ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年03月

・・統合失調症 schizophrenia について・・
私の考えてきた恐らく妄想に過ぎないことと・・
ウィキペディアなどからメモしたことなどです・・
 
 
  統合失調症とドーパミン
 
 
統合失調症に病理変化(炎症、循環障害、腫瘍、奇形、変性)は見られない。
 
(主に)脳内白質繊維走行つまり回路の
解剖学的個性による偏り(小~大)があるのではないか。
・・偏った回路(ドーパミン系)とする。――――――――――――――(A)
 
(A)を刺激が頻繁にとおるようになると
 正常な思考回路(B)を上回って
 思考障害の発現(機能的病態)→発症するのではないか。
 
 
※ 作業療法やデイケアが有効なのは、
 脳内皮質樹状突起の新生と再編による正常な回路への刺激が増加し、
 (A)への刺激が減少することによるのではないか。
 
※ 抗精神病薬によるパーキンソン症候群の
 出現頻度に個人差が大きいのは、
 (A)に小~大の個人差があるためではないか。
 
※ 年を取って症状が目立たなくなる・・軽症化、固定化は、
 脳細胞が加齢によって死んで減少することによるのではないか。
 
※ 解剖学的個性としてドーパミン線維が有意に多いのではないか
  ・・神経接合部シナプスの生化学以前に調べることがあるはず・・(?)
 
 
(ウィキペディア等から・・メモ・・)
 
ドーパミン dopamine は
様々な機能を持っているようなので整理してみると、、
 
ドーパミンは、アミノ酸チロシンから作られ、
ノルアドレナリン、アドレナリンの前駆体。
3つをカテコールアミンという。
 
ドーパミンの所在
基底核、中脳辺縁系
・・統合失調症では過剰と言われ、治療薬(ドーパミンブロッカー)の根拠・・
黒質線条体
・・不足すると、パーキンソン病、
 パーキンソン症候群(抗精神病薬の副作用、その他)・・
中脳皮質系、特に前頭葉
・・報酬系・・増えると意欲増進などに関与・・
下垂体漏斗形
・・プロラクチン抑制・・
その他、副腎髄質など・・
 
薬剤として : 
ドーパミン拮抗剤
・・抗精神病薬(メジャートランキライザー、ドーパミンブロッカーなど)
 クロルプロマジン(コントミンなど)、
 ハロペリドール(ブロトポンなど)、等々種々・・
ドーパミン作動薬
・・抗パーキンソン薬:Lドーパ、アマンタジン、など
 他に、アンフェタミン、メタンフェタミン、メチルフェニデート、など
ドーパミン(イノバン、カタボン)は、
・・急性循環不全(ショック)治療薬(点滴内混注による昇圧作用)
 
 
(2014年03月27日メモ・・、同日一部修正)
 
 
 
 

論理のような、論理を否定するような、初歩的なことかもしれませんが・・
 
 
  詭弁
 
 
「神は神を造れない」 ―――(1)
というのがあります。
 
そこから
「(ゆえに)神は全能ではない」 ―――(2)
というわけです。
 
しかしまた
「(ゆえに)神は至上であり唯一全能である」 ―――(3)
とも言えます。
 
相反する2つの結論が出てきます。
 
(1) → (2) は、
言葉面の論理遊びで、詭弁だろうと思います。
 
(1) → (3) は、
同義の言い換えに過ぎないと思います。
 
今まで、仮定の話、仮想、想像、仮説、仮称、
という事柄について、
私も「地獄論」その他、書いてきましたが、
 
そこに表わされることは人の想定の範囲内に過ぎません。
表したことがその範囲を超えて真となることはありません。
既知のこと即ち人の言葉の概念などを土台に語っており、
どんなに考えてもその土台を超えることはないのです。
 
神は既知ではありません。
神はどこまでも恐るべき未知であり
希望を寄せることは出来ても
人の言葉や論理や感性の俎上に乗せることは出来ません。
 
神が存在か不在かを議論することは無意味です。
神は信ずる者にとってのみ神ですから
神について人は客観的にはなり得ないと思います。
 
人が努めて(ある程度ですが)客観的になって
対象に出来るのは人と人の世界だけです。
つまり
人が神について語るというのは
神を信じたり信じなかったりする人について
語ることに他なりません。
 
前にも書いたことを繰り返しますが、
「神」を主語にした神の内容が人にとって真となることはない
と・・何度考えても・・思います。
 
「神は全知全能で唯一の絶対者です」
「神は愛です」「主(神)の道を歩みなさい」
この類の言葉は聖書由来だからというので
枚挙に遑(いとま)がないほど讃美とともに語られますが、
信ずる者にとってだけ意味を持つ反面、
語る者にとっても語られる者にとっても空疎で無感動な
思考停止を促す言葉であることを肝に銘ずるべきでしょう。
 
神について信仰について語りたいならば
全身全霊の残る力を込めて
人(の世界)について語るべきでしょう。
 
 
(2014年03月27日)
 
 
 

発散、発散、・・ということで・・
 
 
  遠い景色
 
 
努めて知ろうとする信じられること
それは信じている自らの有様に過ぎなかった
 
人の間にあるはずの真実が
人のいない遠い野生に生きているようだ
 
イメージは汚れた言葉を引きずって
シンクロしない想念はぼろ布の穴だらけ
 
笛を吹いても引っぱたいても
踊るものもなく跳ねるものもなく
伸ばした手に触れる形は形にならず
目を凝らすほどに視線は閉じられてゆく
 
駆り立てられただけの脆い声は
喉から体温を奪いながら
むしろ乾いてゆく果てしない炎症だ
 
荒野から砂漠への
旅立ちに捧げる花は
指圧に血を咲かせて滴るほどに
 
身を埋めよと風土を返す
 
 
(2014年03月26日)
(2014年03月27日、一部修正)
 
 
 

 
  境界
 (前に書いたことの修正)
 
 
人が有限であるなら
人はその限界を知っており
そこは人と神との境界でもあるので
神の境界も人は知っていることになり
これは明らかに矛盾しているので
ゆえに人は無限である
 
と背理法のように
前に書いたことがありますが
修正の必要を感じました
 
神は全能だが
人には出来ないことがいっぱいあって
しかも未知数である
それだけで人の領域は
神の領域に包含されており
人の領域外に神の領域がなお存在するので
境界を知らなくても神に比べて
人は有限であると言えるでしょう
 
人が無限なのは
広く見渡しても
さらに細分化すればするほど
人においても
未知の部分が限りないということでしょう
人が出来ることも未知数なのです
 
ここにおいて人の有限と無限は
前に書いた必然と自由の問題と同様に
相反するものではないということになるでしょう
 
論理にこだわり過ぎると
それを充足させるために
変な論法が生まれ結局
勢い任せになるような気がします
 
(2014年03月25日)
 
ひとつの論証のようなものに批判的になって書いたことが
情緒的でもなく、もっと下手な論理もどきになっている。
 
情緒的な収まりは別の機会に・・というか要するに
人にとって本質的に未知なるものは同時に
人にとって自由で無限としか言いようがないのではないか
・・と書いて一応まとめにしておこうかと・・??
 
(2014年03月25日、同日加筆)
 
 
 
  退行
 
 
生み出した言葉は
言葉に追いかけられ追い詰められ
倦み疲れた果てに退行して
やすやすと言葉を裏切るのです
 
軽快に飛翔したつもりが
不用意に転げ落ちてしまって
 
人生のように長い文脈によって
積み重ねてきた行路の
すべてを裏切ることがあるのです
 
捨て去るべきものがあり
変えるべきことがあるなら
より明確な根拠と説得力をもって
修正しなくてはならないでしょう
 
急ぐ必要はなく
ましてや慌てる必要はさらになく
死ぬまで思考と志向を失わない限り
こぶだらけになった転倒のその先に
血路は開かれるのだという
希望を抱き続ける他はないのでしょう
 
退行して裏切られて
発展と成長の一段階を踏みそこなって
また踏み直すことを繰り返しても
老いと病と死が吸い込むまでは
いくつになっても
人は青いままなのです
 
 
(2014年03月25日、同日一部修正)
 
 
 
 

また思い付いたままに似たようなことを書くことになりますが・・
 
 
  神への恐れ
 
 
解釈信仰によって神への恐れは、
未知なる絶対の存在に対する恐れではなく、
「想定された既知の絶対」に対する礼儀に堕してしまっている。
 
想定可能な「絶対」は絶対ではない。
想定する人間が絶対ではないからだ。
 
人は神を想定できないのに
「人は神を知ることが大切です」と言い、それは
神を知ることが出来るからと思っている信仰者が多いようだ。
 
ときに「聖書に書いてあります」と言う。
聖書は解釈するのは他でもなく人である。
「文字通り」から「歴史的・文献的」に至るまで
解釈は紛れもなく人の業(わざ)である。
 
ときに「人が知るのではなく、神が知らせるのです」と言う。
知らせたのは神であるとどうして分かるのか
という返答不能な無限の問答が続くだろう。
 
人の業や境地や心構えによって
神や神の関わる信仰を
正しく会得~感受しようとする方法論は間違いと言わざるを得ない。
どうすればよいという方法は人の側にはない。
どうしても高々原罪・・という理解以前の心構えが必要だ。
人の言葉は便利ツール以上のものではないが
神の領域は便利ツールには収まらないだろう。
 
個人の信仰の原初においてそこを勘違いすると
出来上がるのは信仰者ではなく
宗教モンスターとでも言うべき存在者になるだろう。
 
人が知り得るのは
神ではなく神の意思や行為でもない。
人が知り得るのは
不可知であるがゆえに絶対の存在に恐れを抱くことであり、
絶対の存在であるがゆえにその君臨に希望を抱くことである。
 
希望は漠然としているようだが、
恐れと希望を通して絶対者を想うとき
生まれてから死ぬまでを支える信仰となりうる。
 
信仰としての希望は条文と違って
画一的ではあり得ない。
人が他の人を想うときの想定が不確かなように
個人によって信仰がもたらす非言語的な希望の内容はそれぞれ異なる。
 
恐れても思いによって想い描いてしまう
という原罪を自覚することが絶対者に対する信仰であり
ゆえに希望であり
人間にとってそれ以上はないだろう。
 
したがって解釈や仮説は
信仰そのものではなく糧に過ぎないことを
他者にも自分にも明記したうえで述べられるべきである。
また解釈や仮説であるから信仰と違って
整合性や一貫性が問われることになる。
それを経てもなお信仰そのものではない。
「信仰は理屈ではない」とはそのことだろうと思う。
 
 
神は可知だと言うなら分かるように説得して欲しい
・・軽蔑のように「不可知論に陥った」と言う前に・・
 
 
(2014年03月21日)
 
 
 
  悔い改め(再録) 
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
  不信仰告白(再録) 
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
(書いたのは恐らく20代半ばの頃・・)
 
 
 
 

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