任せる」の意味なら、
その意味は、私のような信仰者にとっても、
「信じる」にも「信仰」にも含まれています。
 
「まこと」という、あまりに汎用される言葉を使って置き換えても
信仰の真も誠も表せるものではない例として受け取ります。
わざわざ真意のつかみにくい書き方をなさったから、今回は
冒頭に「・・なんだか・・」と書かざるを得ませんでした。
 
2011/9/28(水) 午前 6:00[ st5402jp ]
  
(2011年09月28日、同日加筆修正)
 
 
聖書の聴き語り→「収穫の秋来る」
 
>たとえ今自分が渋い実を結んでいても心配ありません。
>気づかないことの方が問題です。
 
あなたは、気づいているというなら、
為すべきことを為していますか。
気づきながら、正当化して、
放置している問題はありませんか。
 
>甘い柿の木に接木され、養分と手入れを受け入れるなら、
>きっと甘い実を結ぶように変えられるのです。
>わたしたちがイエス・キリストを信じるなら、
>イエスという命の木に接木されるのです。
 
イエスという命の木に接木されたのなら、
生き埋めにしてもよいものがあるのでしょうか。
自分は何をしても何をしなくても
接木されるから心配ないというのですか。
接木されたら人間は変わるはずだと思いますけど・・・
 
改めないこと、それが使命だとでも?
毎度すごいことを書いてくるたびに
人間性が切り裂かれてゆきます。
 
2011/9/30(金) 午前 1:38[ st5402jp ]
 
(2011年09月30日、加筆修正)
 
 
 
 

これは証明も不十分で、興味があって考えてみたけど、
順序が逆のような気もするし、自信もないのですが、・・・
 
 
問題:
1.半円の重心
2.(1/4)円の重心
 
 
解答例:
 
回転体の体積についての
「・・・(忘れた)?の定理」を用いる。
回転する平面図形の面積をS、
その重心と回転軸の距離をpとすると、
重心の軌跡となる円周は、2πp
そして回転体の体積は、S×2πp ―――――――――(1)
 
また回転する平面図形に対称軸がある場合、
重心は対称軸の線上にあるだろう。――――――――――(2)
 
球の体積は、積分で(省略)、4πr^3/3 ――――(3)
 
1.
イメージ 1

半円(半径r)を直径を回転軸に
1回転すると球になる。
 
半円の重心と中心との、
即ち回転軸との距離をpとすると
(1)より
球の体積
 =半円の面積×2πp
 =(πr^2/2)×2πp ――――――――――――(4)
 
(3)(4)より
 (πr^2/2)×2πp=4πr^3/3
π^2×r^2×p=4πr^3/3
π・p=4r/3 → p=4r/3π ---(1の答え?)
 
2.
イメージ 2

(1/4)円を半径rを軸に
1回転すると半球になる。
 
(3)より、半球の体積=2πr^3/3 ――――――――(5)
 
(1/4)円の重心と半径、
即ち、回転軸との距離をpとすると、
半球の体積=(πr^2/4)×2πp ―――――――――(6)
 
(5)(6)より
(πr^2/4)×2πp=2πr^3/3
π^2×r^2×p/2=2πr^3/3
π×p/2=2r/3 → p=4r/3π
円の中心との距離は、p√2=4r√2/3π ----(2の答え?)
重心の座標としては、(4r/3π、4r/3π)
 
(2011年09月27日)
(2013年09月28日、若干補足)
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何やら考えて、紙にボールペンでゴリゴリ書いていたら
以上のような記事になってしまいました。
間違っていたら、コメントいただければ幸いです。
 
 
 
 


信仰は
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
神を恐れよ
 
人は人の知り得ないところへ導かれ
守られる身であるのに
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところを守ろうとするだろう
奇跡に反するものから目を背け
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
暗黙の不敬罪を人に着せてしまうのだ
神を恐れよ
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人である
神を恐れよ
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思を
計り知ったという
思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
神を恐れよ
 
(2011年09月24日)
--------------------------------------------------
信仰者である人は神に甘えることがあります。
というより
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚しなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
神が人にとって都合よく働いてくれたという
的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
私は信仰について、信仰者に向かって、壊れながら死ぬまで
「神を恐れよ」を叫び続けることになるのかもしれません。
 
 
 
 

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