ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2012年11月

ブログに書いてみたい問題が他に2問ほどあるのですが、
気力がなくて図を描くのが面倒で面倒で・・
記述だけの問題と解答例?1つ、とりあえず書いておきます。
・・また・・修正加筆しまくってます。すいません。(12月27日現在)
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数学サイト
http://blog.livedoor.jp/mazra627/
より、「たけしのコマ大数学科」
第180回「最大公約数」
問題 :
各桁の数字がすべて異なる、どれも0でないような3桁の正の整数nがあります。
nの各数字を並べてできる6つの数の最大公約数を g とします。
gとして考えられる最大の値を求めてください。
※2010年 日本数学オリンピック予選問題です。
 
 
解答例 :
私には解けませんでした。(嘆)
別サイトで答えを見てもよく分からず
私が分かったつもりになれる書き方?を加えました。
 
ここでは、A>B>C とします。g を使うと
ABC=gt、ACB=gu、
CAB=gv、CBA=gw となり、
ABC-ACB=g(t-u)
CAB-CBA=g(v-w)  --------------------------(1)
(ABC=100A+10B+C という書き方です。)
※ g は、ABC,ACB,BAC,BCA,CAB,CBA
という6つの3桁の整数の最大公約数なので、
t,u,v,w,は4つ全部が、言い換えると、どの2つをとっても
互いに素とは限りませんが、
(t-u)と(v-w)は互いに素だと思います。
でないと、g が変わってしまうと思います。 (後述→下の、※の部分)
   
また
ABC-ACB
 =(100A+10B+C)-(100A+10C+B)
 =9(B-C)
同様にして、CAB-CBA=9(A-B) --------------(2)
 
(B-C)と(A-B)の最大公約数をhとすると
ABC-ACB=9hx
CAB-CBA=9hy とも書ける。 ------------------(3)
x=y=1でなければ、x≠y
xとyは互いに素。
 
以上、(1)と(3)より、
g(t-u)=9hx
g(v-w)=9hy
(t-u)と(v-w)は互いに素、xとyも互いに素。
ゆえに g=9h --------------------------------(4)
 
g=9hより、ABCも 9の倍数。ゆえに
100A+10B+C=99A+9B+(A+B+C) より
A+B+C も9の倍数。------------------------------------(5)
 
(2)と(3)より、A-B=hx、B-C=hy
ゆえに、A,B,Cの差はhの倍数。 --------------------(6)
 
hが5以上だと1~9に納まらないので
hは、1,2,3,4のいずれかである。 ---------------(7)
 
(4)~(7)を踏まえて、(A,B,C)を検証する。
 
h=4のとき、差は4の倍数。
 (9,5,1)だけ。
 足して9の倍数にならない。
h=3のとき、差は3の倍数。
 (9,6,3)、(8,5,2)、(7,4,1)
 という3つの候補があり、
 足して9の倍数になるのは(9,6,3)のみ。
 しかし、9h=9×3 で割り切れず、gにはならない。
h=2のとき、差は2の倍数。
 (9,7,5)、(9,7,3)、(9,7,1)、
 (9,5,3)、(9,5,1)、(9,3,1)、
 (8,6,4)、(8,6,2)、(8,4,2)、
 (7,5,3)、(7,5,1)、(7,3,1)、
 (6,4,2)、(5,3,1)、という候補があるが、
 足して9の倍数になるのは、(8,6,4)、(5,3,1)
 (8,6,4)は、
 例えば、864=9×2×2×2×2×2×3
 g=9h=9×2=18 を因数に持つ。-----------------------(8)
 (5,3,1)は最小公倍数は、9になり、9h=18にならない。
h=1のときは、g=9h=9 になり、18より小さい。
 
よって題意に当てはまるのは、(8)だけとなり、
3桁の整数 n は、(8,6,4)の3つの数から出来る3桁の整数、
求める最大の g は、18 ---------(答え)
 
(2012年11月22日)
 
 
※ (t-u)と(v-w)は本当に互いに素と言えるのかどうか・・
 
(記号はすべて整数として)
もし上の2つ(t-u)と(v-w)が互いに素でないと仮定するなら、
共通約数をdとすると、これだけでは、
(t-u)=d(t’-u’)とは、必ずしも書けないが-----------(9)
 t-u=dP, v-w=dQ とは書ける。
BAC=gl、BCA=gm とすると、(2)より、
BAC-BCA=9(A-C)=9(A-B)+9(B-C)=(ABC-ACB)+(CAB-CBA)
 =g((t-u)+(v-w))=gd(P+Q)=g(l-m)
d(P+Q)=(l-m)となり、(l-m)も約数dを持つから、
BAC-BCA=gdZ となり、(1)の2式も
ABC-ACB=gdP
CAB-CBA=gdQ となり、
最大公約数を g と置くことは出来ず、
gd と置かざるを得なくなってしまう---(矛盾)
 
やはり、g を最大公約数と設定する限り
(t-u)と(v-w)は互いに素・・(?)・・ここに
「並べ替えによる6つの3桁整数」という特殊性が表れるということか・・
・・まわりくどく勘違いして書いたみたいです・・
 
なお、(9)は、t-u=d(t’-u’)=dt’-du’から
単にこの式だけ見れは、例えば、13-7=2×3 だが、
13と7は、2の倍数でも3の倍数でもない
・・というようなことを単純に考えあぐねていたわけです。失礼しました。
 
(2012年11月24日、加筆修正)
 
 
なんだかすっきりしなくて考えあぐねて・・えーと・・
めんどくさい書き方をしましたが、考え方としては、
(2)と(3)の
ABC-ACB=9(B-C)=9hx
CAB-CBA=9(A-B)=9hy より
ABC,ACB,CAB,CBA、の最大公約数は
 9h より大きくはならない
ということから、g=9hとして、答えを求めていく
ということでよいのかもしれません・・(?)
 
(2012年12月27日、さらに加筆修正)
 
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ずっと母が入所している介護施設に行く気にもなれず、
外出する気にもなれず、出前を電話やネットで頼んだり、
ネット通販で保存食などを注文したりとか、
無為な明け暮れが続いていますが、
昨日は3ヶ月ぶりに掛かりつけの病院に行って
定期薬の安定剤をもらってきて
スーパーで少し買い物をしました。
今記事を書いているのは、その余波のようなものだろうか
・・予測不能で目に見えない微小な波が
どこかに?あるようです・・こんな暮らしでも・・?
 
 
母が介護施設にいるという状況では、
おせち料理も何も、正月を祝う気にもなりません。
年末年始はネット通販で買った保存食で済ませるつもりです。
それにしても30食分の缶詰を30缶と勘違いして
ダンボール箱を開けてみたら大きな1缶15食分×2缶でした。
どうやって独りで食べればいいんだろう・・(嘆息)
(2012年12月27日、加筆)
 
 
 


実在と幻、その後
 
 
哲学には疎いけれど
「我思う故に我あり」→我以外の実在は?という疑問について
信仰によって克服したつもりでいたことがある
 
その後
 
秩序だった恒常性と連続性を持つ
と主観的に考えられる双方向反応系の世界においては
幻だとしても
生きているかぎり思いも行いも
実在と何ら変わりがない
ゆえに
この世のものと他者は実在すると考えられる
というようなことを前に書いた
(以上をAとする)
 
その後
 
しかしこれは
この世界に適応しているか
適応可能または適応することを目指している
と思える主観からのみ言えることだ
 
この世界に不適応
または適応不可能か
適応について絶望的と思う主観からは
Aと意味としては逆の
「この世のすべてのものと他者の実在は幻と同値」
が成り立つことになってしまう
その場合、主観は
双方向反応の欠乏の止むなきを経て
凄まじい疎隔と孤独と離人に襲われる
 
結局やはり何らかの信仰
例えば個人的にだが
絶対者としての神への
無条件で不可避な服従を受け入れることのみが
唯一の救いになるとしか言いようがない
 
これは決して運命や
この世のものや他者に服従することではない
 
何のことはなく
言い古された「人事を尽くして天命を待つ」
と同じようなものだろうか
 
心は重たくて重たくてやりきれないのに
肉体は弱く
思索は浅くてやりきれないのだ
 
その意志と行為を人が決して知ることのない絶対的秩序に
最終的には生死を含めて
委ねるしかないということなのだろうか
 
しかし人が教える「聖なる安らぎ」を繰り返し暗誦する無思考は嫌だ
 
そして「この世は夢と幻」
「人生はゲーム、失敗したらゲームオーバー(リセットは出来ないのに)」
なんて生き方(死に方)は嫌だ
 
(2012年11月14日)
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昔書いたこと:
「信ずるに足るものなど何もない世にあっても
 信じなければ生きてはゆけまい」
「強烈なる厭世をもってなお
 烈烈とこの世を愛さねばならぬ」
 
・・相変わらず私は侘しく乏しく虚しい明け暮れです・・
つながりを求めたい気持ちがないわけではありませんが
信仰やそれ以外のことについても多くのつながりに
うんざりしてきたのですから今さら今以上のというわけにも・・
しかしつながりの中でしか人は人間たり得ないから
・・また気が向いたら考えてみることにします・・
 
 
少し補足したいと思います。
独り言みたいになりますが、・・私が
この世界に不適応と感じてくると
世界が無秩序にしか思えなくなってきます。
そうすると病める私の心の中も無秩序になってきて
疎隔、孤独、離人 → 支離滅裂になってくるのを感じます。
この支離滅裂な無秩序に歯止めをかけるために
理性的であれ、情緒的であれ、何であれ、
神が存在するか・・などという問題にかかわらず、
私という人間には信仰が必要だと、現時点では、
考えているということなのでしょう。
それで少しでも慰めや安定が得られるなら
人から教えられる「聖なる信仰」などと違って、
たとい私の信仰が今までの記事に書いてきたような
偶像信仰やイメージ信仰という原罪であっても、
そしてそのことを恐れ、恥じ入り、戒めを感じながらも、
私にとって信仰は忘れられないもの
捨てることの出来ない拠りどころになってきた
という個人的な経緯があるのだと思います。
そこには私には理解できない必然というか、
縁とでも言うべきものを感じます。
声高に語れる確信など何もないのです。
こういうことはクリスチャンでも共感してくれる人は
殆どいないのが現実のようですが・・
(同日、補足追加修正)
 
 

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