ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年04月

 
  死の悲しみ
 
 
自分の死は自覚できないから 
 
死はいつも他人事だ 
 
だから決定的に
 
死の悲しみはいつも どこか足りない
 
 
(2014年04月24日、同日一部修正) 
当たり前と言えば・・当たり前なんだが・・
 
 
 
 

・・テレビで俳句教室をやっていたので
私も何か・・と書いてみました・・下手です・・
 
 
 菜の花をバックに車窓の影を撮り
 
旅の思い出ですが・・ちょっと異常で
・・肖像権大丈夫か・・という気もしますが・・
若いころの話で・・影は初対面の女性です・・
同じ汽車に乗って1時間以上向かい合っていながら
・・声をかけるということが出来ませんでした
その勇気がなかったからこうなったのか、
そういう男だから声をかけることすら出来なかったのか・・
 
外は菜の花畑が過ぎてゆきます・・
窓ガラスにその女性の顔が映っていて
・・私はその窓をカメラに収めたのでした・・
 
イメージ 1
 
(※ 写真は違う時の違う場所のものです)
 
 
 花霞 遥かに抜けて来る光
 
・・と感じていたい気はするのですが・・
花霞の意味が違うような気もします・・
イメージ 2

(※ 写真は無料素材サイトから)
 
 
相応しい写真を持ちません。失礼。
 
 
(2014年04月19日)
 
 
あった・・残ってた・・セピア色?すごい退色・・
上の車窓の写真・・菜の花ではなかった・・
春でもなかった・・8月だった・・記憶が脚色してる・・
・・もういいよね・・約38年前のこと・・
削除要請来たら消します・・
 
イメージ 3
 
 
(2014年04月19日、追加)
 
 
 
 

・・日記的ブログ的感慨も込めて・・?
 
 
  水の泡
 
 
形を鑑賞されることもなく
色を愛でられることもなく
多くは集団の中の個として
無視され続けている
 
とても短い生涯の大半を
無駄に終わることと見なされて
冷遇される成り行きゆえに
これは相当に透明だ
 
未知に従順で
水も空気も超えることはないが
極小の個は両手を広げ
張り切って破裂する
 
誰にも見られることなく
そんなことお構いもなく
一瞬の空を映して写して
弾けて撥ねる水の仲間
 
大したこと出来ないどころか
何も出来ないけれど
弾けるのだから永遠に向かって
思いきり弾けるのです
 
 
(2014年04月17日)
 
 
 
 

・・ガス抜きみたいに似たようなことを書くのですが・・
 
 
  存在と方向
 
 
神の存在は証明できない。
神の不在も証明できない。
だから神は信じるしかないのだ
ということは誰でも認めるだろう。
 
では何をどう信じるというのか
という疑問があって当然なのだが
多くの人はここを考えずにスキップしてしまって
教理・教義・解釈を信じている。
これらは人が作ったものである。
 
人の解釈を信じることは
人を神とすることであり
神に背く行為である
ということを忘れている
というより
目を背けて人の解釈なのに
疑わないことが信仰だと信じているようだ。
 
人の信仰が人にとって何か
ということについて思考を停止してしまうのである。
 
人と人との間なら双方向になり得るので
折に触れて関係の中で衝撃を伴って
思考が修正されてゆく方向もあるのだが
 
人と神は双方向ではないので
人→神は
祈るしかなく
神→人は
人が確かめることさえ出来ないから
 
知ることはもちろんだが
人は神について
正しく信じているかどうかを
確認することさえも出来ないのである。
 
神について人が何を信じても
それは思い描いた理想像の偶像信仰にしかならない
と気づくことから否応なしに
恥ずかしさと恐れと罪の意識が生まれ
赦しの祈りが生まれ
ゆえにさらなる尾ひれの偶像を付け加えないように
折に触れて努めることが出来るのである。
 
それが出来ずにいて
教えられたことを鵜呑みにして
安易に手に入る信条にしがみつくと
知らず知らずのうちに
いわれない多幸的気分と確信によって
「分かっている」「教えてあげる」意識に立って
被害から他罰までを正当化することになるだろう。
 
そこに神への恐れも敬虔も謙虚もありはしないのである。
最悪の場合
悲劇を悲劇として受け止めることさえ出来なくなるだろう・・
 
 
(2014年04月17日、同日一部修正)
 
 
  呪いの丘(再録)
 
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
(大昔の旧作、20代半ばごろか・・)
 
※ これはイメージであり
キリストがいつも血まみれだと言っているわけではありません。
  ・・・  
信仰は理屈じゃない、理屈じゃない、と言いながら
教理という理屈を振り回す人々もいるから、
こういう注意書きも書かないといけなくなってしまいます・・
 
 
 
 

・・また焦心と傷心の発散なのですが・・
 
 
  桜
 
 
桜が咲いている
桜の木が生えているのは私の腕だ
 
桜の花が散った
散った花びらは私だ
散ったので私だ
腐ったので私だ
 
私が立っている地面を消してくれ
桜が立っているのは私の体だ
私の体が立っている地面を消してくれ
腐ったので消してくれ
 
桜を見た私の視線を消してくれ
桜は美しいという私の記憶を消してくれ
私というフィルターから私までのすべてを消してくれ
 
他の人々のことは言わない
私の桜は腐ったので消してくれ
 
 
(2014年04月14日)
 
 
※ 思い入れ
 
(自分の世界から)思い入れる
至高である
至上である
実際は自分の世界に思い入れているに過ぎない
 
 
(2014年04月14日、同日加筆)
 
 
 
 

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