ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年02月

前に書いたことを含めて改稿
(再録です)
前の記事に関連して・・
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 信仰と確信(2)
 
 
信仰は仰ぎ
確信は見下ろす
 
信仰は仕え
確信は使う
 
信仰は人間を求め
確信は聖になりたがる
 
信仰は恥じらい
確信は恥を知らない
 
信仰は悔い
確信は侮る
 
信仰は罪の赦しを願い
確信は罰することの許可を願う
 
信仰は罪の明らかなることを喜び
確信は罪の隠れることを悦ぶ
 
信仰は自らの依存と偏見を戒め
確信は他者のそれらを責める
 
信仰は存在の根源を求めており
確信は表面の見かけに終始する
 
信仰は恥の名を残して隠さず
確信は恥の名を残さぬように削除する
 
信仰は失われるものを愛し
確信は獲物を見せたがる
 
愛は無知を知り
偽善は知識を誇る
 
かくして
信仰は見逃さない御方を恐れ
確信は見えないところで手段を選ばない
 
 
(2014年02月03日)
 
この記事は時々再録するつもりです。
 
(2014年02月08日)
 
 
 
 

 
 信仰と確信(3)
 
 
信仰は今も砕かれており
確信はかつて砕かれた思い出話をする
 
信仰は知らない弱さをわきまえるが
確信は無謬の迷宮に酔いしれる
 
信仰は達し得たところの空しさを知るが
確信は達し得たところから見下ろすことを好むだろう
 
 
 * * * 
 
今回は聖書解釈の話なので
原語がどうだとか、詳しいことは分からないのだが・・
 
「達し得たところに従って進むべきである」
(ピリピ人への手紙3章16節)
 
同12節
「わたしがすでにそれを得たとか、
 すでに完全な者になっているとか言うのではなく、
 ただ捕えようとして追い求めているのである。」
同15節
「あなたがたが違った考えを持っているなら、
 神はそのことも示してくださるであろう。」
に続く一節である。
 
16節は、決して
「達し得たところは確信であり
 確信を得たところから次の確信へ進めば間違いない」
と言っているのではない。
 
あることが正しいと思ったら人は
そこから進むしかないだろうから、
そうするべきだと教えている。
 
進むことに逡巡している人に進み方を教え
進むことを勧めているが、
12節から明らかなように、
決して達し得たところを誇ってよいとは言っていない。
 
つまり
「私は私の達し得たところがあるのでそこから進み、
 あなたはあなたの達し得たところから進めばいいでしょう」
ということを投げやりに言って、
相手の何が煩わしいか知らないが、
異なる意見を終わらせるための聖句ではない
ということは15節から明らかであろう。
「神はそのことも示し」というのは
神が直接示してくれるわけではないので
(少なくとも現代においては
 神は手とり足とり教えてはくれない)
 
つまるところ
違った考えについては、
・・神様が取り成してくださるかもしれない、
あるいは、神の下に平等なのだから
違った意見にも御心は通っているかもしれない、
ゆえに、神を恐れるなら
異なる意見をぞんざいに扱ってはいけない
といったところだろうか・・
 
異なる意見も、たとい奇想天外な異説であっても、
反対意見があるならはっきりと述べるべきだが、
理解できないと思っても、
今のところ分かりかねると保留することも出来るのだし、
 
少なくとも
自らの確信に基づいて、前にも書いたが
「何を言っとる」という感じで切り捨てて、
その根拠として上のピリピ3章16節を持ち出すなら、
その態度に反対するのは、まさしく同聖句なのである。
 
傲慢な確信のもたらす所産というのは
こういうものであることをわきまえるべきだろう。
 
 
(2014年02月16日)
 
 
 
 

 
 腐った祈り
 
 
最近になってからなのだが
「わが罪をおゆるしください」
と祈ることに
罪悪感を覚えるようになった
 
「すみません」か
その繰り返しになるだけのときがある
 
許される?赦される?
私の罪が?
という疑問か自虐の気持ちだろうか
 
定式的(形式的)常套句になってうんざり
という気持ちだろうか
 
パリサイ人が
これ見よがしに祈っているようだ
とでも感じたのだろうか
 
それとも本音が
御許へ行かせてください
さらに
この世から離れさせてください
現実的に
殺してください
と言いたいからだろうか
 
さらに祈りの終わりの
「主イエス・キリストの御名によって祈ります」
も白々しいような気がしてきて
 
特に自分のことで祈るときには
「御名におすがりします」だけになっていることが多い
 
昔から親しんできた祈りの言葉なのに
 
それに
ゆるされないなら
信仰のどこに救いがあるというのだ
 
今日久しぶりに
「おゆるしください」
と祈ったのだが
横たわったまま
「おゆるしください、おゆるしください」と
殆ど泣き声で繰り返した
(年寄りだからこのリアルな姿はかなり醜い・・)
 
 
(2014年02月14日、同日一部修正)
 
 
 
 

相変わらずネガティブな記事で申し訳ないが・・
 
 
  法
 
 
作られた頃は
それだけで好ましいと思えても
 
あらゆる法は
それが有効であることが
当たり前になった頃に
悪用され始める
 
 
「時が熟す」から
「時が腐らせる」への必然・・
 
政治における法制度から
宗教における教えに至るまで
 
ここで法とは
万人に適用される当為(「べき」の付くこと)・・
 
したがってできる限り
悪用を予測して
難しいけれど
備えと警戒をしておくことが必要になります
というのは
悪用をたくらむ人や
意識せずに悪用してしまう人が
必ず現れるから
 
例えば
聖書の文言に関しては
そういう悪用の預言が
既に込められた預言と解釈することも可能
と、今は書いておきます
 
 
(2014年02月11日、同日一部修正)
この記事も時々再録するかもしれません。
 
(今回は前の記事、それ以前の記事、などを参照)
 
 
 
 

 
 悪口
 
 
おかしいと思うことを
おかしいと言ったら
「悪口を言い合ってはならない」
(ヤコブの手紙4章11節)
を引用して
悪口を言ったと
責められたり無視されたり
ならば
そのボクシは
黙っているか
褒められることしか
求めていないと知るべきです
壊される前に去ったほうがよい
 
 
 
 態度
 
 
「偶像の完全排除には反対です」
反対意見の表明です
「それは玉ねぎの皮を剥くようなもので・・」
反対意見の比喩です
「出るのは涙ばかり・・」
「涙の出ない玉ねぎもあったような」
ここまで言うと揶揄になります
というより
ここまで言われて初めて
相手が
どういう態度で発言しているかが分かってきます
最初から「ふっ何を言っとる」という
頭ごなしの高圧的な態度だと分かるでしょう
それを改める努力が見えないなら
話し合いの気持ちなど持っていないということです
 
玉ねぎの皮むきでも
ありったけの涙を流すべきなのに
 
 
 
 乱用
 
 
聖書の言葉だからと
「静まれ、黙れ」(マルコ4章39節)
を引用して婉曲的に
人を黙らせようとするのは
聖書の私物化と乱用です
 
聖書のこの部分は
海に向かって言われ
「なぜ、そんなにこわがるのか」
(同40節)に続き
キリストがそばにいるのだから
こわがる必要はない
という救済の聖句なのです
 
キリストでもない人が
黙らせるために
つまり救済もできないくせに
この聖句を唱えるのは
おかしいのだから
おかしいと言ってください
 
 
 
(2014年02月09日、同日若干修正)
 
 
 
 

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