ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年05月


乖離
 
 
ささやいて
ささやいて
ひそひそ
たれかを
とおざけて
 
つぶやいて
つぶやいて
ぶつぶつ
たれかに
くっついて
 
つながって
つながって
ひらひら
たれかを
しりもせず
 
ちかづいて
ちかづいて
かちかち
とけいが
すすむのに
 
かちかち
おとが
とおくなる
 
かちかち
たれもが
とおくなる
 
とおくなる
 
 
 
世界
 
 
色があって形があって動いていて音がする
 
いろがあって、かたちがあって、うごいていて、おとがする
 
イロガアッテ、カタチガアッテ、ウゴイテイテ、オトガスル
 
・・イタイ・・
 
イロモナク、カタチモナク、オトモナイ
 
セカイ
 
・・・・・・・・
 
利かん気は 注意の箱に秘密(悲惨)あり
   
木缶 木ワ ※(の) コ(に) ヒ三(あり)
 

 
 
(2013年05月18日)
 
 


会えない私
 
 
私は記憶に会いました。
私は記憶にしか会えないのです。
 
ひとかたまりの記憶を
時間と呼ぶしかないのです。
 
最も近い記憶のかたまりを
今と呼ぶしかないのです。
 
記憶は壊され
脚色され続けるから
私に意識はありません。
 
意識を支えているのは記憶だから
いつといつも
同じ意識ではないのです。
同じであるかのように、
にんまりと私が座っていたとしても
私の思い出に過ぎないのです。
とても近く
途方もなく遠く
比べようもなく
 
次から次に押し出され
別れ続けて
私は私に、
いや誰かも誰かに、
ついに会うことはないでしょう。
 
(2013年05月16日)
 
 

前に書いたことを再編集して投稿します。
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  憲法改正についての危惧
 
憲法改正には危惧感を抱いています。
どちらかと問われれば私は反対です。
憲法改正をするのであれば自衛隊を作ったときに
改正すべきではなかったか・・と思いますが、
しかしそれは出来ず、
拡大解釈をもって自衛隊を正当化し、
さらに海外派兵に至っている。
 
私は自衛隊に反対しているのではありません。
文民統制の取れた自衛隊については
専守防衛の軍隊として必要だと思います。
それは現行憲法のままでも可能です。
 
憲法の拡大解釈という前例を重ねてきている
というところに危惧を覚えるのです。
 
改正された新憲法が、
さらに拡大解釈される恐れがあるのではないか
という危惧なのです。
 
さらに憲法を改正すると、
憲法を改正したという前例も作ってしまいます。
 
前例があるということは
裁判においても政治においても
大きな影響を持っています。
 
考えて欲しいのです。
日本が失ってはならないものについて・・
 
現行憲法も、さらなる拡大解釈の恐れはあります。
しかし自衛隊の派遣も後方支援に留めたり、
人道復興支援という大義名分を付けなければならないほどに
ぎりぎりの解釈のところまでは来ているように思われます。
 
憲法が改正されたからといって
すぐ昔の軍国主義的な国に走ることはないでしょう。
しかし何十年~百年というタイムスケールで考えた場合、
さらに、内的外的を問わず、
何らかの大きな危機的状況や混乱状態が加わった場合など、
為政者も国民も世代が代わった頃になるでしょうが・・
現行憲法のブレーキはもはや利かないわけです。
とんでもない為政者が現れて
「平和を乱すものに武力による制裁を下すことは
 貿易立国日本にとって自衛権の行使である」
のようなことを言い出し、大衆を煽りながら、
戦争しやすい国へと変えてゆく危険性というものを
問題提起しておきます。
 
その変化は少しずつかもしれないし、
場合によっては急激に訪れるかもしれません。
 
50年~100年~先のことを
保証することは誰にも出来ません。
しかし、
50年~100年~先のことを考えて、
今いかなる種を蒔くべきか、
今いかなる種を捨てるべきか、
この判断は、
まさに今生きている私たちの責任であり義務なのです。
 
考えて欲しいのです。
そろそろ改正してもいいでしょうとか、
外国がどうだからとかによるのではなく、
日本だから固有に守るべき節操の芯について・・
 
(2013年05月07日、再編集)
 
 
 

 
自由意思と関連して・・コメントを元に
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アダムとエバの罪
 
 
アダムとエバの原罪は彼らの責任か
それとも必然なのか・・について。
 
アダムとエバに罪がないから罪の責任を負う必要がない
ということなら違和感を覚えますが、
大昔の責任云々には、あまり関心がありません。
今生きている私たちの罪のほうが大切だと思います。
そのことで、・・ちょっと気になったのは、
 
アダムとエバの罪の責任だ、となると
アダムとエバの罪には何の必然もないことになります。
そうなると、
アダムとエバが罪を犯さなかった、ということもあり得た
ということになります。
 
そうなると、その後の人の罪もなかったわけですから、
キリストは現れなかった、ということもあり得た
ということなります。
キリストの登場には必然はなかったのでしょうか。
 
キリストの登場は必然であったなら、
その必然には、
「人には分からない神の業の秘密」があるのだろうと
今のところ考えています。
 
したがって「自由意思の有無」を考え合わせると、
人の側から見ると「逆説的」にしか思えないのだろうと思います。
 
もちろんアダムとエバの原罪の物語を
神話と受け取るか史実と受け取るか
という解釈の問題はありますが、
それは解釈に過ぎません。
 
どちらの場合もキリストの生と死の必然を考えるとき
アダムとエバの「必然」の問題は必ず上がってくるので、
上と同じことになると思いますが・・
 
(2013年05月06日)
 
 
 
 


  放り投げた物は遠く去って
  二度と戻っては来ない。
  そんなことが何度も何度も・・
  その連なりに
  幾つもの細々として貧しく
  見えない光が差して来て
  収束するところがある。
 
 「パラボラ(放物線)」
 
パラボラアンテナは球面だとばかり思っていた。
パラボラは放物線、
パラボラアンテナは放物線の回転曲面らしい。
 
図1に示すように
イメージ 1

放物線の軸(図のy軸)に平行な
直進する光や電波を直線(図のAE)とすると、
入射角=反射角ならば、
それらは軸上の一点(図のD)に収束するようだ。
 
接線に垂直な法線をEBとすると、
入射角=反射角より
∠AEL=∠CED,∠AEB=∠DEB ----------------(1)
 
AEは、y軸と平行なので
錯覚だから、∠AEB=∠DBE -----------------------(2)
 
△BECは直角三角形であるということと、
∠BECが直角であるということから、
∠DEC=∠DCE ----------------------------------(3)
 
(1)、(2)、(3)より、また図に示すように、
△DEB,△DCEは、二等辺三角形になり、
ゆえに、DB=DE=DC ------------------------------(4)
つまり、DはBとCの中点になる。------------------------(4)
Bのy座標、d=(b+c)/2 ------------------------(4)
この d が、pに依存せず、定数ならば、-----------------(5)
AEは、どこから入射しても、Dに集まると言える。---------(5)
 
放物線を、y=f(x)=ax^2 とする。(aは定数)
 f’(x)=2ax
x=p における接線をLCとすると、
接点は、E(p,a×p^2)となり、
接線の傾きは、f’(p)=2ap 
したがって接線LCを式で表すと、
 y=(2ap)x+c ---------------------------------(6)
接線LCは、接点E(p,a×p^2)を通るので、
(6)に代入して、
 ap^2=2ap^2+c
ゆえに、c=-ap^2 ---------------------------------(7)
 
法線EBの傾きは、
(6)の接線LCの傾きの負の逆数なので、
法線EBを式で表すと、
 y=(-1/2ap)x+b ----------------------(8)
法線EBも、接点E(p,a×p^2)を通るので、
(8)に代入して、
 ap^2=(-1/2ap)p+b=(-1/2a)+b
ゆえに、b=ap^2+1/(2a) ---------------------(9)
 
(4)、(7)、(9)、より、
  d=(b+c)/2 = 1/(4a) ----------(10)
(5)、(10)、より、
D(0,d)の、dは、pに依存せず定数なので、
AEは、どこから入射しても、Dに集まると言える。
つまり、Dは、光や電波の集まる焦点ということになる。
 
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久しぶりに数学の基本的なところを考えてみました。
 
(2013年05月02日)
 

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