ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年10月

一度で自分の言葉を綴れない私のポエムは
恐らくずっと完成することはないのだろう・・(嘆)
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愁眉
 
 
坩堝のように入り乱れても
起伏が目に留まりにくく
誰もが平穏無事をどこか信じていて
和みと少しばかりの快楽を求め続けている
近くも遠くも
このように平面的な世界では
時間軸が変えてゆく内部と外部を見つめながら
しずかに過ごさなくてはなりません
 
朝の目覚めと夜の重さが
逆になる世界のことを
恐らく誰も気づいてはくれない
 
命の沙汰も運びも
血の通う道の往来に乗る前に
皿の上に載せられてしまうから
皿に盛られてもなお
口車に乗らぬよう
 
熱く疼く草の根も
深く沈む水脈も
いつか誰かが目を向けてくれるときまで
しずかに語り継いで
絶やさぬように
怯まぬように
愁眉は焦眉に備える糧といたしましょう
 
いつか誰もが肌身に受ける日のために
 
 
(2013年10月27日)
(2013年10月28日、一部修正)
(2013年11月09日、一部修正)
 
  
 
 

かなりの修正を余儀なくされました。
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一瞬の永遠
 
 
仲間はいない
 
ネットで仲間と呼んでも
それは仲間ではない
 
面と向かって仲間と意識しても
それは仲間ではない
 
だから一枚岩などあり得ない
みんな一つ一つの石ころだ
 
それぞれ違う形で
違う転がり方をする
 
転がった果ては明らかだが
真っ暗だとも言える
 
一瞬だけ
共感と呼ばれる時々がある
過ぎた後の約束はない
嘘かもしれない
しかし
その一瞬だけが
人間に許された永遠だ
 
ネットでもリアルでも
その一瞬を求めて
旅をする
 
仲間はいない
あるとき一瞬が過ぎてゆく
 
とどめようとしてはならない
過ぎることがなかったら
次に訪れることもない
 
過ぎてゆく一瞬を
冷めてゆく時を大切に見送る
その一瞬は永遠 
 
 
 
(2013年10月23日、同日一部修正)
(2013年10月24日、かなり修正・・難しいな・・)
(2013年10月25日、また修正)
 
 
 
 
 

 フィクションです。
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   神様の生命保険
 
 
彼はカインでもユダでもなかった。
譬えるなら、彼はカヤパであった。
 
真実ではなく虚偽と隠蔽によって
言論ではなく強制力によって
自分が信仰と呼ぶ価値基準の安泰と体面を守ろうとする彼にとって
誠実を装って尊敬を得ることが何よりも大事であった。
 
神様の生命保険にかかっていると自ら言って
悦に入っていた彼は彼の望むところへ行くことになる。
 
そこは一見清楚な教会であり彼は礼拝堂で説教をすることになる。
 
そこには信徒たちが集い、彼らは
彼の説教が終わると「素晴らしいお話でした」「感動しました」と褒め、
彼が「どこが良かったですか」と問うと「すべてです」と答えた。
彼は褒められることをこよなく好んでいたからである。
信徒たちは彼の視界から外れると直ぐに死人の顔になった。
 
彼の横を通る一人の背教者は、
彼が墓場で墓石相手に独り言をしているのを見て
御使いに尋ねた。
「私はいったいどんな地獄に行けばよろしいので・・?」
 
 
世にあって彼の傲慢は近づく者にとって病識のない疫病であり、
彼の絶望だけが近づく者の希望となり得たが、
彼は偽りを愛したので永遠の偽りに住むのである。
 
 
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天国をイメージすることは不可能と言ってよいくらい困難ですが、
地獄については色々様々に想像だけは可能のようです。
 
(2013年10月21日、同日一部修正)
(2013年10月22日、一部修正)
(2013年10月30日、加筆)
 
 
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恐れよ
 
 
 
人が神を信ずることの恥ずかしさを知らず
人が神を語ることの醜さを知らない者が多すぎる
 
信仰は声高に語れるものではない
 
信仰は秘め事
 
得々として信仰を語る者は
陰部をさらしているようなものだ
ストリートでセックスをしているようなものだ
 
ふるえながら神を恐れ
恥じ入り
 
祈れ
 
そうして信仰者であり続けよ
 
罪びとよ
 
 
 
(2013年10月21日、自戒を込めて)
 
 
人は当てはまるかどうか分からない体験談をそっと語るに過ぎない。
思考もその一部である。
 
 
 
 
 

 
イメージ 1
 
今のこの国に、ある種の混乱と詭弁と、きな臭さを感じる人はいないのだろうか。
 
 
  憲法改正による集団的自衛権と
  「積極平和主義」についての疑問
 
 
「積極平和主義」の「積極」は
集団的自衛権を意味していると思われる。
 
憲法を改正して集団的自衛権を認めてしまった場合、
「権利」だから場合によっては、
放棄することも拒否することも出来るという意見があるようだが、
 
その場合、
憲法を改正して我が国自身が国是としてしまった集団的自衛権の行使を、
アメリカなどから要請があった時、
アメリカとの力関係において拒否することが出来るかどうか。
戦場から離れたところでの机上の空論になりうるのではないか。
 
もし先制攻撃作戦を含む場合、
(アメリカは多くの戦争の場合そういうやり方だ)
他国が参加するときに
日本は「私たちは先制攻撃はしませんから」と言って
撤退することが出来るだろうか。
 
現場の自衛隊が
参加する他国軍から臆病者とか腰抜けとか言われる可能性があるのではないか。
そのとき国の命令によって撤退する自衛隊員は辛い思いをすることになり、
我慢できずに独断で参加してしまうことが決してないと言えるだろうか。
それは文民統制が取れなくなってしまう切っ掛けになりはしないか。
 
また自衛隊員か日本人が人質に取られた場合、
人質救出作戦は紛れもなく一種の先制攻撃作戦である。
 
もし日本も先制攻撃を可とするということなら、
多国籍軍とはいえ、結果として、
世界のあらゆる紛争において日本が先制攻撃を仕掛けることになり、
もはや自衛でも平和主義でもなくなるだろう。
 
アメリカが多くの国を引っ掻き回しては
恨まれてきたのと同じ目に
日本も遭うことになりはしないか。
そういう危険を考えてほしい。
 
「集団的自衛権」と「積極平和主義」は詭弁に思えてならない。
憲法改正に反対する理由の1つである。
 
「平和を乱すものに軍事的制裁を下すのは自衛」
このような大義名分は、いつのどこの戦争でも捏造されてきたのである。
 
イメージ 2

この国を黒雲が覆いつつあることを危惧する人はいないのだろうか。
 
 
(2013年10月13日)
 
 
コメントより : 「人質」という言葉遣いに関して
人質事件とは、人質を用いて何らかの要求を人質の親族や国に要求するもの。
ということで、私の言葉は厳密性を欠いていたようです。お詫びするとともに、
ここでは
敵性他国に囚われた場合を広く指して書いております。
ですから、人質、捕虜、拉致被害者、も同様という文脈です。
いずれも条件交渉が可能な場合と不可能な場合が想定できると思います。
また、
この記事では国内の人質事件については触れておりません。
記事のテーマと文脈から明らかなように、
集団的自衛権という対外的な事柄について、反対の立場から、
また「積極平和主義」という言葉について、リップサービスにとどまらず
曖昧~危惧するべきものとして私の意見を書いています。
 
(2013年10月17日、加筆) 
 
 
 
 

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