ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年02月


信仰と確信
 
 
信仰と確信は対立軸である。
信仰の反面教師が確信である。
 
信仰は仰ぎ
確信は見下ろす。
 
確信は信条や信念と似るが、
人が神の意思と行為についての
疑問と不都合から目を逸らして無視し
自己においても他者に対しても
それらを排除してゆく。
確信は詰まるところ自分信仰なのだ。
 
信仰に信条はない。
信仰は疑問を排除しない。
目を見張ることはあるし、
瞬きはするが、
わざと目をつぶったりはしない。
 
信仰は信じるところを知らない。
確信は信じることの罪を知らない。
 
信仰は信仰者にとって不可避であり、
よってきたるところを知ることが出来ない。
確信は人の業であるのに
由来を聖書と神に帰して
人ならぬ者になりたがる。
 
信仰は文章化しにくく
経験の情緒と思考によっても
伝わるとは限らない。
確信は文章化しやすく
明文化することによって
伝染されることをむしろ目的とする。
 
信仰は信仰の罪深さを自覚し
しばしば痛感するが、
確信は確信の罪深さを
自覚しないから確信なのである。
 
信仰だけでなく確信も「信仰」と呼ばれることが多い。
信仰は「信仰」と呼ぶことに不全感と
恥ずかしさを伴うが、
確信は確信であるから
堂々と「信仰」と名乗るだけでなく、
信仰に対しては「ふっ、何を言っとる」と小馬鹿にしながら、
ときには敬虔を装って慇懃無礼な態度で
押さえ付けてさえ来るだろう。
 
信仰は心を揺さぶり
安定を許さないだろう。
確信は安定を求め
不動を誇ることになる。
 
信仰は恐らく確信を否定することによって、
ようやくその一部を暗示のように表現するのみだろう。
 
なお信仰と確信は
罪深さによって
同居していることもあり得る。
内部にも対立軸があるということだ。
 
確信は常に
信仰を覆い隠して表され
人前で明らかと見られることを好む。
 
信仰は常に
確信を打ち砕かれるところに
ひっそりと生まれるだろう。
 
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20代の頃と今とで私の信仰を比べてみると
変わらないところと変わったところがあるように思われます。
そのどちらにも信仰とは別のものが含まれていると思います。
溺れる者が藁(わら)をつかめば、藁は曲がるからです。
しかも曲がった藁は自分の持ち物になるからです。
 
(2013年02月26日、同日一部修正)
 
 
 

今まで書いてきたことの繰り返しが多いのですが・・
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全知全能の神に出来ないことは何でしょう。
 
(1)
全知全能の神を創造すること。
創造できたとしても、どちらも全知全能ですから
意思も判断も行動も同じになる。
それは唯一神と同じことです。
神は唯一であると同時に総てである
という言い方も出来るかもしれません。
というより
不可と可が同一になるわけですから
あくまで人の想像の範囲での
言葉遊びに過ぎないとも言えるでしょう。
 
(2)
すべての人を救うこと。
 
これは、出来ないというより、
しないことと言うべきかもしれません。
全知全能の絶対者である創造主は
自分の作ったものを壊すのに
これこれこういう訳だからね、云々と
いちいち説明する義務はないのです。
 
これには例えば
聖句「神は生ける者の神であって死者の神ではない」は、
生ける者に対してだけ発せられた言葉であって
神は全知全能の絶対者であるから死者も統べられる。
ゆえに神は、人知を超えて死者を含めて、すべての者を救う。
といった反論が出来そうに見えます。
昔、私はこういうことを考えていました。
反省します。
死者の救いについての想像としては自由だが、
結論や確信としては
これこそ
生きている間がすべて
としか思えない人間性(ヒューマニティ)から乖離して
人に分かりもしない神の意志と行為を
人が人知を超えて結論付ける
という神の領域への不可能な越権行為と言うべきでしょう。
 
神の救いは人には理解できないのです。
人には神がすべての人を救っているとは思えないのです。
 
(1)、(2)をもってしても
神への想いから離れられない人をキリスト者と呼びます。
 
 
話は少し変わりますが、
聖書を文献的考察や歴史的背景から、
また文脈から考えることも、
一言一句を文字通り受け取ることも、
神や聖霊について
「感じた」「聞いた」「癒された」も、
人の直感や霊感も
信仰の受け取り方だから
人の解釈に過ぎません。
 
神の業(わざ)を
人が確認する根拠は人の側にはありません。
人の確信は神については不可と考えます。
 
原初の信仰から原罪を覚え始めながら
信仰の言葉がどう生きてくるかを考え悩みながら
人である信仰者(キリスト者、クリスチャン)は、
決して神の確信ではなく、
 
神への罪深い想いによって生きるのです。
 
(2013年02月25日)
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昨日59歳になりました。
キリストを好きになった原初の信仰から
すでに罪深い想いでした。
しかもそれは絆(ほだ)されるように否応なしに
私の自由意思を超えたものでした。
 
来年も生きていたら還暦・・
私個人の場合は
自由な意思も行動する意志も壊れてゆくようです。
 
 

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