ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年03月

 
  新しく・・
 
 
習い覚えた言葉と概念に
囚われていることに対峙しようと思っても
やはり言葉でしか語っていない。
 
むしろ言葉とその先入観にまみれて書くのです
・・とでも自覚しておかないと
何も言えないし書けない。
 
何か独立した論理や感性があって
スーパーバイザーのように表現しようとすればするほど
ますます言葉の深みにはまってゆくようだ。
 
人が言葉と既成の概念をすっ飛んで超えることは出来ないが
新しい言葉の期待は関係というものに寄せられる。
 
言葉の新しい関係つまり結びつきはポエムの仕事かもしれない。
しかし比喩や逆説や飛躍など
詩的な文章に広げるとポエムに限ったことではないだろう。
 
言葉の新しい関係は
人の関係に他ならない。
 
同じ人同士においてさえ
関係に既得はあり得ない。
 
人間はいつまでも未熟なので
新しい関係を求めずにはおれないからだ。
 
 
(2014年03月16日)
 
 
 
 

 
  遠く近く
 
 
人が死ぬとき
残された人は年を取ります
人が去るとき
残された人は年が寄ります
 
帰らないとき重なり
遠ざかるとき近寄るもの
 
欠損が置いてゆき
離別が合わせるもの
 
さまよう路上の時のように
幻の中に知己を探すように
風の匂いに
燃えているのか
濡れているのか
 
呆気に取られて
その呆気をさえ取られるように
 
愛する人を包めるなら
命なき静けさになりたい
 
 
(2014年03月14日)
 
 
 
 

聖書を読んでみて単純に考えたこと・・
 
 
  7×70
 
 
ペテロがイエスのもとにきて言った、
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、
幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」
イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。
七たびを七十倍するまでにしなさい。
(マタイによる福音書18勝22~23節)
 
七は天地創造にまつわる数で完全を意味する。
つまり「七たびを七十倍」とは、限りなく赦しなさい
という意味らしい。
 
僕(しもべ)はひれ伏して哀願した、
「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」
僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、
その負債を免じてやった。
(同26~27節) に続き、
 
次に、上の僕が
より少額を貸していた別の人を赦さなかったため、
主人は立腹して僕を獄舎に引き渡す話があって、
 
もし心から兄弟をゆるさないならば、
わたしの天の父もまたあなたがたに対して、
そのようになさるであろう。
(同35節) に続く。
 
つまり人は人を限りなくゆるすべきだ
ということだろう。
 
しかしここで注意するべきこととして、
主人は僕がひれ伏して哀願することによって
僕に罪の意識があり悔いているからゆるしたのであり
(上の26~27節で明らかだと思う)
その僕が別の人を赦さなかったため、主人は
僕自身の罪を悔いた心が本当ではなかったと判断して
今度は赦さなかったということだろうと思う。
 
人は限りなく無条件に人を赦すことが美徳、
即ち主イエスの御心に適うことだろうか。
 
人を傷つけた者がいたとしよう。
人が限りなく無条件に赦せば
赦され罪を問われなかった者は罪の意識もなく、
さらに多くの人を傷つけるだろう。
この場合、
赦すことは、愛することではなく、むしろ悪である。
 
認められない罪は赦しようがない。
認められない罪は赦されることを求めてさえいない。
 
 
覚えざる罪というのがある。
記憶されなかった罪、思い出せない罪があるということのようだ。
しかしこの場合も
覚えざる罪の意識があるということは言えるだろう。
 
赦すことを勧める者にかぎって言うことで満足して
人が人を赦さないことを責める反面、
実際は自身が文句を言わせず裁いており
赦しても許してもいないことが多いという印象がある。
 
 
※ 「ゆるす」を
「赦す」と書いたり「許す」と書いたりするが、
「赦す」は既に犯した罪を赦免することで、
「許す」は事前に許可を求めること
という意味で
「罪のゆるし」は犯した罪をゆるすことだから
「赦す」と書くべきだという。
ここに「聖書語」の危うさがあるような気がする。
「赦す」と書くことで整ったような気分になるということ・・
他にも「恐れ」を
「畏れ」は「畏(かしこ)まる」という意味を含むから
「神をおそれる」は、神様は味方だから、
「神を畏れる」と書くことで
同様のちょうどよい整った気分になるらしい。
言うまでもないが、態度は言葉で決められるものではない。
私としては、神へのおそれは半端じゃないものなので、
「神への恐れ」と書くことを好んでいる。
「ゆるす」については
広く使われている「許す」を使うか
原義を重んじて「赦す」を使うか、個人が決めてよいのだろうと思うが、
これも言うまでもないことだが、
いずれにしても漢字を使い分けて気分が良かろうが悪かろうが、
それで神に対する態度が整うとは限らないのである。
 
※ ちなみに、一部か一般の聖書語か知らないが、
 7 を完全数と言う向きがあるようである。
一方で完全数を広辞苑などで引くと
数学の完全数 6 が出てくる。
2^(n-1)×(2^n -1) (ただし(2^n -1)は素数)
という一般式もあるようである。nの値によって完全数は
 6,28,496、・・・(どんどん巨大になる)
神の天地創造7日における実働日数が6日というが
・・これはどうみてもこじつけであろう。
 
 
(2014年03月13日、同日一部加筆修正)
 
 
 
 

 
  堕落
 
 
やっと洗顔して洗髪して
やっと外出してネット接続料を振り込む
 
消えてしまいたいと時に思って40年
消えてしまいたいと思い続けて20年
 
自分を大切に出来ないから
他者を肉親すら大切に出来ない
 
頭と頭皮と顔面の皮膚が痛い
歯は奥歯の噛み合わせがなくて
下顎の置き所がない
 
しばしば本当に地獄だと思ってしまう
自業自得なのだが
不幸というには余りに努力が足りないのだが
やはり鬱か統合失調症か
 
めまいがすると
心臓が不整に躍ると
「はい・・いいです・・このまま・・」
と祈るような独り言
それも20年
 
小1でリウマチ熱
小3までステロイドを飲んだ
小5まで体育見学
中3までペニシリンを飲んだ
以後持久走禁止
大動脈弁逆流
 
思考は単純化
必然=未知≒希望≒自由
 
おかしいことは
おかしいと言う
 
私は
おかしい
 
 
(2014年03月13日)
 
 
 
  あの夜と病 (再録)
 
 
幼いころ
母と汽車の旅
窓から見た
蒸気機関車の
機関室から吹き出す炎
あの夜とともに
 
母の背にいた
幼い頃ではなく
小学生の私がいた
痛くて足が動かなかった
 
癒えていた確かに
進学し就職した
それだけで孝行息子と
恵まれていると喜んでくれた父と母
 
確かに
耳の遠くなった父母に
今更の病は信じられないことだ
私も詳しく説明はできない
でも追い越し
やがて遮るだろう
 
この類(たぐい)は
自業自得のようでもあり
誰も責めようがない
親不孝に親不孝を重ねて
むしろ恥ずかしい
 
勝ったつもりか病よ
だがお前と私が同じ体にいる以上
お前も恥ずかしい代物(しろもの)だ
私が最後に意識を失うまで
勝負だ 言っておくが
私の恥は
お前の憎々しい喜びほど
軽くはない
 
消してみよ
あの夜を
 
 
あの夜があまりにも遠い
 
 
(1997年4月1日)
 
 
 
 

 
  言葉と神
 
 
神の支配を「神の支配」と言うのは仮称に過ぎません。
人には神の支配を表す言葉がないので
とりあえず使っているのだと思います。
これもとりあえずですが「運び」とも書いています。
どのみち人には表現手段がありません。
人の言葉を使うしかないので仮称として使っているのだろう
と思っています。
 
神の支配も必然も計画も人の言葉では表せないことでしょう。
それは神によって秘められたことで
神によってのみ神の表現方法で表されるものなのでしょう。
 
神の表現方法を人は知り得ないのだから
人の言葉と解釈によって神の支配は語れないと思います。
 
残るのは神について
その時々の想いだけということになり、
そこに無謬性を求めるのは無理だと思っています。
 
人の「神秘信仰」は、神秘であるにもかかわらず
解釈から既知のように語ってしまいます。
 
神の支配・必然・計画、いずれも
人の言語世界の仮称に過ぎないと思います。
 
様々な現象について人は判断して行動しますが、
それは神の問題ではなく人生の問題でしょう。
 
それゆえ私は
「神はどうこう・・」という書き方をできるだけ避けたいです。
私にとって神はただただ恐れ多い御方というほかありません。
 
人の言葉は人の問題を語ることによってのみ
神に期待して神の問題に、
絶望的であっても、希望を寄せるしかないのだろう
と思えてなりません。
 
・・というようなことをコメントに書きました。
 
解釈信仰は自分という人の解釈を信仰することであり、
つまるところ自分信仰と言わざるを得ません。
 
 
「神は・・」という主語で語ることもありますが
それは解釈か仮説に過ぎません。
「神は・・」という主語で教えられる信仰はありません。
そういう信仰を語るのは人の傲慢というものです。
 
ここを取り違えることによって教条主義や原理主義や
キリスト教思想信仰や教会信仰や牧師依存信仰
といった様々な解釈信仰つまるところ自分信仰が生まれます。
 
それに対してしばしば
「聖霊による啓示という直接体験」
というものが強調されることがあります。
しかし信仰者は問われます。
「その直接体験が神からの聖霊の啓示だとどうしてわかったの?」
・・これは無限に理由と根拠を問われ、
人である限り答えられません。
つまり直接体験で
聖霊すなわち神の啓示を知ることが出来るのは
預言者以上の人です。
直接体験を強調する人は
「自分は預言者だ」と言っているようなものです。
カルトと同質だと言ってよいでしょう。
 
何度も書いてきたことですが
人は神への想いによって生きるのであって
神を理解したという確信によって生きるのではありません。
 
したがって、信仰とは
1.聖書に表わされた
 神と神の支配を解釈していることに恐れを抱くことであり、
2.神と神の言葉への想いに希望を抱くことに他なりません。
 
そういう希望を
決して捨てきれないのがキリスト者(信仰者、クリスチャン)です。
たとい死ぬ時の自分の眼差しが
天上に向かって
怒りや恨みや叫びや嘆きや悲しみや悔いや罪悪感に満ちていようとも・・
 
 
(2014年03月05日、同日一部修正)
 
 
 
 

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