ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年10月

哲学・神学・人間学のブログ「日常×非日常」コメントから
(管理者の承諾を得ましたので記事にいたします。)
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「神の不在」
 

神はいない。
 
たしかに、そうだろう。
神がいるなら、こんなひどい災害はあってはならないからだ。

 
V様は今回の震災で初めてそう感じたのでしょうか。
今まで感じたことはなかったのでしょうか。
阪神淡路は、スマトラは、広島・長崎の原爆は、
さらに遡って徴収され人を殺すと誉められる戦場は、
さらに個人的な出来事は、人が目の前で死んだり
狂って行く光景を見たことは、・・・
 
今回の震災に際して・・ってのが、
それで今更のように「神はいない」と言われても・・
という気がしないでもありません。
 
多くの人は、どこかで悲劇が起こっても
悲劇的現実からは乖離して生きる残酷な鈍さを持って生きているから、
V様は今回何か特別身に迫るものを感じられたのでしょう。
2011/10/30(日) 午後 4:09[ st5402jp ]
 
私としては「神は恐ろしい」のほうが先に来ます。
「生者も死者も支配する神のなさることは人には恐ろしい」
だから人にとって「神はいない」かもしれないが、
 
そこから生まれる心境や境地よりも、
「(私に)信仰はない」と言うことよりも、
「神はいない」ということは、
直ちに私の存在を狂気に落とすことなので、
さらに救いがたく恐ろしいのです。
 
では「神はいる」と信じているかというと、いるとしても
「迂闊に近づけない、語れない神」ということになります。
その神に対する殉教の証しがキリストということになりますが、
こういうことを書き出すと決まって、
何か公式みたいに整理してまとめようとしているな
・・・という私自身の気持ち悪さを感じるので、
こういうとき私は、どうにでもしてくれ・・・というか、
軽やかに自分を捨てて放心できたら・・・と思ったりします。
祈りたいのは危険や絶望を抱えたこういうときかもしれません。
V様は祈ることもやめたのですか。・・・
2011/10/30(日) 午後 4:12[ st5402jp ]
 
私のコメント間違い「徴収」→「徴集」
 
前のV様のコメントに「心理的距離」・・・
今回よっぽど近かったのでしょうね。
2011/10/30(日) 午後 4:23[ st5402jp ]
 
しつこくすみません。
V様が「神はいない」と言っても、私は耐えられますが、
私が「神はいない」(と言う)ことには耐えられないようです。
2011/10/30(日) 午後 4:28[ st5402jp ]
 
STさん
 
私は別に無神論者になったわけではありません。
神はいない。これは神はいるとかいないとか、そういう議論を超えているということです。
神が人間と同じようにどこかに存在しているという話になると、上に述べたような神義論の問題(神がいるならなぜ悪や悲劇があるのか)は解決不可能になります。
神は人間が考える存在というカテゴリーを超えているのです。
これは、STさんの詩においても表現されていたことだと思います。
人間が神について論じると、それは必ず偶像を作り上げることになってしまう。つまり、神の存在について議論することは、偶像崇拝につながります。そういう議論を避けるために、「神はいない」ということになるのです。
2011/10/31(月) 午前 7:50
 
STさん
 
私は今回の震災まで、世界各地で起きている自然災害について、あまり真剣に考えていなかったのだと思います。
やはりどこかで他人事という意識があったのでしょう。
別に弁解するつもりはないですが、多くの人がそうなのではないでしょうか?身近に起きたこと以外は、すべて他人事として考えてしまうのが、人間の愚かさではありますが、いちいちすべてのことに反応していたら、生活は成り立たないという気もします。
2011/10/31(月) 午前 8:02
 
想うところに神はいない、あるいは
足下の崖を掘り下げる・・・のほうかな・・
2011/10/31(月) 午前 8:09[ st5402jp ]
 
コメントすれ違いました。レスありがとうございます。
>いちいちすべてのことに反応していたら、生活は成り立たない
>他人事
仰るとおりだと思います。一種の防衛本能かもしれません。
・・・と済ませていいか・・・
やっぱり元々人の性格とかによって敏感と鈍感の違いはあって、
むしろV様は敏感のほうだと思いますよ。私の鈍さに比べれば。
2011/10/31(月) 午前 8:19[ st5402jp ]
 
いやいや、私はそれほど敏感な人間ではありません。
今回の震災にしても、
私は慣れ親しんだ土地が傷ついているという意識が強いので、敏感にならざるを得ないですが、まったく知らない土地のことだったら鈍感だったと思います。
その程度の違いです。
2011/10/31(月) 午前 8:25
 
>人間が神について論じると、それは必ず偶像を作り上げる
 
私としては、想う(考える、論じる)ところに神はいない、
けれど、どこか人の測りがたいところに神はいる
ということで、耐え難いと書いたのは
「どこにも神はいない」のは耐え難いということです。
「どこにもいない」で、無神論でないというのは、・・・?
「(人が、どことは分からない)どこかにいる」となると、
やはり神義論?の問題は生じてくるのではないかとも思います。
 
飛躍かもしれないが、古代のイスラエル人も、戦争や災害など、
無秩序で悲惨なだけということには耐えがたく、
そうした酷い状況の背後に絶対者がいると思わないではおれない
というところから、信仰が生まれてきたのではないかと考えています。
神義論?は解決できない問題として残り続ける・・・?
2011/10/31(月) 午前 9:53[ st5402jp ]
 
そこからか、似たような思いで私は、
人にとって「神は恐ろしい」「人の生死さえも超えた恐るべき存在」
だから「迂闊に神を指して賛美などは出来ない」と思う。
・・・その辺は私のブログでも堂々巡りに近いですが・・・
 
私個人の信仰については、
信仰者という括りに耐えられなくなって、
それでも祈るから信仰者、というのは、
やはりキリストに絆されて
忘れることが出来ないでいるからだろうと思います。
どれも前に大方書いたようなことで・・・蛇足・失礼。
 
神義論?は「御心測り難し」で、
それでもキリストは忘れられない救い主・飼い主で、
神義論?については、悲劇に寄り添うために、
二千年前ではなく、今遣わされているキリスト
以外、言葉が私にはないのかな・・・
2011/10/31(月) 午前 10:10[ st5402jp ]
 
「どこにもいない」という表現がきつすぎるのかもしれませんが、やはり「どこにもいない」と言った方がいいような気がします。
なぜなら、「どこにもいない」を否定したら、「どこかにいる」ことになってしまい、それは即偶像崇拝につながる可能性があるからです。
だから、あえて「どこにもいない」と言っておいたほうがよいと思います。
信仰の立場はいろいろあるので、私が結論的なことを言うことは許されませんが、それでも「私は神の声を聞いた」とか「神を見た」とかいう話には、私は少し距離を置きたいと思います。そういう神秘体験があることは否定しませんが、それが偶像崇拝につながるケースもよくあると思います。
2011/10/31(月) 午前 10:24
 
おそらくSTさんは私のこのような話を誤解せずに受け取って下さると思いますが、かえって混乱させてしまったり、悩みの原因になってしまっているのではないかと心配しています。
あたりまえのことですが、私はSTさんを苦しめるために書いているわけではありません。むしろSTさんの苦悶には大変共感しております。
「今遣わされているキリスト以外ない」ということ。
これこそがキリスト教信仰そのものではないかと思います。
 
すでに書いたように私には信仰はありません。
あるのはキリストの信仰だけです。
いや、それすら「ある」とは言えません。
そういうところに立って、ようやく私にもキリストの十字架の意味が分かりかけてきた。そんな気がしています。
2011/10/31(月) 午前 10:29
 
ゴチャゴチャしてきたんですが、すいません。もう少し・・
 
神は常に正しいことをなさる、けれど、その正しさを
人は死ぬまで理解できない。たとい
神にとっては生きている人がすべてではないとしても、
人は生きている間がすべてだから。だから
人の前で人が「神は正しい」「神の計画です」なんて
言ったり思ったりは、大方ぶんなぐられるに相応しい。
 
辞書引いてみました。
神義論(弁神論)「悪の存在が神の善性に矛盾しないことを
明らかにする」・・・「明らかにする」が信じられません。
2011/10/31(月) 午前 10:37[ st5402jp ]
 
コメント前後しております。すみません。
 
>「どこにもいない」を否定したら、「どこかにいる」ことになってしまい、
>それは即偶像崇拝につながる可能性があるからです
 
「人間のようにどこかにいる」「どこかにいる存在者」
なら否定するのも分かるんですけどね・・・
 
>「私は神の声を聞いた」とか「神を見た」とかいう話には、
>私は少し距離を置きたい
 
そういうのには、あり得るならば預言者ですが、
私も距離を置きたいです。
 
「どこかにいる」だと、「見つけました」が現れる
ということはあるでしょう。それは分かるのですが、
そういう偶像崇拝を避けるために「どこにもいない」ですか。
 
私としては、むしろ、偶像崇拝になる可能性を除外するより、
「神を見た、聞いた」でなくても、
人の信仰は神を信じる限り偶像崇拝にしかなりえない
ということを自覚すべきではないかと思うのですが。
2011/10/31(月) 午前 11:00[ st5402jp ]
 
似たようなことのようにも思えます。
それぞれの表現のインパクトのような気もします。
しかし、まあどうでしょう。
結局、人の言葉だから、つまるところ、
V様は「神はどこにもいない」と偶像について語り、
私は「偶像崇拝にしかなりえない」と偶像について語っているのです。
 
どちらも、普通?の
クリスチャンが聞いたら、とんでもないことです。(苦笑)
2011/10/31(月) 午後 0:14[ st5402jp ]
 
ということで、
私は興味深いので、
出典つまり、このブログのタイトルを書くか、
コメントのHNはバナーなので表示されませんが、
私以外のコメントをぼかすか、できるだけ外すかして、
私のブログの記事にしたいと思いますが
・・・事後承諾になるかもしれません。
2011/10/31(月) 午後 0:17[ st5402jp ]
 
出典が明記されていれば特に問題はないと思います。
どうぞ自由にご利用ください。
 
>結局、人の言葉だから、つまるところ、
>V様は「神はどこにもいない」と偶像について語り、
>私は「偶像崇拝にしかなりえない」と偶像について語っているのです。
 
そういうことになりますね。
要するに、このブログも「余計な話」になってしまうということです。
まあ、余計な話ではありますが、私としては何か一つ解決したような気分です。
ありがとうございます。
2011/10/31(月) 午後 1:01
 
承知いたしました。ありがとうございます。
2011/10/31(月) 午後 1:03[ st5402jp ]
 
(2011年10月31日)
 
 
 
 


昨夜は8時ごろ眠くなりソファーに横になって
目が覚めたのは深夜1時。5時間眠った。
もう眠れない。わかっている。
睡眠障害。よくあること・・・
ネットから拾ってきた数学の問題で
無聊(ぶりょう)を慰める。
魂の癒しにはならない。わかっている。
真の慰めではない。どうせ私は偽者だ。
めんどくさい計算をした。
しかし結果は
下手の横好きの素人の私には驚くべきものだった。
 
 
数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
から
第152回「ポリアの壺」
問題
 
5個の白球と3個の赤球が入った壺があります。
その壺から、1個ずつ球を取りだします。
以下の条件のとき、4回目に白球が出る確率を求めてください。
 
<条件>
・取りだした球が白球ならば、その白球と新たにもう1個の白球を加え壺に戻す。
・取りだした球が赤球ならば、その赤球と新たにもう1個の赤球を加え壺に戻す。
 
 
解答例 :
 
玉の数は白でも赤でも1個ずつ増えるから
4回目が白の確率の分母は常に(8×9×10×11)――――(1)
 
題意より4回目は必ず白だから
3回目までの場合の白と赤の出る場合の数は
(白3+白2赤1+白1赤2+赤3)の場合の数
=1+3+3+1=8通り。―――――――――――――――(2)
 
確率の分子を(2)より8通りの場合に分けて示すと、
 
白白白白なら、5×6×7×8
 
赤白白白なら、3×5×6×7
白赤白白なら、5×3×6×7
白白赤白なら、5×6×3×7
これら3つは同じ値である。
 
赤赤白白なら、3×4×5×6
赤白赤白なら、3×5×4×6
白赤赤白なら、5×3×4×6
これら3つは同じ値である。
 
赤赤赤白なら、3×4×5×5
 
以上(2)の8通りの分子を足して
(1)より共通の分母で割ればよい。
またはそれぞれを(1)の分母で割って
約分してから足してもよいが、
 
なんとも面白みがないな(計算過程省略)
・・・と思いながら計算してみたのである。
 
結果は、5/8(答え?) !?
これは1回目に白が出る確率と同じではないか。
2回目をためしに計算しても、5/8
ということは何回目でも同じ(5/8)?
 
数学的帰納法で確認 :
 
1回目に白の出る確率は、5/8
    赤の出る確率は、3/8
 
k回目に白の出る確率を、5/8
 つまり赤の出る確率を、3/8 と仮定すると、
 
(k+1)回目に白の出る確率は、
(k回目白の確率)×(k回目白の確率の分母分子に1を足した確率)
+(k回目赤の確率)×(k回目白の確率の分母だけ1を足した確率)
=(5/8)×(6/9)+(3/8)×(5/9)
=(30+15)/72=45/72=5/8
 
つまり何回目でも白の出る確率は、5/8 ---(答え?)
 
 
一般化の好きな素人の私は一般化せずにはいられない。
 
壷の中に最初、白をm個、赤をn個とする。
1回目に白の出る確率は、m/(m+n)
    赤の出る確率は、n/(m+n)
 
k回目に白の出る確率を、m/(m+n)
 つまり赤の出る確率を、n/(m+n)と仮定すると
 
(k+1)回目に白の出る確率は、上と同様にして
(m/(m+n))×((m+1)/(m+n+1))
+((n/(m+n))×(m/(m+n+1))
=(m(m+1)+n×m)/((m+n)(m+n+1))
=m(m+n+1)/((m+n)(m+n+1))
=m/(m+n)となる。
 
何回目でも白の出る確率は、m/(m+n)
 
赤の出る確率は、・・・赤も白も同じである。
上の式のmとnを入れ替えればよいので、n/(m+n)
 
 
白々と夜が明ける。
カーテン越しに黄色く光って
網目からきらきら光って夜が明ける。
今日は晴れのようだ。
ふうっと、ため息。疲れたけれど、
あまりに小さい驚きと達成感。
わかっている。私は偽者だ。
今日も怠惰の一日だらだら暇つぶし。
ボケ防止の脳トレと言えば聞こえはよいが、
さしてよくもないが、
老いを、ため息の長さだけ、
ごまかして過ごしたに過ぎない。
過ごしたが過ぎない、でも過ぎてゆく。
知って解った気分、
でも私は何も知りません。
いつだって何も知らないのです。
何もないのです。
何かを知ったと言える日は遠い昔に消えたのです。
 
(2011年10月31日)
 
 
 
 


「サイコロ問題:数学サイト」補足?
・・・悪あがきです。・・・でもないような気もしてきました。
 
数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
から
 
第151回「サイコロ必勝法」
問題
 
1つのサイコロの目を交互に90度ずつ転がして、
出る目の和(相手の出す目も含めて)が13になったら勝ちというゲームを行うとき、
その必勝法を考えてください。
ただし、13をオーバーしたら負けです。
 
先手は1~6の何を最初に出してもよいものとする。
 
 
すでに「サイコロ問題:数学サイト」+α
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/11658053.html
において、
先手初手「4」が必勝法であることを書いた。
つまり「4」の後に
後手が次から何を出してきても先手が勝つこと示した。
 
ここでは「4」以外の先手初手
「6」「5」「3」「2」「1」が必勝法にならない
ということを調べてみました。
 
すべての場合を調べる必要はない。
上の残り5つの先手初手について
それぞれの初手の後に先手が何を出しても
後手の勝ち、つまり、先手の負けになるような後手の出し方が
1つでもあれば、その初手において先手の必勝法はないと言える。
 
つまり後手が何を出しても先手が勝つ
ということを否定する反証・反例である。
 
言い換えると、後手の出し方によっては先手が負ける
という反例が先手必勝を否定する。
 
先手必勝の反例:
 
「6」→2→「4」→1 (2の後に2と5は出せない。
      「3」→2  また合計13だから6も出せない。)
      「1」→4 ということで、いずれも後手の勝ち。
 
「5」→4→「2」→1→(先手は1を出せないので後手の勝ち)
      「1」→3 ということで、いずれも後手の勝ち。
 
「3」→1→「5」→4
      「4」→5
      「3」→6
      「2」→6→(先手は1を出せないので後手の勝ち)
 
「2」→3→「6」→2
      「5」→3
      「2」→6
      「1」→4→「2」→1
            「1」→2 いずれも後手の勝ち。
 
「1」→4→「6」→2
      「5」→3
      「2」→6
      「1」→4→「2」→1
            「1」→2 いずれも後手の勝ち。
 
以上より、
先手初手「4」以外に先手必勝はないと思う。
効率の悪さでは、ほとんど徒労だったが・・・
 
いちいち書くわけにはいかないが、(●?始まり)
調べた範囲では、それぞれの先手初手の場合にも、
先手必勝にはならなくても、先手と後手の出し方によっては、
上に書いた以外の、つまり先手が勝つプロセスがあったようなので、
後手必勝法はないような気がするが、検証不十分
・・・今のところ調べる気力もないので、あやふやなままです。(●?終わり?)
 
補足に追加 :
 
しばらく考えたのだが・・・
上の「6」「5」「3」「2」「1」の場合を見てみると、
先手が何を出そうと後手の勝ちになるのだから結局、
それぞれが後手必勝法になっていないか・・・。
 
ということで、次のように一応暫定的に結論しておく。
 
先手初手「4」は先手必勝であり(前の記事)、
今回の考察によって
先手初手「6」「5」「3」「2」「1」の場合は後手必勝である。・・・(?)
 
(2011年10月29日、同日うろたえて修正?)
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間違ってるかもしれません。コメントいただければ幸いです。
 
 
 
 
 


祈り、でもでも
 
 
祈りたい気持ちがあって
祈ることがあるから
まだ信じているのだろう
実際には
毎日のように祈っているが
 
でも祈ったからといって
何か変わるのかどうか
変わるとして
それは目に見えるのかどうか
どちらも人には分からない
 
信仰は偽物でしかありえない
つまり人間の勝手だ
ほしいまま
分かったことにしている
分からないと言えないから
もはや信仰ではない
 
でも祈りたくなるのは何故だろう
委ねたくなるのはなぜだろう
そうさせているのが信仰だ
神だ
でもそれも人には分からないことだ
神のなさることは分からない
 
いくつもの祈りの結果が
すべて益でしたなんて
あらかじめ感謝と讃美が前提として
鉄則になっている人の
正直を押し殺した多幸の強迫観念だ
 
弱いから何かに頼りたいだけかもしれない
 
でも祈るとき
鰯の頭を思い浮かべてはいないから
 
でも本当の神を思い浮かべることは出来ない
何も整ってはいない
むしろ壊れている
 
信じていない
信仰はない
信仰のない自分
いつも
そこから始まっているようだ
いたたまれなくて
祈り
 
(2011年10月29日)
 
 


心あらば
 
 
他人の頭ではなく
人の心あらば自ら考えよ
 
聞く耳を持たず
べらべら喋りまくる醜さを
 
隠すことで人を嘆かせ
悪魔と言われても無視する以外
何も為しえない偽りをなお
隠し続ける暴虐を
 
言うな
人を悪魔と呼ぶ罪を知れ
黙せよ
狭き門の前に
 
されどせめて
一片の心あらば
潰れた骸を叩き起こし
胸を切り裂いて開け放ったのち
口を切り取るとしよう
 
 
 
屍蝋の種子
 
 
考えが滞ると
心はパラフィンになる
 
肉体が朽ちる前に
心は既に腐ってしまったが
まだ思い悩むだけの種子が疼いている
 
何故あのようなことが起こったのか
起こったのち
まだ生きているのは何故か
 
蝋人形のように過ごしていても
見苦しい顔を動かすよりは
楽なのかもしれぬが
 
種子は篩にかけられ
選ばれるのか
誰の心が持っている篩も劣悪で
しばしば心ではなくなる
 
種子は篩い落とされることを
望みはしない
 
荒立つ波の疲弊のうちに
ときに訪れる漣から
屍蝋の奥の種子たちの叫びに
壊れた耳を澄ます
 
 
(2011年10月28日)
(2011年10月29日、一部修正)
 
 
 
 

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