ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年03月


今回は転載記事です。
詩なので作品全体をコピーしています。
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The Lamps of Heaven
語りすぎてしまった悲しみのいくつか
http://starless.blog76.fc2.com/
の中の「潔白」
http://starless.blog76.fc2.com/blog-entry-497.html
 
プロフィール
Author:Ides
病の中で歪んだ季節を
刻むべき場所が僕には必要でした。
 
 
 
潔白
 
 
お願いです
お願いですから
もうそれ以上
人間を美化しないでください
 
人間であることは
死に値するほど
恥ずべきことなのです
絶望なのです
 
愛だと、夢だと、偽りを説く偽善者のすべてを
子供たちから遠ざけてください
 
僕たちはこんなにも
醜く、最低の生物であることを
すべての子供たちに教えてあげてください
 
お願いです
お願いなんです
人間であることを恥じてください
私は悔い改め、確実なやり方で
誰の目も盗み
あらゆるものを出し抜いて
最後の潔白を証明することでしょう
 
人間であったことの屈辱を
けしてなれなかった
美しさに打ちひしがれて
最後の潔白を証明することでしょう
 
 
2013.03.23(Sat)
 
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(恐らく誤解しまくっているであろう私の感想)
 
最近私は別のテーマで考えることが多くて、
人間としての在り方とか整合性とか考えあぐねているうちに
何かモヤモヤしていて書く気にもなれないでいるときに、
この詩を読ませてもらって心に響きました。
何処が・・とはっきり分けて挙げることは難しいですが、
特に
 
>もうそれ以上
>人間を美化しないでください
 
>人間であることを恥じてください
 
最も純粋な「人間」を感じさせる詩句だと思いました。
何を考えても書いても叫んでも、
この「人間であることを恥じる」ことに敵うものではない。
人間として忘れてはならないことのように感じました。
今日から私が別人のように変われるかどうかは別として・・(恥)
 
>人間であったことの屈辱を
>けしてなれなかった
>美しさに打ちひしがれて
>最後の潔白を証明することでしょう
 
「最後の潔白」とは何か、証明できるものなのか、
それは私にとって謎です。
作者はクリスチャンだろうか、違うような気もしますが、
そういうことは関係ありません。
 
私の精神生活上の乏しい思考と感受性の流れの中でめぐり合い、
必要と感じたから転載をお願いしました。
 
甚だ下手くそで不十分な感想でした。以上です。
 
 
(ランキングポイントは、上(下記)のURL,
http://starless.blog76.fc2.com/blog-entry-497.html
http://starless.blog76.fc2.com/
   にてお願いします。)
 
 


ブログ「随山・不思議の時代」より
http://blogs.yahoo.co.jp/lovewoosjapan/38410295.html
作者は、哲学者、仏教寄りか?と思われます。
チベット旅行の記事のようです。
 
私はクリスチャンのつもりなので、
仏教系の記事を題材にするのは珍しいのですが・・
 
チベットの大自然の中で暮らしている人々の話でした。
美しい自然の写真付きです。
あの環境で私が生きられるかは別として・・(嘆)
 
心に残ったのは、特に
 
「神に祈ることによってのみ
 自分の存在を確かめながら生きているのです」
 
という一文でした。
もちろんこの神はキリスト教の神ではありません。
しかし心を打たれるものがありました。
 
祈ることで神の存在を確信して、云々・・
だったら、キリスト教でも、うんざりするほど
ありそうな文句ですが、
私はむしろ反感を覚えるでしょう。
 
上記ブログの趣旨と一致するかどうかは分かりませんが、
 
神に祈ることで確かめられるのは、
神に祈っている自分の存在だけなのです。
 
理屈を言えば
神と人がいるから
神との関係で
祈っている自分の存在が確かめられる。
それが信仰だ
などということを言う人もいるかもしれない。
しかし
祈りの場にいるのは自分だけなのです。
 
そういう祈りを日常的に実践して、
それで満たされるものを
日々受け取っている人々がいるのです。
 
推測になりますが、
神の存在や概念について
チベットの自然の中で生きている人々は
ああだこうだと理屈をこねたりはしていないでしょう。
神の姿をあれこれと思い描くこともないでしょう。
神の概念も理屈も姿も必要ないのです。
祈ることがすべてであり、それで十分だからでしょう。
 
便利だが込み入った文明の中に住んでいるキリスト教徒の世界では、
神について確信しないと安心できないようです。
はっきりしないと気が済まないようです。
 
神のことは神に。人は人を語り、
祈る姿にこそ信仰があることを
教えてもらったような気持ちです。
 
「神に祈ることによってのみ
 自分の存在を確かめながら生きているのです」
 
(2013年03月15日)
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(自覚してない誤解に基づく補足ですが・・)
 
前にも書きましたが、
ここにいると知っていて考える自分という意識がある。
ゆえに自分は存在する。
これは否定できないけれど自己に完結しやすく、
他者については
幻想←→実在になりかねない論理です。
 
一方
どこに向けているとも知らぬまま
祈ることによって自分の存在を確かめる。
(神の存在ではない)
ここに論理はなく、
感謝の祈りでも、悲嘆の祈りでも、
そうする以外に何も持たない
という胸いっぱいに満たされた、不可避で、
自己完結ではなく、自己解放への真実があります。
そしてここには
ふるえる心で恐る恐る生きるしかない人でさえ
祈りに生きる存在に変える希望を感じます。
 
甚だ不十分でした。失礼。
 
(2013年03月16日、補足?)
 
 
 


モノローグとダイアローグ
 
 
ブログはモノローグだという
 
モノローグ
独白
独り言
独語(どくご、ドイツ語ではなく)
 
ダイアローグ
対話
問答
 
でも
互いに相手への思い込みで語り合い
相手への思い込みと話している
対話
つながっていると
関わっていると
思い込み
想う
 
モノローグでないものが
どこかにあるだろうか
祈りさえ
 
人と人は
問答
問い、答え、また問い
反応によって互いに変わりうる
誤解だらけの化学反応
くりかえし
わずかな熱を持って
発火
わずかに熱を失って
白化
 
モノローグは常に
ダイアローグの夢を見ている
 
(2013年03月14日)
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私にしては肯定的に書いたつもり・・(?)
 
 
 


ブログ「日常×非日常」の
記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから
編集を加えて記事にしてみます。
元々は、3.11の被災地に向かったキリスト者の
支援の現実的なあり方についての記事でしたが・・
( st5402jp は私のコメントです。)
 
 「信仰をなくす(必要性)」について
 
宗教的な伝道よりも人間としての共感という意味なら、
ある程度、分かるような気もします。
「信仰をなくす」は
信仰がなければそもそも言う必要も必然もないことですから、
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
これが端的に表していると思うのですが、
「信仰をなくす」必要性を考えることが既に何らかの
教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。
 
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら
「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、
慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであって、
「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
2013/3/11(月) 午後 5:21[ st5402jp ]
 
「私の信仰と神様」「あなたの信仰と神様」が
あって不思議ではなく、
「信仰が同じでないから、違うから・・」
「私の信仰としては・・」が邪魔なのです。
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに
長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。
 
私としては
「なぜ神は・・」は、常に付いて回ることだと思っています。
この場合「なぜ神は・・」は「神様分かりません!」
という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、
「なぜ神は・・」を神義「論」として、
それに対する答えを求めて得られるという考え方が
おかしいのだと思います。
2013/3/11(月) 午後 5:25[ st5402jp ]
 
 「クレド」について
 
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。
「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして私にもあります。
祈り嘆き叫ぶ相手としての御方として・・選択肢が他にないのです。
いつでもどこでも正しく通用するかのような「信条」は、
批判対象にはなっても、それが信仰だとは思いません。
 
「教義的信条という類いのものは信仰に含まれない」
 というコメントについて
 
本当に含まれていないでしょうか。
神学を知らない私でさえ
含まれていないとは言えないから
自己も含めて批判したいのです。
 
若き日より教会などで教えられたものに
無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものや
ROM回路的思考のようなものが、
無意識にこびりついていて、先入観のように、
いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
2013/3/12(火) 午後 1:26[ st5402jp ]
 
 「神学批判」という批判コメントについて
 
神学批判ではないような気がします。
少なくとも私はよく知らない神学を批判することは出来ません。
人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。
神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、
信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないし
互いに直接包含する部分もないと思っています。
2013/3/12(火) 午後 1:30[ st5402jp ]
 
ちょっと思いついたので・・
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、
神の関わる信仰の整合性は、人の側には保証されません。
人が整合性を信仰に求めることは出来ないと思います。
無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足への近道でしょう。
 
信条について・・
神の全知全能を信じるかと問われれば、
私は信じると答えるでしょう。
しかし神についても、全知全能についても、
全知でも全能でもない私という人は理解できません。
神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
つまり「分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、
従って神の全知全能を信じることは信条ではないと思います。
2013/3/12(火) 午後 2:00[ st5402jp ]
 
学問は失礼ながら興味に始まっているような気がします。
信仰は私にはまさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。では。
2013/3/12(火) 午後 7:04[ st5402jp ]
 
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と
信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、
結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないかと心配。
モノローグで終わりたければ、それでもよいのでしょうが、
ダイアローグにしたい私には耐えられないということを伝えたくて」
 というコメントがありました。
 
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
 
なんか分かるような気がします。
私は学者ではないので
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。
ですから専門用語を使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
出典ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、
 テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、
 また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、
信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について
私も時々コメントを入れてきました。
 
さて信仰的思考、ここでは
信仰について語るときはどうかというと、
やはり、日常語レベルでも、ある程度の整合性が必要になります。
論理的整合性というと難しくなりますが、
支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しや
ごり押しであってもいけないし、
伝えることを目的として聞く態度と思考には、
賛成意見も反対意見もあるわけですから
整合性というか説得力というか、
根拠や筋道は必要になります。
 
信仰は理屈ではないので、
神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。
しかし人の側の信仰の受け取り方は、人の問題です。
人の問題、人間性の問題である以上、
信仰における人の姿勢や態度そして思考について
信仰者の人間性は必ず問われるのです。
 
(2013年03月13日)
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コメント→レス→レス・・・の遣り取りが
コメント欄に並ぶわけですから、少しでも気を使いながら(?)、
それを記事にするというのはかなり難しかったです。
自己(のコメント)中心にならざるを得ないという危険もあります。
しかし記事にも書きましたように私にとって
信じる者(信仰者、キリスト者、クリスチャン)にとって
信仰は魂の死活問題と言ってよいほど大切なテーマなので
敢えて記事にしました。コメントいただければ幸いです。
また出典ブログのコメントによっては
追加修正の可能性があります。今のところ以上です。
 
 

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