ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2013年12月

 
驚砂
 
 
認識できる範囲の現象を
認識できる範囲の理論で
説明しようとする認識は
神が与えた砂場
 
認識不能な世界から
ときおり少しだけ表れる砂が
人に気づかれないように
違った表れ方をそっと
表れる世界に書き込んでゆくが
砂場に遊ぶ人々は
それを発見と呼んだり
啓示と呼んだりする
 
「変わらない世界」を
「変わらない人」が
「変わらない真理」として
明らかに出来ると思っているのだ
 
兄弟は他人の始まり
家族も他人の始まり
裏切り裏切られた感いっぱいで
生きそして死んでゆく人
 
他人は家族の始まり
他人は友人の始まり
と期待せずにはおれないから
 
 
 
※ 
驚砂(驚沙)
キョウサ
風に吹かれて飛ぶ砂
 
 
(2013年12月27日)
 
 
 
 

 
荒れる
 
 
エキセントリックな常識に
キャンセル待ちされるエアーでは
選択の余地も許されず
瓦礫の一本道を通らねば
明日もなければ今日もないのだ
 
バナーに目を焼かれ
ただれた顔を押し当てて
捺印するプロトコル
 
日和見な形骸に
身を委ねたジェネレーションは
のどかな晴天の日の海から
次から次へと打ち寄せるのだが
塩水の利いた傷口から
火山を見上げて飛沫と散る際に
空の底辺で手を伸ばす
 
わたしたちはやさしくありたかった
 
 
(2013年12月25日)
 
 
 
 

断片的ですが・・
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人類教?
 
 
人間共通の真善美を追求すれば
限りなく神に向かって発散するだろう
人の世界で収束することはない
 
 
神に向かって発散する ≒ 神に向かうことは出来ない
神に向かおうとしても、向かうことはない
確認しようがなく
人の罪性によって早晩
気づかぬうちに
誤解、曲解、欺瞞、偽善、自己正当化
に走ることになるだろう
 
 

 
広辞苑に「人類教」=「人道教」
というのが載っていました。
人類を崇拝の対象とするのだそうです。
(広辞苑が悪いわけじゃないけど)
名前も意味も
正直言って、呆れた・・。
倫理的ということを考えるだけでも、まだ
生物教か生命教のほうがマシだろうって話です。
 
 
(2013年12月25日)
 
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
記事とは関係ないけど、
何だかずっと消沈している。
今日はクリスマスなのだが・・
 
 
 
 

あまり関係のない写真で挟みます 
イメージ 1
 

病・・
 
 
進行と治癒が同時に続いている
害と益が続いている
災いと幸いが続いている
苦と楽が続いている
両者は不規則な波動に呑まれて分かち難く
よかれあしかれ総ての経過は
いずれ唐突に中断して再開しない
それが結果であり
それ以外の結果はなく
病者はその結果を知る由もない
少しばかり残された他者が考えるかもしれないが
大方間違っている
人間という病においては
 
 
(2013年12月22日)

 
イメージ 2

 
 
 

 
無限の自覚
 
 
無自覚は思考を切り捨てるほどの鈍感さの事実であり、
自覚は切りのない無限の当為(「べき」の付くこと)である。
人間は、前者でありたくないとしても、
後者であることも不可能であり、
よって人は偏狭な偏屈(強意です)にしかなれない。
・・と一応書いてしまっておきます。
 
純粋でありたければ自覚すべき何かがあるとしても、
自覚→無自覚の自覚→無自覚の無自覚の自覚→・・(最善)
または→自覚の無自覚→自覚の無自覚の無自覚→・・(最悪)
となり
最善でも無限に続く当為に悩まされることになる。
 
どこかで誰もが切りのない当為を切り捨てている。
それは安易な無自覚であり、
ゆえに結局、偏狭で偏屈にならざるを得ない。
 
最も純粋な論理より成る数学において
無限が収束するなら有限になり
扱うことも計算することも可能になります・・無限級数、微積分など。
また無限が収束しなくても扱えることもあります・・集合など。
しかしそれでも無限を無限のまま数えることは出来ません。
 
したがって日常的思考において無限は手に負えません。
ぼんやりしたり憧れたりするのが精いっぱい・・
つまり答えはないので、
無限の問題に何らかの時々の収まりを付けるならば
論理的思考という知性のみならず
情緒的人間性としての感性によって
恥ずかしい
という心を失いたくない・・と思うのです。
 
この恥ずかしさは
「体裁や世間体の恥ずかしさ」ではなく、
むしろ反対の方向を持ち、
恥ずかしい存在でしかありえない自分を認めることになります。
 
偏狭で偏屈になっても
恥ずかしさを失いたくないと、
また恥ずかしいと感じるとき
常に人は自分に何かを問いかけており、
ゆえに、死に体の安定ではなく、
生きる不安定を求めているからです。
 
 
(2013年12月19日、同日若干修正)
 
 
 
 

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