ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年03月

 
  尽くす
 
 
命は誰かの 
糧となるように 
知と憎しみが 
廃地と虚空を 
さまようことのないように 
 
生ける者の 
血をすすり 
肉を食らい消化して 
髄を吸い尽くさねばならぬ 
 
死にゆく者が 
何も持たぬよう 
何も残さぬよう 
焼かれる前に 
死者が地下の闇に 
葬られるより前に 
 
屍肉の腐敗を 
続けることのないように 
 
遠く近く 
死者の骨肉によって成る者が 
また次の者の 
骨肉となってゆくために 
 
生ける者たちの上に 
生活の上に 
灰が落ちるのを 
見ることのないように 
祈り尽くされて 
灰は眠りたいのだ 
 
 
(2014年03月04日、同日若干修正) 
 
生きている人の語ることと先人の言ったことについては
できるだけ忘れないように悔いの残らないように
貪欲に吸収するべきだ
という気持ちで書いてきたのです。書きながら、ふと
原発や原爆などの核関連のことが脳裏をよぎりました。
 
(2014年03月05日、加筆)
 
 
どう書こうかと迷いながら・・
 
そろそろ人生が終わってしまいそうだという個人的な心境で ――― (1)
私ポエム的なことを考えていて・・だんだん
生きている人は、生きてきた人や生きた人をどう受け取るか
・・に気持ちが移ってきて・・
ブログ書庫カテゴリー「詩のようなもの」として
書いてアップして、3月5日のあとがきに書いたように
原発にも関連しそうな気がしたのですが、
 
そもそも原発問題は
「ふと思い出して脳裏をよぎる」ような問題ではありません。
 
恐らく (1) のような心境に囚われた狭い視野でした。
3月5日のあとがき最終行と
原発関連と思ってトーナメントに参加したのは
私が至らないための大失敗でした。
・・すみません、お詫び申し上げます。
 
(2014年03月10日、加筆)
 
 
 
 

 
  一 
 
 
ノートとインクと
 
真新しい本
 
花火
 
おろしたて
 
新車 ・・
 
花?
 
人工のものと自然のもの・・
 
機械は好きだけど人間は・・
自然は好きだけど人間は・・
 
どちらのにおいを好む人が人間嫌い?
 
拒まれない限りどちらでもない
 
 
 
  二
 
 
道が倒れている
定式を拒んだばかりに
 
どうしても拒めない定式があって
やはり道は倒れている
 
 
 
  三
 
 
かるく いなし
 
みなし
 
うらぐちへ
 
おみかぎり
 
 
 
  四
 
 
(自分のことで)・・ね
はしばしば溜息
 
(他者に向かって)・・ね
は確認 ときに無理
 
(他者に向かって)
・・ね。・・ね。・・ですね。・・
は念押し
拒むことを許さない
人間の油圧
 
 
 
(2014年03月02日、同日若干修正、さらに一部修正)

 
・・唐突に・・連想ゲーム?・・
頭、顔、皮、・・痛いのに
・・焦ってるのか・・
 
 
 
 
 

前から少し気になっていたことではあるのですが・・
 
 
 自由意志?
 
 
自由意志はないという。
 
運命論とか、時間軸は1つとか、科学の
原子や素粒子の運動の総体とかを持ち出さなくても、
ひとつの思考や言動には
それを生じる原因や動機がある。
ゆえに不可避であり必然であり自由ではない。
なるほど・・とは思う。
 
その流れで行くと
「何をしても無駄」「考えても空しい」に
つながる恐れもある。
犯罪も必然ということになる。
しかしそうならば罪の償いも必然である。
善行も必然ということになる。
偽善も必然ということになる。
しかしそれらがもたらす結果も経過も必然である。
そしてこの必然は不可知であり未知である。
未知こそ
この世の人にとって自由と言うべきではないだろうか。
 
全ては何らかの運びではあろう。
必然の運びを想うのは・・信仰ではないか。
 
さらに信仰が他者との関係においてのみ表れるならば
他者の必然は自己の必然より遥かに未知である。
結果も経過も信仰も
他者の必然との関わりにおいて生じるのであれば
未知に希望を抱くことは出来ないだろうか。
 
なんとなく・・「自由意志はない」が
前の「地獄論(再録+?)」の
最悪の設定のように思えてならない。
 
信仰は既知ではなく未知に希望を抱くことだ。
 
希望は常に未知に抱かれ
開かれるだろう。
 
 
(2014年03月02日)
・・なんか・・とりあえず投稿します。
 
 
 
 

 
  地獄論(再録+補足?)
 
前に書いて「地獄論」として載せたときに
当然どこか初歩的なところで
決定的におかしいところがあるだろうと思いながら・・
 
以下の記事が、理屈っぽいようで、
実は情緒的な吐露であるということ・・
 
 
>>
 
「地獄論」
(仮定の話なので私の嫌いな「論」を付けます。
 天国については不可能と言いたいほど想像できないのに、
 地獄については色々様々想像が可能のようです。)
 
 
この世で悪いことをしたから地獄に落ちるのではなくて
 
前世か楽園か知らないが、
すでに悪いことをしたからこの世に生まれたのではないか。
 
つまり、この世の後ではなく、
この世こそが地獄ではないのか。
 
そうすると、神様がいても、
罰を受けるために生まれたこの世の人々に対して
厳しいことが起こるのは当然であり、
 
いかなる天災や人災による理不尽や不条理や不幸も
そういう世界ならば、
神義(神様の正しさ)に矛盾することもなく、
救いも自由意思もなく滅びたとしても
何の疑問もないということになる。
 
失楽園も、空の空も、キリストの生涯も、
この世が地獄であることを婉曲的に表しているのかもしれない。
 
だから福音というのは、皮肉なことに、
人の罪性による最悪の訪れとして
この世とそこに生まれる人に否応もなく帰結するのだろう。
 
教義的に語られる「救い」は、
セメントのように我執の強い者たちによる自己正当化に過ぎない。
 
すべては必然であり、
神義に即して整然と行われる処刑に他ならない。
・・としたら、どうだろう・・
 
・・・(略)・・・
 
(2013年11月01日・・)
 
<<
 
 
仮定の話とはいえ、矛盾の指摘や、
反論は可能だろうと思いましたが・・
 
地獄にキリストが登場するのはおかしい
という反論については・・
 
地獄に救いが全くないとは限らず、
(人が決めることではない)
つまりキリストが現れても何ら不思議はなく、
それゆえキリストが殺されるということは、
むしろ意味が強められるだろう・・という感じになりました。
 
 
哲学などを学んでいる人には笑われそうですし、
すっきりはしないのですが今のところ・・
 
仮定として最悪の設定をすれば
不都合な現象は大方設定に矛盾しなくなる
・・ということになるけれど、
その場合、
最悪を想定することで矛盾がなくなっても、
最悪は最悪のままであり少しも発展がなく、
何の救いにも解決にもならない
 
・・ということかな・・と思っています。
 
 
前に書いた「地獄論」は
むしろ情緒的な溜息~叫びなのです。
 
近くか遠くで起こる不都合な出来事のたびに
「神が正しいなら何故・・」と神義を考えることに疲れて
うんざりしているときの気持ちなのでしょう。
 
思考をしばし停止して休みたいという願望に他ならない
のだろうと思ったりします。
(それは必要なことなのかもしれませんが)
 
 
余談ですが、上の問題は、例えば
「なぜ人を殺しちゃいけないの?」
という問いに対する答えを
文章で示すことの難しさに似たところがあるような気がします。
 
解答例?を考えてみると
1.警察に捕まるから?
 捕まらなければ殺していいの?となり、
2.傷つけられたら痛いし嫌だから?
 相手の身になって・・ということですが、
 死んだら痛いも嫌もないでしょう?となり、
3.家族が悲しむから?
 家族のいない人は殺していいの?となり、
 さらに「なぜ人を悲しませちゃいけないの?」
 という似たような問いになります。
4.歴史的に培われた知恵として?
 その知恵の根拠は?となり、また、
 人類の歴史は殺戮の歴史だったとも言えるでしょう・・
5.聖書十戒「汝殺すなかれ」
 後付けで道徳を強化するけれど、
 宗教的な教えがないと殺してしまいますか?
というような感じになってしまって、
やはり文章による説明は難しいようです。
 
つまり直観的に理屈抜きで理解していなければいけないのでしょう。
 
似ていると思ったのは、
人を殺してはいけない根拠をはっきり示せないならば
人は人を殺してよいとしたら、
それは最悪の設定ということになり、
それでもやはり人が人を殺すという行為と
それがもたらす状況は
殆どの人にとって最悪であることに変わりはない。
(この3行が答えになりそうでならないのは、
 一律に総ての人ではなく「殆どの人にとって」が付くところです。
 4.と、 ごく一部ながら殺人を正当化する人がいるということ・・)
つまり最悪の設定を考えること自体が建設的とは言えない気がします。
・・蛇足でしたが・・
 
 
(2014年03月01日、同日一部修正)
(近況)ここ1~2か月、体調がよくないので
更新もままならない状態になりそうです。
必要に応じてこの記事は修正したいところなのですが・・
 
 
 
 

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