ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年11月

 
  歯痛
 
 
この痛みには波動がない。
歯髄から骨髄を抉って、
やがて脳髄を焼くだろう。
血糊の脈管を遊覧したのち
腫脹し破壊し剥離させて
総身の動きをも止めるだろう。
炎症、炎上、延焼、・・でも赤でも黄でもなく、
茶色つまり変色に過ぎないのだ。
染みに過ぎない・・老兵の末路など・・
 
 
(2013年11月27日)
 
痛いよ・・
 
 
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言語世界
 
 
相手の言語世界から発せられた言葉は
自分の言語世界の言葉として受けるしかないから
 
ダイアローグと呼ばれるものは
モノローグが別のモノローグに反応している。
 
世界が別の世界に反応している。
 
言語世界が一致することはないだろうし
一致したかどうかを確認できないからだろう。
 
でも反応し合う相互作用は常に働いている。
 
頭と心の中には
あまり出来のよろしくない検索エンジンがあって
呆れるほど遅いときがあり
バグかフリーズのように不能なこともあるが
検索範囲も能力も無限と言ってよいくらい限りない。
だから驚くほど速く瞬時のときがある。
 
何か受け取ると常に検索し
候補からさらに検索し続ける。
 
そうして日常の活動は
鈍いことが多いようでありながら
非日常的な世界をとてつもなく高速に旅している。
 
時々ループを作ってしまうが
たぶん同じループではないだろう。
増えたり減ったり加わったり欠けたり
キャッシュの保留かゴミ箱に移されたりで 
一回りするごとに世界は変わっている。
 
それがワールドワイドウェブログになり
世界を変えてゆくのだ。
 
 
(2013年11月27日)
 
最終連の「ワールド」「世界」は
一連目の言語世界に対応させて書いたつもりでしたが
極小の世界から大きな世界まで
様々な角度と規模の世界が考えられるような気もします。
 
 
 
 
 

 
悪・一
 
 
相手を悪だと怒るとき
自分は紛れもなく悪なのだが
気持ちを落ち着かせて
自分は悪だと気付いても
相手はもっと悪だと思っている
だから
自分はますます悪なのだが
・・繰り返す・・
 
 
 
悪・二
 
 
うんざりだと
ほぼ反射的に嫌悪して
切り捨てる
先がなくなる
 
先を無くする
という意思表示か
感情表現か
 
眺めているのは
目の前の空気の虚脱と
どこか
とんでもなく遠く
得体の知れぬ世界の風景

 
 
 
悪・三
 
 
知的社交界に居たいのか
デビューしたいのか
しずかに語って
しずかに聞いて
通じなくても頷いて
穏やかに交流しましたという体で
バランスの取れた世界で
冷静に対処するのが大切と
誰かを諭したいのか
 
それとも獣道を駆け巡って
人のも自分のも壊したいものがあって
弾けて弾かれていたいのか
自分が自分であるために?
 
でもどちらも失敗してるじゃないか
どちらも悪じゃないか
 
獣は社交をしない
社交は牙を隠す
 
自分はいつも
自分じゃない
 
 
 
(2013年11月26日、同日加筆修正)
 
 
 
 
 

 
信仰の原罪(2)
 
 
神は畏敬できる存在ではない。
神は恐怖すべき存在である。
 
人にとって全知全能は恐ろしく耐え難い。
人がどんなに隠そうとしても、
すべての欠点、すべての醜さ、すべての罪を知り、
欠けることなく正しく裁くという御方を相手に、
それぞれの死活の命の終わりを覚悟するとき以外、
やさしい父に対するように歓談するなど
どうして人が想定できようか。
 
では人は何故
神を信仰するのだろう。
神は人の悪よりも悪魔よりも恐るべき存在である。
そこにのみ人が
他者と自らのあらゆる悪を超えて
神を信仰する理由があるのかもしれない。
 
しかし神の愛が人に及んだとしても
人が受けたとき既に移ろい霧散してゆくのに、
いったい誰が神の愛をここに留めましたと言えようか。
 
神を知り得ない絶望によってのみ
人は、おののき、ふるえながら、
かろうじて罪の一部を悔いることが出来るだろう。
 
厳めしい信仰は被害意識から他罰へと張り詰めて、
やさしい信仰は逃避へと流れてゆく世にあっては、
神を信じることの罪を知るところから出発しなければ、
人の語る信仰は騒がしいだけだ。
 
人が語る神秘と奇跡と神義と解釈にざわめく信仰
これら神の前に既に無力である人の業(わざ)が
人の前にも無力になるとき
恥知らずの確信は恥じらいの信仰に変わるだろう。
信仰の原罪を知るだけ・・のために・・
 
 
(2013年11月23日、同日一部修正)
 
 
 
 
 

 
「神の導き?」
 
 
「すべては神の御導きですから・・?」
こうして神の名を冠すれば
幸にあっては思い上がり
不幸にあっては無抵抗の弱者の道徳
すべての出来事に恐ろしいほどの
こじつけの合理化の
「神」をあてがうことになるでしょう
 
「あるとき神の御旨だと確信することがあるでしょう・・?」
この私ごときが神の御旨を知る?
どうやって私なんぞが?
と考えてみたりはしないのでしょうか
確信する前に・・
 
「聖書を勉強すれば分かります・・?」
聖書の勉強は人の解釈と
自分の体験からの解釈で出来ている
とは考えてもみないのでしょうか
人の自分の
解釈を絶対化していることに気づかないのでしょうか
 
驚いたことに
決して聖ではない人が
信仰は神の賜物であって
自分の持ち物ではないと言いながら
実は自分の解釈を聖とし神格化しているのです
 
信仰は神の賜物ですが
だからこそ人は敬虔を旨とするなら
人知の及ばないところを
あたかも分かったかのように信仰や神に
あてがうことだけはしてはならない
それが神を恐れることではないでしょうか
 
神の心と行いを知り得ない人にとって
首を傾げて考え悩み
行動しては悔い
赦しを祈るために生涯にわたって
信仰は答えではなく
問いなのです
 
 
(2013年11月19日)
 
 
※ 神への恐れを
畏れと言い換えて満足する愚は避けましょう。
 
自己満足していなければ、
書き癖の習慣だし、好みの問題として、
どちらでもいいようなものかもしれません。
「恐れ」と「畏れ」・・漢字の語源を見ると
畏れには鬼、恐れには心と工具のノミ?とか書いてあり
私には分からなくなります。
 
それよりも、日常語として用いるときに
恐れは恐怖を連想しますが、
畏れは畏敬、敬うべき、また畏(かしこ)まるを連想します。
神への恐れを、畏れと書く心には、
神は恐怖ではない。父であるから畏まって敬うべき
という思いがあるから、畏れを選択するのが当然で
それで事足りたように思ってしまうのが嫌なのです。
 
私にとって
神は予想通りにも期待通りにも導くとは限らないから、
生半可な恐れではありません。
神は恐怖であります。
仰いで祈っても
お近づきにはなりたくないのであります。
人は悪魔と神を区別できるわけではないと思います。
また人はこの世の完全な悪も善も見分けられません。
気安い理屈で、恐ろしい神を
「恐ろしい」から除外してしまうことが私には出来ないのです。
人は、悪魔を恐れる以上に
神を恐れるべきです。
 
つまり恐れと畏れ、どちらを使ってもよいのですが、
「畏れ」を使うことで
神と悪魔を区別できたかのような、
神の恐ろしさが減ったかのような、
神に対して礼儀を守ったかのような意識があるのならば、
そうして形を整えることで
信仰を少しでも整えたかのような気持ちになるのが嫌なのです。
むしろ逆に
神を本気で恐れてはいないように思えてしまうのです。
 
 
(2013年11月22日、加筆修正)

 
 
 
 

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