ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2012年02月


生きる欲望
 
 
一年草は
子孫を残しても残さなくても
わが子を見る前に死ぬ
 
人の寿命にも
わが子を見て育てられる保証はない
ゆえに限りある寿命に
人は急いだり立ちすくんだりする
 
樹木に寿命はあるのだろうか
樹齢と言われる寿齢
 
わずかの例外を残して
生き物は交接する
 
桜木の全裸となりて春を待つ
 
樹木から娼婦まで
 
静かに春を待つ落葉樹から
体を売る春の向こうに
本当の春を求めないではおれない女性まで
 
逞しい生きる欲望に溢れている
 
生きる欲望
生きようとする欲望は
限りなく近く
活きたいという希望なのかもしれない
 
(2012年02月25日)
(2012年03月01日、修正)
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反省と補足:
 
「娼婦」と書いてしまったことについてですが・・(弱気)
「裸になって体を売る春を待つ」に引っ掛けただけだと
悪い冗句に過ぎなくなります。私の心も最近特に荒んでるし、
実際そういう乗りで書いたかもしれない?と反省します。
 
数日経ってから思い出して考えても正直
どういう意図だったか分からないところもあって・・
それではいけない・・おかしいな・・
 
今考えてみて・・
もし「生きる欲望」というテーマにつながるものがあるとすれば、
体を売る春の向こうに
本当の春を求めないではおれない姿・・生きる欲望
ということになるので、表現力不足ながら、
できる範囲で本文修正してみました。
 
余談ながら参考までに・・
TVドラマ「クリミナル・マインド」の中で
治安の悪い貧しい町を浄化しているつもりの殺人鬼につかまって
逃げられそうもない広い建物の中を
必死で逃げ惑う娼婦が犯人に向かって叫ぶ台詞の中に
「・・(わたし)子どもがいるのよ! ・・・」
 
何が何でも生きようとする母親としての使命感とともに
絶望的な状況であればあるほど
欲望に勝るほどの強い希望が生まれるということ・・
子どもがいるかどうかはともかく (私、いないけど)、
この台詞が深く心に残っています。
 
(2012年03月01日、加筆)
 
  
 
 


原初から
 
 
原初の信仰が生まれるとき
それは復活の類似体験である
それまでとは違った生の体験として
人を解放する
 
原初体験は
自由意思による服従の決意へと導く
つまり服従が解放なのである
 
しかし本当に自由意思かというと
そうとも言えない
 
原初体験は出会いであり
縁付くことであり
絆されることであり
これらは
ある種の受身の直感~直観であり
芸術の享受にも似るが
恋愛や結婚にも似ている
 
だから別の人にとっては
別の宗教の言葉であるかもしれず
何かの本の一節であるかもしれない
 
むしろ享受しながら
そこから何を目指すことになるか
という自由意思の問題ともなりうる
 
尾ひれをつけて飾り立ててゆくか
自分で自分を縛り付けてゆくか
自己陶酔に陥るか
これらは目に美しく
耳に心地よい偶像に
バランスと調和を塗り固めて
原初の面影すらないところへ向かうだろう
 
信仰は
自由と服従のバランスではなく
一途な自由と
一途な服従の希求であり
自らを暴くことなしに安らぎはなく
常に原初から
糊塗されるものを拒否し続ける
 
(2012年02月24日)
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今日で虚しくも58歳になりました。
 
 
 
 


絶望の中で
 
 
希望は絶望からしか生まれない
希望は常に絶望と共にしかありえない
 
絶望を伴わないとき
願うことは欲望に過ぎないだろう
欲望が必ずしも悪いということではない
生きる欲望は必要だし
それによって目標も生まれるからだ
 
何も出来ない絶望のとき
 
生きることが
今のこのとき誰のためにもならず
この先も誰のためにもならない
 
生きてきたすべての一瞬一瞬が無駄であり
生まれてきたこと自体が無駄だ
 
でも生まれ
生きてしまった
 
他者のために
守り導いてください
と祈ることすらも出来ないとき
 
自分について祈るとき
殺してください・・と
死ぬ勇気がない自分を恥じている
 
恥を晒してでも天寿を全うするまで
意味などなく生きることが必要なのだろうか
それは自分によって実感として是とされることはなく
もし生き続けるとすれば
支えるのは絶望と無力だろう
 
希望は人が作って持つものではなく
絶望から同時に生まれてしまうものだからである
 
ぼうっとしながらも
ゆっくり動き
何か用事のようなことを
ぼうっとしたまま行うことがある
取るに足らないことのようでもあるが
 
絶望の中で
人を生かし生きるほうへ
動かしているのは希望である
 
動けない人が
手か足かを1ミリでも動かしたならば
それは希望の表出である
 
だから自殺は止めるべきなのだ
 
(2012年02月20日)
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「死にたい」は「生きたい」の裏返しと言われ、
私も似たようなことを書いたことがあります。
それは大きく変わってはいませんが、
絶望の実感が増幅してきているようです。
 
心身ともに欠陥を持つ年寄りの息子が
さらに老いた入院中の母を支えなければならない今の状況で
私が最も避けたい事態は
母が生きて私の自殺死体を見ることです。
 
だからもし母が死んだら
その後の私にとって
生きる意味はもはや何もなくなると思ってしまうのだが、
 
私がどうなるか、生きる必要が今まであったのだろうか、
これからもあるのだろうか、
何も分からないまま、今はまだ生きている。
しばらくは死ぬ勇気がないことを恥じ
ながら、
それに救われ、それに傷みながら・・・
 
 
 
 

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