ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年06月


不条理
 
 
信仰は不条理から始まる
 
不条理に対して救いを求めるのが信仰
という見方もあるだろうが
信じたからといって
不条理がなくなるわけではない
 
不条理の背後にある大いなる摂理
すなわち絶対者を
信じないではおれない起源と原初
という見方もあるだろうが
背後にあるものは
人一人の人生において
常に背後であり続けるだろう
 
では何故に人は信じる相手を求め
祈り叫ぶのだろう
 
人との関係が頼りないから
自分が頼りないから
という理由もあるだろう
しかし神との関係においても
想い描いた理想像と思い込みによって
失望と幻滅を繰り返すことに変わりはない
 
神様が相手なら
信じて全てを委ねることで救われるだろうか
 
救いとは何だろう
慰めや癒しを感受することはあるかもしれない
しかしそれは人の都合によるのではなく
ゆえに常に得られるとは限らないのだ
 
救いとは何だろう
祈っても心のうちに叫んでも
神の声が聞こえるわけではなく
啓示や導きがあっても
それが神からのものであると
確信してよい位格と根拠は人の側にはない
 
倒れつつあるのに
神を信じているから動かぬ安らぎがあるというのは
偶像に縋りつくことで安定を求める激しい思い込みだ
 
滅びゆく定めを持ち
倒れつつある動態に安定はない
 
では何故に神を信じると言い
祈り叫ぶのか
 
神に対しても人に対しても
想いの間違いを悔い改めようとしても
人の確信を自戒し打ち砕いても
人は独り
祈り叫ぶ相手を
生涯にわたって必要とするだろう
 
不条理であるからこそ
不条理の中で独り
ということに人は耐えられないのである
 
祈りと叫びのうちに
命の終わるとき
信仰は掻き消える
 
信仰は不条理に終わる救いである
 
 
(2013年06月10日)
 
 
 
 
 


昔々習った高校数学では、
 
平方数の和は、
 (k+1)^3 - k^3 の和から計算して、
   n(n+1)(2n+1)/6
あるいは、書き換えると、
  (n(n+1)(n+2)/3)-(n(n+1)/2)
という結果が出る。それをもとにして、
 
立方数の和は、
 (k+1)^4 - k^4 の和から計算して、
 (n(n+1)/2)^2
という結果が出る。
 
特に立方数の和については、
1^3+2^3+3^3+・・+n^3=(n(n+1)/2)^2
   =(1+2+3+・・+n)^2   ---------------------(3)
という
「3乗の和」が「和の2乗」になる
のが、あまりにきれいで、不思議でならなかった。
何とか数式の中に表れないものか・・と考えてみたことがあった。
 
イメージ 1

ということで、(2)より、上の(3)を帰納して、
証明となると、数学的帰納法で、
n=k のとき成立なら、
n=k+1 のとき、3乗の和は、
(k(k+1)/2)^2+(k+1)^3
 =((k+1)^2)((k^2/4)+(k+1))
 =((k+1)^2)(k^2+4k+4)/4
 =(k+1)^2(k+2)^2/4
 =((k+1)((k+1)+1))/2)^2
となり、n=k+1 のときも成立ということになる。
 
 
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最近の私は古い頭と心がクモの巣だらけになって、
緊張しながら、ぼんやりしていて、
考えることも感じることもままならず、
今日も、辛うじて、
ずっと前に考えた数学に逃げている・・。
 
しかし、ともかくも、相手がどうあれ、
ほんの少数だが、消えて欲しくない人がいるので、
クリックしたり、アクセスしたり、メール返信したり、
細い通気孔に手を伸ばそうとして失敗し続けている。
 
自分は何故造られ生まれ生きたのか、
さっぱり分からないまま・・今日与えられたものを
むさぼりながら、恥ずかしくも一日を長らえているのだ・・
 
(2013年06月10日)
(2013年08月15日、図を修正)
 
 
 


前の「アダムとエバの罪」
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/15102526.html
では
因果関係みたいなものに、
また自由意思による選択か
必然かということに、
こだわったような感じで書いたけれど・・
 
 
 
アダムとエバの罪(2)
 
 
旧約聖書を書いた著者たちは、
その時代の人の有様と罪を経験して、
神を信じるしかなく、
その必然から、逆に、
罪の起源を人類の起源に求めざるを得なかったのです。
 
新約聖書を書いた著者たちは、
キリストの時代の人の有様と罪を経験して、
キリストを信じるしかなく、
その必然から、逆に、
旧約から罪の起源を求めざるを得なかったのです。
 
書かれたものは著者たちにとって
それぞれの時代の
今の人間の罪なのです。
 
しかるに今の私たちは
アダムとエバの罪があって、
ゆえに楽園追放があって、
ゆえに、こうなって、ああなって・・と
過去のほうから読み、
因果や必然を考えてしまう。
 
そうではないのです。
アダムとエバから・・ではないのです。
 
今の自分にとって、
今の罪があり、
キリストを信じる不可避な必然があるのであって、
 
過去に必然があるのではなく、
過去ではなく、
考え方が信じ方が
 
・・逆なのです・・
 
 
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この記事は
人に自由意思があるかないかという問題からは
少し離れて書いていますが、
敢えて言うなら、やはり自由意思はないように思います。
未来を知りえないことを以って便宜的に
「自由意思」と呼んでいるような気がします。
 
 
(2013年06月01日)
 
 
 
 
 

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