ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年05月


御旨
 
 
彼は間違っているから気に入らない
という思いだけから
殺したり
潰そうとしたりはしないだろう
 
しかし
彼は神に背く者だ
という確信が信仰になってしまうと
敵と見なし
殺し潰すことが神の御旨になる
 
これが宗教の怖さである
 
神の御旨を知る根拠は
人の側にはない
そこから
いかに強い思いであっても
神を恐れる人は
恐れのために慎みを持ち
神の御名と御旨を
自らの思いに掲げることをしない
そして自らの思いについて
罪の赦しを祈ることになる
 
これが人としての信仰の
敬虔であり謙虚である
 
人は神の道を歩めない
人は神の御旨を知り得ない
人は神を知らない
人は神に仕える希望の水の泡
ゆえに人は湧いては消える思いに悩み
祈りのうちに裸である
 
 
(2013年05月30日)
 
 
 
 
 


虚・心
 
 
ポエムを書いても
文章を書いても
もう二度と書けないという気持ちと
徒労の疲労感だけが残る
書けたことの自己満足の
ひとときの慰めよりも
 
書いても書いても手応えがない
その手応えとは何か
他者の評価?
それよりも
自分が成長しているという実感か
もう年が寄ってしまったのに
成長しなければならないのか
 
心の動き、動くこと、動いていること
以外に希望はないはずなのだが
 
しずかになれない心の宿命は
何処へ運ぶ宿命を持ち
運んでゆくのか
 
この世で
肉体の終点は明らかだが
肉体からも精神からも
外界からも
加えられた痛みは
もはや恵みとも試練ともつかぬ
報いか罰のように
運び
運び
運び
 
運び自体が虚しくなるように
宿命が虚しくなり
そのとき人は虚しくなり
主観も虚しくなり
痛みも虚しくなる
 
それだけを願って
文字という記号を並べている
見せかけを整えることだけは拒みながら 
 
ここよ ・・・ こよ
 
こころ
 
 
(2013年05月30日)
 
 
 

 
 
画集の中の絵画
山の中の林の小道のようだが
 
風と草木が
区別も出来ないほど
乱れ震えて
吹き出すように
動きを伝えてくる
 
外から内から
激しく震え動くのは
こちらの眼と心だ
 
留まることを許さない風景が
心を問う
 
吹かれているか
吹いているか
揺さぶられているか
揺れているか
震わせているか
震えているか
 
動いているか
 
心は
ここにはないのだと
 
 
(2013年05月30日)
 
 
 
 


偽の関係
 
 
本物だと信じていることに
「偽」の称号を与えてください。
 
自分が思っている相手は
実際、偽者だからです。
(と言うことの語弊を承知の上で)
 
相手について知り尽くすことはありません。
知っていると思っても、
無知と誤解と曲解で
関係はできているのです。
 
だから相手は
自分の期待通りに答えることも行うこともありません。
もし期待通りだったとしても、
そういう見方が既に偽物なのです。
 
自分の前にいるのは相手ではなく、
自分が相手だと思いこんでいる何かなのです。
 
そして相手の意外な言動に、
ある日、驚き
がっかりしたり、怒ったり、幻滅したりします。
でも幻は滅したほうがよいでしょう。
ときには相手の意外な側面に
喜びを見出すこともあるでしょうが、
それもまた本物の相手ではありません。
 
私たちは相手という
偽者に出会い
付き合い
そして裏切られ揺さぶられることで
決して留まることのない関係
という希望の動態に生かされているのです。
 
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http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/4012765.html
 「偽物」参照
 
(2013年05月28日)
 
 
 
 


重いテーマのブログについて(3)
 
 
信仰について
理解できない学説のようなものや
根拠のない結論だけのコメントを書かれても
レスしようがないですが、
その理由も含めて
「レスしようがない」というレスは可能です。
それも気が向かないならスルーすればよいのです。
 
相手が一応真面目に書いているらしいコメントなら
削除してはいけないと思います。
テキストだけとはいえ
相手は人
の書いたコメントですから
人格の否定につながります。
 
話を合わせて
その場しのぎのレスを返してもいけません。
記事にもコメントにも流れがあり
バーチャルとはいえ
ひとつのブログの中で
別人になることは出来ません。
いずれ誰かに変だと気づかれるからです。
 
客観的な根拠のある意見の遣り取りが
正しい議論ではありますが、
テーマが信仰となると
根拠も前提も、
根拠、の根拠、の根拠、・・、となれば、
つまるところ論理的ではありません。
この場合
前提を共有できるかどうかの問題になります。
 
コメントを書く人が皆、
生産的で正しい議論を始めるために来ているでしょうか。
 
実際にはコメントの大方は
ツイッターよりは少し詳しい感想という程度だし、
人対人として付き合い方を判断することはあっても、
相手が一応真面目に書いているなら、
書けるときだけでいいから、
たとい苦言であっても本気で対応するべきでしょう。
 
だから恐らく、
それを不毛というなら、
私は不毛な遣り取りで時間を無駄にしてゆくだろうと思います。
不毛も無駄も非生産的も、私には日常です。
それをも諦めるのは、相手が人間だと思えなくなったときです。
 
削除したのは、
論客とは限らず
議論するためとも限らない
コメント、人が書いたものです。
 
リニアでバイナリの心性が
「根拠がない」→「正しい議論にならない」→不毛(→面倒?)→削除。
つまり
一途だが直線的で、1か0か(全か無か)という対応をするとき
 
自己完結のセキュリティのようなプログラムが、
論理的にプログラムされた通りに
ファイル(コメント)を選別し
排除するようなものになり、
 
その果てに見えるのは、結果とは程遠い、
茫漠たるウソの国・・
そして自己満足か体裁のために
白々しい看板を掲げるのです。
「反論大歓迎」と・・
その見えない国境に私たちは立っているのです。
 
(2013年05月24日)
 
 
 
 
 


別離
 
 
死んだ人は皆
過去に生まれ
過去に死んでいる
 
知らない人には
推測や想像が付きまとう
 
知っている人は
・・まるで死んでなどいない・・
生きている間に双方向で
話が合わなかった
何かを言い損ねた
聞き損ねた
 
やはり推測や想像でしかないのだが
・・ときに会話の気分にさえなって・・
 
・・すぐ傍にいるような気分で・・
生きていたときと同じように
ときにはそれ以上に
心を揺さぶられ
かき乱され
・・口喧嘩でもしているような・・
 
別れた人は
生別でも死別でも
・・生別はその後を知る由もないが・・
 
うすい塀の向こう側
紙一重の近くにいて
こちらでは叶えようもないが
小さいつぼみを開かせよう
開かせようと
咲かせようと
聞かせようと
・・こちらを責めたり憐れんだり・・
 
今も死に続け
生き続けている
 
紙一重の向こう側
・・まだ知らない・・
 
 
(2013年05月18日)
 


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