ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2011年10月


同一性
 
 
同一性障害という病名がある
自我障害という症状がある
 
これらは本当に
その名に相当する障害なのか
病気なのか
症状なのか
人の常ではないのか
 
自分が自分であるという明証性なら
夢の中でも持っている
 
昨日の自分と今日の自分が同一人物
という連続性
本当か
 
忘れっぽくなったという自覚は
忘れっぽい自分をまだ失ってはいない
忘れたことさえ忘れたら
認知症の世界だが
はたして本当にそれだけだろうか
 
欠けたことに
欠けた後の自分が気づくだろうか
欠けた後の自分が自分なのだ
 
よかれあしかれ
今日得るもの
与えられるもの
こびりついて身につけるもの
 
ゆうべに失い
あしたに得るもの
ああどこか
祈りにも似て
気づくことを忘れ
気づかないことを常としている
 
同一性を疑いもせず
疑ったところで何も得られず
変わらないと信じて
信じることさえ忘れて
変わらないと信じることさえ変わって
 
日々自分は自分でなくなり
自分とは異なるものになってゆく
それが良いとも悪いとも分からずに
失い
得て
人は移ろい変わり
成長なのか
退行なのか
完璧な乖離へ向かっている
 
(2011年10月28日)
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どこか、前に書いたような気もする、更新です。
 
 
 
 
 


 一度テレビで見て、正解と解説も見たし、
 見た後で考えてノートに書いてもいるのだが、
 またノートを見ながらやってみても、
 論理的プロセスがあやふやだ。
 
 昔から勝負事は苦手だった。
 囲碁、将棋、麻雀、ゲーム、その他、全部。
 ひらめきと直観で、しかも論理的に
 先を読んで記憶するのに向いてない。
 
 だからこの記事の説明もあやふやだ。
 
数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
から
 
第151回「サイコロ必勝法」
問題
 
1つのサイコロの目を交互に90度ずつ転がして、
出る目の和(相手の出す目も含めて)が13になったら勝ちというゲームを行うとき、
その必勝法を考えてください。
ただし、13をオーバーしたら負けです。
 
先手は1~6の何を最初に出してもよいものとする。
 
 
解答例?:
 
サイコロ2手では13にはならない。
最低3手が必要。
仮に3手とすると、先手→後手→先手で13だから
先手必勝を考える。(大ざっぱ、3手で終わるとは限らない)
 
2手以降に、いくつ残すかは先手の特権である。
 
そこで(いい加減だが)先手の後の
2回の手の目の数の和を考えてみる。
90°転がすのだから、
例えば1の次に1は出ない。また裏の6も出ない。
(表+裏=7)
 
目  1  2  3  4  5  6
 
1  ×  3  4  5  6  ×
 
2  3  ×  5  6  ×  8
 
3  4  5  ×  ×  8  9
 
4  5  6  ×  ×  9  10
 
5  6  ×  8  9  ×  11
 
6  ×  8  9  10 11 ×
 
多いのは、5,6,8,9、である。いずれも4回出ている。
5,6、は1手で取れるので除外する(あやふや)、
というより5,6を一手で残すことは、初手8,7だから出来ない。
先手の後に、残す数は8か9に絞ってみる。(あやふや)
 
先手5(残り8)→後手1,3,4,6という場合分けをして
考えてみたが必勝法はないようだ。(面倒だったので省略)
 
先手4(残り9)から考えてみる。
先手を「鍵括弧」で表す。
同じ目と裏の目は出せないから、それを守って、
後手が何を出してきても勝てるなら必勝法である。
 
「4」→1→「4」→1→「3」(先手の勝ち)
「4」→1→「4」→2→「1」→(1は出せない。先手の勝ち)
 
 (「4」の後に3,4、は出せないということ)
 
「4」→2→「4」→1→「2」(先手の勝ち)
「4」→2→「4」→2→「1」(先手の勝ち)
 
 (以下は3手で終わる。2手3,4は出せない。)
 
「4」→5→「4」(先手の勝ち)
「4」→6→「3」(先手の勝ち)
 
以上より、先手「4」は必勝法である。
 
「4」が目立つのはなぜか・・・困ったときは「4」みたいになってる・・・?
他に必勝法はないのか・・・(まことに、あやふや)
 
先手初手が「4」以外の場合は後手必勝になるのかもしれません。
「サイコロ問題:数学サイト・補足!?」参照
 
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さて
こういう数のゲーム必勝法の最も分かりやすい例として
テレビで外国の小学校の授業で出されていた問題がある。
小学生でも知ってるかもしれないが・・・
 
問題2:
26個の玉がある。一度に1~3個を取る。パスはできない。
最後に取ったほうの負け。必勝法は?
 
解答例2:
1~3の、3に1を加えた数4が鍵となる。
 
 ○●●●
 ○○●●
 ○○○●
 
このように4個について考えると
 1個取れば3個取る
 2個取れば2個取る
 3個取れば1個取ることで
4個について●は常に後手に回ることができる。
5個ならば残り1個は○が取らざるを得ない。
 
つまり、4の倍数+1ならば、後手の勝ち。―――――――(1)
 
ここでは、26=1+4×6+1 である。
先手が1個取ることによって、先手は(1)の後手になるので、先手が勝つ、
つまりこの場合、先手1個取りで、先手必勝である。
 
※ あまり意味のない?一般化として
玉の数をn個、一度に取る玉の数を1~a個とすると(n>a)
上と同じように、(a+1)が鍵となり、
最後に取ったほうが負けならば、
 n=(a+1)×m +b で、b=1ならば後手必勝。
bが、2,3、・・・,a、0つまり(a+1)の倍数、ならば
それぞれ先手が1,2,・・・,(a-1),a個取ることで
b=1と同じになり、先手必勝となるだろう。
 
さて上と逆に
最後に取ったほうが勝ちの場合はどうなるか。
問題2について考えると、
4の倍数の場合は、後手の勝ちになるようだ。――――――(2)
4の倍数+1の場合は・・・?
例えば5個の場合を考えると
先手3→後手2(後手の勝ち)
先手2→後手3(後手の勝ち)
先手1→後手4は取れないので1~3
 →それぞれ先手3~1(先手の勝ち)
必勝法は、ない、ということか・・・??
まあ、5個の場合は先手1個で先手必勝にはなるのだが、
4の倍数+1~3の場合にまで広げることが出来そうにない。(嘆)
例えば仮に1個ずつ取ってゆくと偶奇に関係もしてきそうだが・・・
 
ん?・・・(2)から、4の倍数に持っていけばよいのか。
4の倍数+1~3 の場合は、先手1~3で、先手必勝。(?)
一般化では、1~a個取るのだから、
n=(a+1)×m +b (b=0~a)
 b=0のとき即ち(a+1)の倍数のとき後手必勝。
 b=1~aのとき、最初に1~aを取ることで、先手必勝か。
頭(の回転)わるいというか、ぼけたか・・・?
 
(2011年10月27日、同日、終わりの部分加筆修正)
 
 
 
 


悪魔がいっぱい
 
 
悪魔と言ったら、悪魔にされる
 
人はいつでも悪魔になるのに
 
悪魔の思う壺
 
急に眼の色が変わって
恐ろしい顔貌と姿で襲ってくる悪魔は
大方ホラー映画の先入観
 
とても柔和で
穏やかな顔をしている
もちろん、うわべだけだが
 
宗教組織は現実離れしやすいから
悪魔の巣窟になりやすいが
あらゆる集団と組織に
 
悪魔がいっぱい
 
悪魔は人に
先ず隷属を求めてくるので
金品の利得は二の次に過ぎない
つまり支配と破壊の
悪魔は世界で最も純粋な
ボランティア
 
悪魔は何を言われても無視し続けるが
忍耐などは必要ない
悪魔は隷属させる以外の関係を求めないから
元々忍耐という属性を持たない
それだけのことだが
人には超人的忍耐に見える
 
多くの種類の悪魔が存在するだろう
もし存在者の姿を持っていれば
人知でも見分けは可能で
悪魔の発言と行為は
どこかで非人間性を露呈するのだが
それを見抜くのは難しい
 
悪魔の思う壺
 
悪魔と言ったら、悪魔にされる
 
人はいつでも悪魔になるのに
 
もし一人でも
悪魔にならない人がいたら
神はこの世を救うだろう
 
(2011年10月26日、同日若干修正)
 
 
 
蛇と蛭と鼠の人
 
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
 
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或る時か
という罪の軽重は
人には測り難い
 
奸計と小細工を弄して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
(1999年11月05日)
 
 
 
 

「讃美の家」批判24(終)
聖書の聴き語り→「7×7×10=無限」未承認コメント
 
 
心を元気にするマナ→「無くてならない情報は多くはない」
 
>流言やうわさ話は、井戸端会議や床屋談議式に、
>ストレス解消とか精神安定剤としての利点もあるようですが、
>反面、″流言飛語″というように、本来は確実な知識に土台を
>置いた情報ではありませんので、
>無責任なうわさ話か悪質なデマに変わる危険性を持つわけです。
 
あなたによって私は真面目な意見を言う人間としての扱いをされず、
私の意見は「悪質なデマ」として葬られ、危険と見做され、
私は「無視して関わらないようにすべき悪」として
日々、あなたの作った奥の奥の穴倉で呻いています。
2011/10/23(日) 午前 4:18[ st5402jp ]
 
>イエス・キリストは「人に惑わされないように気をつけなさい」、
>また「戦争と戦争のうわさとを聞くときにもあわてるな」と言われました。
>そのために私たちはまず、何よりも
>確実な神からの情報を聞く必要があります。
 
あなたによって私は「人を惑わすもの」とされて遠ざけられました。
あなたは、そういうことをして、なお、
確実な神からの情報を聞いたと確信する人なのでしょう。
しかし、そのあなたから発信された情報は、いつも疑問だらけ・・・
それでも尊敬を集める牧者として振舞い続けるのでしょうか。
2011/10/23(日) 午前 4:20[ st5402jp ]
 
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あなたは昔MLで反対意見を言われたときに
「おお、それはよかった・・・云々」みたいな
大げさな人を食ったような言い方をしました。
 
またMLで私が原因でトラブルが起こったときに
「謝ることは、もうしないように」と忠告しました。
これは、あなた自身が決して謝る必要がなく、
自分を省みる必要もないから・・・
 
そして今回、
どんなに私が批判しても応えることなく、
不動・沈黙・無反応・無視を貫いている。
私の今までの経験から
人には耐えられる限度というものがあります。
あなたには、それが・・・ない・・・
2011/10/23(日) 午後 0:39[ st5402jp ]
 
前の記事に
あなたの感情が人間からずれている
と書きましたが、
あなたの感情のない頑強な意志・・・人間に出来ることではない。
あなたが人間離れどころではなく・・・悪魔だから・・・
悪魔は人の心の中にいるものとばかり思っていました。
私は恐ろしいものに出会ってしまったようです。
まさかキリスト教会の牧者の中に、
涼しい顔をして聖書の説教をしながら、
悪魔がいようとは・・・
 
批判はここまでで終わりにします。
人に乗り移り姿を持った悪魔に人一人が敵うわけがない。
 
神の制裁に委ねます。
2011/10/23(日) 午後 0:43[ st5402jp ]
 
(2011年10月23日)
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書けば書くほど、私の場合、気分はハイのほうに傾くことが多いのですが、
最近、睡眠は不規則になり、何より異常な疲労感が溜まって奇妙な気分不良が
ひどくなってくるのが、おかしいとは思っていたのですが・・・
道理で私が何を書いても、同じような記事を繰り返してくるわけです。
・・・祈ります。(悲)
 
(2014年10月22日、加筆・反省)
「悪魔」は比喩的表現のつもりでしたが、読み直すと、
それでは済まないような書き方になっています。
神と対立する悪魔というより
人間離れこの上ないと言いたかったのかもしれませんが、
感情的になっていたことを認め、反省し謝罪いたします。
 
 
 
 

奇妙な話と思われそうだが、人の立場から
信仰について考えてみたこと・・・
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好ましさとバランス
 
 
バランスの取れた発言は
バランスが取れているだろうか
好ましい人間関係は
本当に好ましいだろうか
 
一見バランスの取れた発言は
反対意見を述べず
衝突を避ける
しかし
それが好ましいと確信する人の
自己中心の基準によるものであるから
他者にも同じことを求める一種の依存であり
ゆえに反対意見を聞かず
また言わせず
封じ込めることになる
 
反対意見はバランスを崩す発言だから
本当にバランスを戻すためには
反対の重り
つまり反対意見に対する反対意見が必要なのであり
衝突を避けてバランスは保たれないし
築くことも出来ない
したがって衝突を避けるところには
遠まわしの陰湿な軽視か否定が伝わるだけである
 
神の導く人間関係が
誰にとっても常に好ましいとは限らない
 
人が自分にとって
好ましい関係のみを好んで
好ましくない関係を排除するか
そこから離れることを繰り返せば
孤独になるか
好ましい関係だけにもなりうるだろうが
ひとりひとり違う人間同士で
意見が全く同じということはないのだから
人にとって
好ましさだけがあるような人間関係は
本音を言えないまたは言わない人間関係になり
本音の遣り取りのない好ましさだけの場では
人と人が安定だけを選択して満足している場では
神の導きは最初から拒否されている
なぜなら人が既に好ましさを選んでいるからだ
 
神にとっての好ましさとは何だろう
人にとって好ましいとは限らず
ときに苦しい関係の苦しい必然のうちに
既成の同意が崩れて行くところに
神の導きはより多く働きかけてくるような気がする
なぜなら神に対してより正直だから
 
神の沈黙と違って
人の沈黙は
求められている動的な人間関係を停滞させ
関係を結ぶべき顔を背けたまま固まり
ひび割れてゆくだけだ
 
(2011年10月23日)
 
 
 
 

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