ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年02月

 
  「聖書語」
 
 
 前に、解釈信仰、神秘信仰、史実信仰、奇跡信仰、といった言葉を用いましたが、それらはいずれも人が解釈したことを神として信仰するのはおかしいという批判でした。ゆえに人の解釈を通しているので、一括して解釈信仰と呼んでよさそうに思えます。
 しかもそれらは解釈した文章的なものだけではなく、すり込まれた観念か体質か習性のように染みついてきます。そこから外れると条件反射のように拒否反応が起こりやすくなっているようです。
・・「言っちゃいけない」「聞いちゃいけない」の潜在意識 ? ・・
 
 「聖書語」というものについて前に書きましたが、教会では兄弟でもないのに兄弟と呼び合う。怖いのは、兄弟という呼称そのものではなく、兄弟と呼び合うことによって整った信徒である自分を確かめ合っているかのような雰囲気でしょう。信仰は呼称によって確かめることは出来ません。
 そして聖書の話をしたり聞いたりするのですが、聖書に関連した好ましい話だけが語られるようです。そんなに都合のよい話ばかりではないというようなことを言うと、とんでもないかのように風向きが冷たく変わってしまう。
 
 ずっと昔いたことのある教会で、洗礼を受けるときに発作を起こして倒れた信徒がいて、その話を牧師に言うと、牧師がまるで舌打ちでもするかのように不快な表情を見せたことがありました。
 教会では、にこやかに好ましいことだけを語って讃美していないと気が済まないらしい・・
・・牧師も長老も信徒も・・まるでパブロフの犬ではないか・・
 
(またこの譬えで「誇る者」に書いたような変な解釈をされると困るので書いておきますが、この犬は人に飼われています。神に飼われているのではありません。人の解釈による慣習的条件付けです。)
 
 讃美できないような都合の悪い話について結論は出せなくても (そういう話はおそらく結論は出ないと思います。教会はこの世にある間は聖なる教会ではないからです。人間の教会です。) 教会が人間としての共感を持ってそういう話を共有し考え話し合える場であったなら、私は教会から今ほどに離れることはなかったかもしれません。
 
 牧師は悩みのない平安の辻褄合わせのためにいるのではないのだから、守るべき威厳という神の前に空しい虚栄よりも、育むべきは人間同士の信頼関係です。牧師が信徒とともに人間として苦悩している教会であってほしいと願って止みません。
 
 
(2014年02月23日)
 
 
 
 

 
  誇る者
 
 
弱いと言えば
「弱さを誇る」と言う。
そうじゃない。
正面を向いて解決しようとせず
裏でこそこそ話を回すような
卑怯な「弱さ」のことを言っている。
 
しみついていると言えば
「しみを誇る」と言う。
そうじゃない。
体質のように「しみついて」
陰で欠点を譬えたシミに言いかえるような
卑怯な「しみ」のことを言っている。
 
臆病と言えば
「臆病を誇る」と言いかねない。
そうじゃない。
どこまでも受けず答えず考えず
教えられた沈黙を美徳とするような
卑怯な「臆病」のことを言っている。
 
卑怯と言えば
「卑怯を誇る」??
とでも言うのだろうか。
 
 
(2014年02月22日)
 
 
 
 

 
  変・・?
 
 
何か 
尋常ではないようだ 
・・という感はあります
 
意見 
無反応 
無視 お見限り 
様子見? 模様眺め? 
関わっている世界と他者 
 
虫けらが 
巨大な勢いに逆らえば・・
・・と予想しなかったわけではないが・・
 
私の意見 
他者の無反応 
という反応 
ずっと続いてはいたのだが 
寒い 冷たい 痛い 
 
少ないお味方は不明 
数知れぬ敵? 
物言わぬ 臆病者・・
 
 
(2014年02月22日)
 
 
 
 

前に書いたことも重なりますし、語彙と言えば
ここでの私の語彙と言うほかなくて申し訳ないですが・・
 
 
  頑固と傲慢
 
 
頑固は表れる確信であり、
傲慢はすぐには表れない確信である。
 
頑固は人をあからさまに大馬鹿にし、
傲慢はひっそり小馬鹿にする。
 
頑固は大声で「何を言っとるか!」
傲慢は聞こえないように「ふっ・・何を言っとる」
 
頑固はわけもなく人前で怒り、
傲慢はわけもなく人知れず怒りを燃やす。
 
頑固は隠さず大騒ぎを起こすだろう。
傲慢は隠れて謀(はかりごと)を行う。
 
頑固は隠さないのでしばしば嫌われ、
傲慢は尊敬されるのが当然という秘密の顔を持つ。
 
頑固は嫌われることでがっかりするが、
傲慢は尊敬を得れば自己満悦に浸る。
 
頑固は間違いをあらわにするが、
傲慢は間違いを隠蔽する。
 
頑固は見るからに一面的だと分かるが、
傲慢は見られる様を気にしているので分かりにくい。
 
頑固はしばしば根拠のないことを言うが、
傲慢は取って付けたような根拠を語るだろう。
 
頑固は時に愛されることもある。
傲慢が愛されるのは隠すことと騙すことによる。
 
 
(2014年02月21日)
今まで私が確信と呼んで批判してきたのは、
言うまでもなく、ここでは
頑固ではなく傲慢のほうです。
 
 
 
 

この記事も聖書解釈が絡んでくるので苦手なのですが、
なんかおかしいと、昔から問題としてきたことだったので
書いてみます・・前にも書いたような気もしますが・・
 
 
  幼な子
 
 
「幼な子らをそのままにしておきなさい。
 わたしのところに来るのをとめてはならない。
 天国はこのような者の国である。」
(マタイ19章14節)
 
「幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、
 そこにはいることは決してできない」
(ルカ18章17節)
(マルコ10章15節も)
 
(※ 「おさなご」は「幼子」と書くのが
 今は一般的なようです。ここでは
 私が親しんできた口語訳聖書の文言としては
 「幼な子」を慣用として使っています。)
 
この幼子の譬えは
聖書の中でも有名な箇所なので
よく引用されます。
 
キリストが相手なら
幼子のままでよいでしょう。
しかし相手が
ただの人間ならそうはいきません。
 
信徒の在り方の理想として上の聖句を引用して
「幼な子」を持ち出す者に注意してください。
 
教えたことをそのまま受け入れなさい
という意味かもしれないから・・
そういう信徒が扱いやすいという意図から
かもしれないから・・
往々にして小難しい議論をするな
という意味のことを添えて・・
 
これは前に書いた「信仰は理屈ではない」を
履き違えることと同じです。 
信仰者の死活問題として、
信仰について人間として、
考えるべきことがあるはずです。
決して難しくも小難しくもないのです。
どうか「信仰だから」と
思考を停止させないでください。
 
「物の考えかたでは、子供となってはいけない。
 悪事については幼な子となるのはよいが、
 考えかたでは、おとなとなりなさい。」
(コリント人への第一の手紙14章20節)
 
幼子でなくなった大人は
人間として考えなければならないことがあるはずです。
 
(※ 「悪事については幼な子となるのはよい」
 というのは分かりにくいですが、
 幼子は意図して悪事を行うことがないという意味か、
 幼子は悪事を行う力がない、できない、という意味か・・
 解釈の言葉遣いの難しさを痛感しますが・・汗)
 
幼子は意図して善行を積むことも出来ない
ということを知っていてほしいと思います。
 
幼子は善でも悪でもないのです。
遺伝素因による性格も
未だ明らかには発現していない年齢です。
何も持っていないし何も自分では出来ないのです。
与えられたものを
そのまま受けるだけなのです。
 栄養でも薬でも・・毒でも・・
ということです。つまりキリストが
直接与えるのではない現代においては、
誰が与え、また何を与えるかによっては
とても危険だということに注意してください。
 
「聖書語」とでも言うべき不可解な言語を用いる者は、
少し考えれば意味不明なほど文脈や前後関係や
時代背景から不自然だと分かるのに、
言うことの端々に聖句をちりばめます。
 
それが耳に心地よく響いたときこそ要注意なのです。
 
このブログを読める人は既に大人です。
だから考えてください。
幼子は譬えなのです。
私たちは幼子には戻れないのです。
幼子のようにはなれないのです。
しかも語りかけてくるのはキリストではないのです。
 
幼子の「素直」なイメージを利用して
口数を少なくすることや、
「幼子のように」受け入れて
文句を言わず聞き従うことを勧める者は
キリストの前で最も幼子から遠い者です。
 
 
(2014年02月19日、同日修正加筆)
 
 
 
 

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