ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年06月


聖と俗
 
 
聖と俗を区別して
聖に生きよと言う者たちに騙されないでください。
 
人は聖に生きることは出来ないのです。
人が語る聖は人の作り物です。
 
聖霊に従えという者は
無思考を勧めているだけなのです。
 
反対意見を聞かず
自分の話だけを信仰として語る者は
自分信仰者に過ぎないのです。
 
罪を犯さないように戒める者は
自分の罪に気づかない者たちです。
そして傲慢によって罪に罪を重ねているのです。
 
信仰の原初において
罪を犯している自分に気づいてください。
そこから始めなければ
信じることの罪に気づくことも出来ません。
 
考えてください。
自分で考えてください。
無思考を勧めるものに従わないでください。
 
解釈を解釈に過ぎないものとして語るのではなく
奇跡を経験に過ぎないものとして語るのではなく
神に結び付けて、
あたかも信仰のように語る確信に従うのは、
決して信仰ではなく、
人に隷属することに他なりません。
 
この世に巣くう自分信仰に従えば、
この世に巣くう自分信仰者になるだけです。
 
羊は比喩なのです。
愚かな羊を飼うように
人を導こうとする者から離れてください。
 
考えてください。
自分の原初からの信仰の罪について
どうか自分で考えてください。
 
誰にでも与えられている人知を
人への隷属によって無駄にしないでください。
 
信仰の罪の自覚に生きる恥ずかしさによってのみ、
いかなる運びであれ、
救いを待ち望む信仰のうちに
生涯を終えることが出来るのです。
 
考えてください。
自分で考えてください。
どこまでも俗の肉の人が
聖なるものを信じる罪と恥ずかしさに気づいてください。
 
人は決して聖ではありません。
 
 
(2013年06月23日)
(2013年12月18日、一部修正)
 
 
 
 
 


表現の罪
 
 
信仰者であることが先ず罪です。
信仰を伝えようとすることは罪です。
それは一つの表現です。
 
信仰を表現しようとすることは罪です。
 
さらに
信仰を実践しようとすることは罪です。
これも一つの表現です。
 
そしてそれらは
理想の思い込みという偶像信仰を伴います。
 
罪でないものが何かあるでしょうか。
あるなら、どうやって確認するのでしょう。
 
罪でないもの、正しいものが、
求められるべきという当為が、
あるいは求め得るという根拠が
人の知りうる何処かにあるのでしょうか。
 
私はそのような当為も根拠も成り立たないと思っています。
罪があるから救いが必要なのですから、
罪がないことを求めるよりも、よほど大切なのは、
罪があることを自覚することだと思っています。
 
自覚とは、罪を知ることではありません。
罪を知るなら、正しさ(罪がないこと)も知ることになるけど、
それは不可能だと思います。人は正しさを知りえません。
 
以上より、自覚さえも、
うっかりすると見失いがちなのです。
 
求めるべきは正しさではなく、
自己賛美や自己陶酔、等々の、
偽物や悪などの、その都度の罪の自覚なのです。
それはその都度の正しさに近いけれど、
その都度、霧散してゆくような儚いものです。
 
言語化できないものについて
言語的表現は結局、無力です。
 
非言語的表現は衝撃は与えるけれど、
言語以上に捉えがたいものですから、
人が生きているという信仰に
一対一の対応は望めません。
 
つまり詩や芸術や祈りの言葉に感動することはあっても、
神に関わる信仰の表現に至ることは出来ません。
 
それは不条理であり、それは現実世界の不条理よりも、
はるかに根源的な不条理だと言えるでしょう。
 
それらの表現は、信仰とは明らかに断絶しています。
か細い手段であり手がかりであり、
移行という関係付けも体系化もありません。
 
では何ゆえ表現するかと言われれば、
その都度の罪の自覚に近づきたいからだと思います。
 
近づけるかどうかは確かめようもないので、
近づきたいからという理由による必要悪だと思っています。
 
そしてその度に罪の自覚が深くなるためだと思います。
実際、その度に不全感と虚脱感に陥ることで、
罪の自覚は深くならざるを得ないからです。
(不全感がなく、満足感から万能感に至る思考は論外です)
 
信仰についてのメッセージに何らかの意味があるとすれば、
まさに以上に述べたような、
決して満足感ではなく、
不全感に気づくためだと思っています。
 
テーマがあまりに大きく重いために
語調が強くなっているのを自覚します。
断定的表現は叫びだと思っていただければ幸いです。
そしてまた私は虚脱するでしょう。
 
罪を自覚するから信仰が必要なのであって、
正しい信仰があるから罪を自覚するのではないのです。
 
 
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他のブログに書いたコメントを元に記事にしています。
補足として、
人(の命)を助けることは正しいことです。
それは人のレベルで正しいことですから
信仰がどうのこうのと考える必要もないでしょう。
しかし助けた人が責任を持って
助けられた人の面倒を一生見ることは不可能です。
そこには勘違いや思い込みが入り込んでくるでしょう。
何らかの失敗もあるかもしれません。
したがって信仰者にとっては
罪が全くないという状況はないと思います。
それでも助けなくてよいということには決してなりません。
助けるべきであり、それは正しいけれど、
助けても助けられても信仰者なら
罪の自覚から離れることは出来ないはずです。
そのことを知るための献身ということになるのではないでしょうか。
 
(2013年06月20日)
 
 
 
 


異種
 
 
人が人であること自体が
人が人と呼ばれていること自体が
人間同士だと思っていることが
悲劇であるのかもしれない。
 
近づいた同士が離れてゆくのが残念なのではなく
元々別々で
近づいてなどいなかったのかもしれない。
近づくことなどないのかもしれない。
 
散乱したベクトルにも共有できるものがあるのだろう
と期待もしてきたが
ベクトルの本質そのものが人によって違っていて
共有も共通もなく
交流は
似たような図式的表層において
行われているに過ぎないのかもしれない。
 
性格の違いがあり
考え方や感じ方も違うからと
これを個性と呼んではいるが
あまりに話が合わないのは
どう言ってもどう聞いても分からないのは
同じ人間とさえ思えないことがあるのは
また分かったように見えてもやっぱり違うのは
ひょっとして根っこから違うからではないか。
 
人と人は互いに人間同士というのではなく
異種ではないのか。
一人を人と呼ぶなら他はそれぞれ
別の名で呼ぶべき存在ではないのか。
 
例えば人と犬、人と猫、などと
人と人は基本的に同じではないのか。
 
異種間でも共通しているのは
相手が自分の脅威になるかならないかを感じ取って
距離を決めていることだろう。
犬や猫は人に対して賢いのに
人は人に対して下手くそだ。
 
人と人は言語があるから
その一見明確に見えるものによって通じ合っている
と思い込んでいるだけではないのか。
 
知性らしきものの共通性を疑わず
同種であるかのように
分かり合えるかのように
振る舞ってはいる「人と人」
 
注意しないと
「一人」は「一人」に
ある時ある所で根こそぎ
とんでもない存在の恐怖を与えてしまってはいないだろうか。
 
 
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これは経験と推測による疑問に過ぎず、
断定ではありません。
離人感でメチャクチャになっております。(嘆)
 
(2013年06月14日)
 
 
 
 


正誤
 
 
何らかの正しさを
本当に理解したと感じるときには、
「なるほど」~「ああ」
という感動によって
世界が広がるような解放感を伴い、
それが更なる課題へと導いてくれる。
理解は論理だけでなく
感性によって人を解放する動態だ。
 
そうでない場合、
「ふ~ん」
という曖昧で広がらない気分を催すか、
または
辻褄合わせに過ぎなくなって
「うん」「うむ」「よし」
という小さな気合いによる独り納得か
自己満足に過ぎなくなる。
 
神についてはもちろん
人についても
人が述べる意見の正誤は相対的な動態だ。
 
動態なのだから、
不動ではなく
可変であり
相対的なのだから、
誤謬を常に内包している可能性を
わきまえておく必要がある。
 
したがって
様々ある人の意見の中でも
明らかに誤りと言えるのは
誤りの可能性と
変わりうる可能性を自覚しないことだ。
 
良いものを求めることは大切だが、
それ以上に、むしろ、
誤りや偽りや邪を見出すことのほうが、
より正しさや真実に近づけるのかもしれない。
 
人に完璧はないのだから
特に人が不変の絶対的確信を語るとき、
それは既に間違っている。
 
 
 
思う
 
 
「と思う」は
書いても書かなくても
あらゆる人の意見に必ず付いてくるもので、
可能性から推測から
強い主張から断定から
さらには絶対的確信までを
意味してしまう危うさを持っている。
 
発言の文脈と語調などで判断せざるを得ないのだが、
「絶対・・・と思う」という言い方もあるくらいだ。
 
ただでさえ、ひとときでも、
人が無謬性を所有することは困難であるのに、
人が人を超えたものについて
確信を持って断定することなど
出来るはずはないのだから
 
神と信仰についての
人の断定や確信は、
それだけで間違っていると言わざるを得ないのだが、
残念なことに
大方は誤謬も不遜も
自覚されずに語られている。
 
何を教え込まれてきたのか、
まるで確信することが信仰であるかのように。
 
 
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誤りの可能性を自覚しないことは誤り
というのは断定だから、これも誤りだ
ということを考えると、
2行目は1行目を受けており
自覚することも自覚しないことも誤り
または正しいということになり成り立たず、
結局、詭弁と言うべきでしょう。
・・ という感じで ・・
めんどくさいことを考えているうちに
私のような素人は迷路に陥りがちです。
 
昨夜から徹夜ですし、怒りから嘆きの
書きたい発作がなかなか治まりません。
まだ「信仰」と呼ばれているものについて
書かれているものを読んだりすると再燃して
怒り嘆き続けているようです。さすがに
疲れるのでそろそろ休みたいと思うのです。
そのうち唐突に途絶するだろう
とは思いますけど・・頭少し痛い(呻・嘆)
 
(2013年06月12日)

 
 


敬虔マニア
 
 
信仰者は神の愛を知るゆえに
敬虔であるのか。
 
生死も幸不幸も定める神の愛に
人は耐えられないはずだ。
 
幸不幸は、人次第、信仰次第、気持ち次第、
あるいは試練とでも言うのだろうか。
人の信仰では理解も納得も
出来ない不幸があることを知らないのだろうか。
 
信仰者は神への想いによって行動するだろう。
しかし信仰者は神への想いゆえに慎み深く
敬虔なのではない。
 
神はいちいち説得して人を運ぶのではない。
そのことに人が納得するかどうかに
神は左右されない。
人が敬虔または謙虚であるべき理由は、
神の運びが人の想いや
期待に沿うとは限らないために、
神の愛と運びを恐れるからだ。
神を敬うからではなく
神を恐れるからだ。
 
神の愛を受けたという思いに生きるのなら
受けたと思う分以上に
神の運びを恐れるべきである。
 
神が人の行為を是としているとは限らない。
人は神が是としているか非としているかを知りえない。
間違っても神様感謝敬虔マニアになってはいけない。
それは神に対して不正直だからだ。
人は神を敬えるほど悟ってはいない。
 
 
 
栄光マニア
 
 
栄光は神のものであるが、
ゆえに栄える者が衰え滅び死にゆくのを
彼はあれほどに栄えたが
聖書が語るように
息のように過ぎ去った
と教える者がいたら
息のように過ぎ去るのは
栄えた者も栄えなかった者も同じだ
ということを覚えて欲しい。
 
人が栄えるとき
いずれ息のように過ぎ去るだろう
という思いの中には
愛とは正反対の
怨念マニアが棲みやすいからだ。
 
慎みの陰には思考停止が
微笑みの陰には軽蔑が
愛の陰には施したという傲慢が
常在菌のように
棲みついて繁殖しやすいのが人間である。
 
いわれなき当為で本音を隠し
神に対しても人に対しても
神義を盾にして硬直していながら
柔和を装い讃美するような信仰体裁マニアに
神様栄光マニアになってはいけない。
人は神の栄光を分かって称えられるほど悟ってはいない。
 
あらゆる信仰マニアは
信仰ではなく
自らの信念のための
正当化と保身の化け物である。
 
 
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昨日の夜からか、どうしたのか、急に、
まるで怒りのような発作に取り憑かれて
書いている感じです。
 
(2013年06月11日)
 
 
 
 
 

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