ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2012年07月


人を語る
 
 
例えばダリの絵は
例えば機械のような物の細く不安定な長い脚に
インパクトを受けることはあるのだが
超現実というよりも
非現実の想像を写実しているようで
これだけ詳しく描けば分かるだろう
という挿絵のようでさえある
だから受け取る側の振幅は
最初が最大で次第に減衰してゆく
 
人は神を語れない
ゆえに語らない
 
人は人を語るのみである
神についても
自分についても他者についても
真善美についても
無限についても有限についても
自然についても人工についても
人は人を語るのである
 
ゆえに人知や現実を超える世界について
あまりに形や言葉にしやすいものは
予め与えられた姿に
塗り絵を施すようなものだ
塗料はやがて酸化して剥がれるだろう
 
理解は広がりであり
きれいな枠の中に納まるように拵えることではない
 
人が端的に明確にしようと掘り下げてゆくのは
未知の広がりを求めて止まないからだ
 
(2012年07月13日)
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かなりゴチャゴチャ書いてしまった割には
文章のまとまりという点では心細いのですが・・
 
 
 

というわけで・・また口を酸っぱくして・・?
 
 
限定
 
 
地域における癌の集団発生でもあれば
発症率の統計的有意差によって
放射能との因果関係が明らかな場合もあるでしょう。
しかし
次の世代に至ってからはもちろん
数年を経たのちも
さらに今の今であっても
癌が放射能によるものかどうかを
個別に判断することは出来ません。
 
そしてこのことは
本質をわきまえることなく
人命の犠牲を将来にわたって考えず
原発を維持し進めようとする人々にとって
とても都合がよいのです。
 
これから先の短期の無事故という結果によって
長期~永遠の安全対策が完了したかのように見せかけ
錯覚さえし続けるでしょう。
 
放射能被害が限定できるとするなら
それは地球規模で薄まり
半減期によって減ってゆくことに他ならず
地球に限定されるというのに等しく
それはそのまま
ひとりひとりの人と
ひとつひとつの国と地域にとって
限定できないということに等しい。
 
エネルギーは
事故の被害が限定されるものを選ぶべきです。
 
(2012年07月01日)
 
 
 



 
 
口が酸っぱくなるほど繰り返し言い続けても
わかってもらえず
伝わらないことが沢山ある
 
それが人間の常態だ
というところから思索を始めるべきだろう
ネガティブと言われるかもしれないが
諦めから出発すべきことがある
 
でないと段々感情的になり
意見を述べているつもりが
悪口か叫びになってゆく
 
いたたまれず叫ぶことはあるのだが
叫びだけで人を動かそうとすると
結果は殆ど正しさではなく数の勢いだけで決まってしまう
そこで欠落してしまうのは真実の追求である
 
悪口を言えば悪口が返ってくるし
数値をあげれば信憑性や正当性が問われてくる
それが石の投げ合いになってしまうと
もはや応酬に過ぎず
話し合いにも議論にもならない
そこで欠落してしまうのは真実の追求である
 
何かの意見を主張するとき
大切なことは
芯となることをはっきりさせておくことだろう
 
その芯というものは
こうとしか考えようがない
という否定しがたい暫定的結論であり
(すべての結論は経過だ)
人間ならば分かるだろうと思えるほどの
日常語で表せる短い文章である
 
目的から論理を組み立てるのではなく
つまり
前もって大きな結論をどんと置いて
それが目的になるのではなく
芯と真の追求から目的は生まれるのである
 
感情はその理由を考えるために生じるのだから
人が思索する深みというのは
誰にとっても不可欠で不可避な
端的で本質的な芯を求めることから始まる
 
芯はシンプルであり
声高に叫ぶことだけを目的とせず
勢いに乗せる必要もない
また芯に対して
根拠や具体性のない飾りや煽りや雑言は排除される
 
芯は反芻され反省されながら
話し合いが詰りあいにならないために
説得し説得されるのを常に期待して励起している
 
だから思い通りにならないという現実や結果に
左右されることもないのだが・・(記事先頭に戻る)
・・悲しみに暮れることは・・
これからもあるだろう
 
大方の歴史は力関係で動いてきている
したがってその時々において
大方の真実はしばしば求められていない
 
(2012年07月01日)
 
 
 

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