ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2012年01月


スーパードラマTV「ビッグバン・セオリー」より(?)
その台詞(吹き替え)の中から・・
 
問題 :
 
ズボンを頭から脱ぐことは可能か。
 
片足を一時的に地面から離すことは可とする。
またズボンは伸縮自在とする。
 
この問題、既に知ってる人もいるでしょう。
数学というよりクイズとして考えれば、
頭の柔軟な人なら秒殺で解くことも可能でしょう。
私は1時間以上かかりましたが・・
 
以前TVで数学の難問「ポアンカレ予想」の番組がありました。
数学的記述は私には理解不能でしたが、
その番組の中で位相幾何学というものについて
素人向けのイメージ的な説明がありました。
 
複雑に見える図形も
穴がない、または1つ以上の穴がある簡略な図形に
変形して考えるというものでした。
 
例えば、やかんは、図1のように変形されます。
イメージ 1

そういう図形の変形と簡略化だけをここでは使ってみます。
 
問題に戻って、
手は単純な突起物と見なして省略します。
足は、ズボンを穿(は)いており、
足から脱いではいけないという題意があるので残します。
ズボンは2つ穴の空いたシンプルな図形にします。
 
するとズボンを穿いた人間は図2-1のようになります。
イメージ 2

ここからプロセスを考えていくと、
次の図2-2~6のようになります。
イメージ 3

図2-4において、
左足に輪がかかってないので、突起物として省略します。
ズボンは、たたんで、穴が1つ空いたドーナツ形と見なします。 
イメージ 4

ということになり、頭から脱ぐことが可能・・(答え?)
 
これを実際に近い形で描いてみると、(かなり苦労したけど)
図3-1~7のようになりました。
イメージ 5
 
イメージ 6

図3-4,5において
ズボンに足を通しておりますが、
脱ぐのではなく、穿いているので、
題意に反しない・・と見なす・・(?)
イメージ 7

失礼、失礼、・・・(汗)
 
以上の考え方が正しければ、
ズボンを頭から脱ぐことは可能ということになります。・・(答え?)
 
また図を逆からたどっていくことで、
ズボンを頭から穿くことも可能ということになります。
 
(2012年01月16日)
(2012年02月20日、一部修正)
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貧しい数学クイズでしたが、
久しぶりのブログ更新と脳トレでした。
 
 
 
 


できること
 
 
できることっていうのは
簡単なことっていう意味じゃなくて
それをする気になるってことだよ
気が向くってことだよ
簡単ってのは人によって違うから
 
宇宙へ行くこと
大金持ちになること
できないけど
 
睡眠障害の人に
夜はちゃんと眠って
朝はちゃんと起きて
というのも
できない相談だよ
できるなら睡眠障害じゃないから
 
今日もできることはするよ
できないことはしないよ
 
でも
とうに生きることができない
と思っているのに
まだ生きているのは
肉体と原始的な欲望があって
勇気か怒気が足らないからだろうけど
実は自分の様子を見ているのかもしれない
 
深夜3時間眠ったから
今日もできることはするよ
できないことはしないよ
 
する気になったらするよ
ならなかったらしないよ
気が向いたらするだけだから
怠け者でいいよ
 
できるっていうことは
わからないけど
一種の
与えられる発作のようなものかもしれない
それが良いか悪いかもわからず
そのときだけ
できることがあるみたいだよ
 
そういうこともあるから
様子を見ているのかもしれない
 
(2012年01月09日)
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私の日常は、だんだん
日常的な物事が消えてゆくような気がします。
そのときだけ、そのときだけ、・・しかなくて、
ワープする途切れ途切れに、
時間が散発しているような・・?
 
 
 
 


悲劇と理不尽
 
 
自分のことでも人のことでも
この世に起こる悲劇を
ときに目の当たりにして
ときに傍観して見聞きするだけで考える
 
理不尽だ
 
悲劇は神の業か
悪魔の仕業か
人ならぬものの領域は分からない
しかし悲劇は人の世界で確かに起こっている
そして人はそこで生きている
 
目の前で肉親が殺されても
目の前で何万人が死んでも
生きている間は生きることを選んでいる
 
悲劇が起こっていることだけでなく
悲劇に納得できる正当な意味を求めること
死者を抜きにして悲劇を試練と信じること
死者を抜きにして悲劇の後の幸いを信じること
死者の意義を考えること
 
理不尽である
 
神の業は知らない
人が考えられることがあるとすれば
悲劇を受け止める人の有様が既に理不尽であり
悲劇だ理不尽だ不条理だと叫びながら
理不尽の中で既に
理不尽に生きることを決意しているということだ
生きることを選んでいるということだ
 
受け止めることは耐え難く
考えに是非はあっても
生きることに是非はないのである
 
(2012年01月07日、同日一部修正)
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言葉に尽くせないことが多すぎて、
当たり前と言われれば当たり前で、
幼稚と言われれば幼稚で、
浅いと言われれば浅いのでしょうけれど、
受け止め方は様々だし、おかしいと思うこともあるけれど、
生きること自体には正邪も善悪も真偽も是非もない
というような気持ちを書いてみたかったようです。
 
生きることを選択するなら、一方で
耐えられずに自殺することもありうることで、
重要な問題だけど、今回は自殺に触れることは控えました。
ここでは生きることがテーマだと考えたから・・。
私自身については、前に書いたような気もするが、
たとい私の人生が自殺で終わろうとも、
それを是非もないとか、さらに正当化するとかは、
ないだろうという思いがあります。
 
したがって本文の文脈としても、
こういう説明を加えることは卑怯なのですが、
生と死の選択の対比ではなく、
「考え方の是非」と「生きることの是非」を
対比したかった・・ような気がしています。
 
悲劇というほどではないのですが、日記として、
母が1月5日に腰が痛いと言っていました。
6日朝には蒲団から立てないと私を呼びました。
救急車とか、ひょっとして麻痺?とかも考えましたが、
何とか体を起こすのを手伝って立つことが出来て、
病院に行きました。腰椎圧迫骨折ということで、
約1ヶ月の予定で入院しました。その間
母は病院で、私は独り実家で過ごすことになります。
明日も身の周りの物とかを持ってゆく予定で・・
そんなこんなで慌しい日々が続きそうです。
そういうことがあったからか、
少し広げて考える切っ掛けになったかもしれません。
 
 
 
 


時に向かって
 
 
時間はたっぷりある
あと1秒しかなくても
たっぷりある
 
あと1秒でも
あと百年でも同じだ
語る口はいつも騒がしいが
聞く耳は一つもないから
 
不条理で理不尽で無秩序なのが
この世に生きることだから
信じる神はどこにもいない
したがって信仰はない
 
神の秩序を求めて
思い込みの信仰が道理を語り
偽りの耳が聞いたふりをするだろう
今までずっと続いてきて
これからも続くだろう
 
人間は人間を失うことによって維持され
信仰は信仰を駆逐する
 
そういう世界に住んでいるのだから
聞く耳を持たない腐肉の本質において
不適のレッテルを貼り
貼られながら
路上に捨てられた臓物のように
不条理に理不尽に無秩序に
祈るしかない
来たるべき一瞬の時に向かって
 
(2012年01月06日)
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実はこっちのほうを先に書いていたのですが、
何やかやと気になって、追加、修正、・・
また修正するかもしれません。失礼。
 
 
 
 


便
 
 
日記は独り言の排泄に便りをなくし
呟きは指につまんだ砂粒を
落とし損ねて狙いを外し
顔を合わせても誰もいない
 
手紙は双方向の体裁で
通うというより通りすがり
すがりつけば視線は逸れて
手遅れの指先に悔いを残す
 
冷たさが飛び跳ねては
首を魔界に絞め上げるから
落ちようとする先端は雫を凍らせ
折れて冬の胸に突き刺さる氷柱は
いつも痛々しい出来心
 
誤謬の罪重なり
喪失の傾きは計算違いで
false !
恐らく未来は
住所不定だろう
 
(2012年01月06日)
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昔書いたこと・・
「過去は忘却の積分であり
 現在は喪失の微分である」
 
もう書けないという気分だったが
久しぶりの発作に書いてみれば
年賀の挨拶もなくて私は
やっぱりこんなものです。失礼。
 
 
 
 

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