ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年10月

前の「聖句引用の危険」に続いて私の苦手な聖書解釈の話です・・
 
   ヨハネ17章
 
 
わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、
み名をあらわしました。彼らはあなたのものでありましたが、
わたしに下さいました。そして、
彼らはあなたの言葉を守りました。
 ( ヨハネ 17:6 )
 
主イエス(キリスト)が父なる神に祈る場面で、
「わたし」はイエス、「あなた」は神です。
ここを引用して
主イエスの言葉を守ることを教えるなら
注意が必要です。
 
実際にはキリストの教えを守れないことのほうが
大きなテーマであり、多くの教えが
 
 罪なき人は 一人もいない 
 
につながってくると思います。
そこに罪の意識が、
そして救いが生まれるからです。
 
キリストは罪を認める者には限りない慈しみを表し、
罪を認めない者にはどこまでも厳しかったことを
忘れてはなりません。
 
そのことを書かず、この部分を引用することは、
原罪は旧約の話で、キリストがいて、
彼らは守ったと書いてあるから守れ
という乱暴な説教になる恐れがあります。
そしてキリストの教えを守ることが信仰という
短絡的な信仰につながる恐れもあると思います。
私は守っている、皆も守れ、とでも言うような
・・やさしい言い回しに変えた傲慢・・
 
 
この章には文脈の続きとして
次のような聖句もあります。
 
・・・
彼らのうち、だれも滅びず、
ただ滅びの子だけが滅びました。
 ( ヨハネ 17:12 )
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、
彼らを悪しき者から守って下さることであります。
 ( ヨハネ 17:15 )
 
ここではっきりしているのは
「滅びの子」が滅びることと、
「悪しき者」による迫害があるということです。
ここでのキリストの祈りには
そういう迫害の時代背景が色濃く表れています。
つまりこの章全体にわたって
滅びる人がいて、なお悪しき者が攻撃してくるので
「一つになること」が強調されています。
そういう情況を前提に書かれたキリストの言葉
ということでしょう。
 
キリストの言葉を守る
ということだけなら、無理を言っていて、
説得力がないという問題で済みますが、
 
このヨハネ17章を引用すれば、
読んでみて、この章を今の情況に当てはめて、
悪しき者が来る、
滅びたくなければキリストの言葉を守って
一つになりなさい
という煽りに結び付いてくる恐れがあります。
 
今は聖書についてもじっくり考える時間があります。
そういう思慮を欠くと
多くの人に向かって危機を煽ることになります。
 
前にも書きましたが、
聖書にしばしばあるような危機的状況があるなら
それを書くべきなのです。
 
それをはっきり書けないのは、
何かをほしいままにしたいか
状況を曲解しているか、ということだから、
読む人に、聖句だから文句は言えまいと
ひっそり忍ばせるのでしょう。
 
こういう成り行きを見ても
罪を犯さない人などいない
 
 罪なき人は 一人もいない 
 
ということが明らかになってくるのです。
人の罪も私の罪も主の前に明らかなのです。
 
 
(2014年10月31日)
 
 
 
 

今回は実際に引用された聖句についての話です。
 
  聖句引用の危険
 
 
「自分の確信を捨ててはいけません。
 この確信には大きな報いがあります。ヘブル書10:35」
 
引用聖句の「確信」は、
信仰を守ろうとする神の運びへの信頼の確信です。
 
私が問題にしてきた確信は
人が勝手に神を既知の相手として確信してしまうことで
上の聖句の確信とは大きく異なります。
 
そして何より
迫害の時代に書かれたことを忘れてはなりません。
 
迫害の時代で生命の危機にさらされている
という状況だからこそ
結果の生死を問わず
どこまでも信仰を貫くために確信が必要になります。
 
そういう状況がないところで
安易に引用してよい聖句ではありません。
 
もし生命の危機的状況があるなら
それをはっきり示さなければ引用は的外れになります。
 
「来るべき方が来られる
 遅くなることはない(ヘブル10:27)」
 
自らに向けられた批判を
迫害と見なすことは
私が今までも述べてきたように
信仰者にありがちな被害意識によるものでしょう。
 
批判と迫害は全く別のものです。
 
人の意見を聞こうとしない者が
理由も示さず相手を邪悪と決めつけ
批判を返すわけでもなく
批判者に何かを指摘するわけでもなく、
あたかも「迫害者から逃れる」かのように
上の聖句を引用し
批判について考えようともしないで拒否するときに
たびたび見られる態度です。
 
「来るべき方が来られる
 遅くなることはない(ヘブル10:27)」
 
この引用で分かることは、
批判した者を、自分の敵のみならず、
明らかに「神の敵」と見なしていることです。
だから神が退治してくれるのを待つ
という言い分のようです。
殆ど呪いの当て付けに近い・・。
 
上に述べたように
聖書の流れと文脈を無視した自分の勝手な解釈で
神の敵から身を隠し、
神が敵を滅ぼすのを待つという態度は
甚だしい時代錯誤であり、
また自分が置かれている状況についての
著しい曲解であり、
しかも意図的であります。
 
自分の不備は全く眼中になく
神ではなく自分の意見を正当化するために
不都合なことから目を逸らす態度であり、
まさに、
自分だけが神の御心に適っていて、
また信仰ではなく
自分だけが正しいという異常な確信に満ちたまま、
その根拠をこともあろうに神と聖句に求めて慢心し
聞くことも語ることもやめてしまうことなのです。
 
上に書いたことを併せて考えると、
信仰者一般に言えることとして・・
 
自分の都合による断片的聖句引用が
いかに自己保身的で他罰的で侮辱的で
危険になり得るかが示されているのです。
 
・・こういう危険は、
傾向として、実に
しばしば信仰者に見られます。
ましてや聖職者が
引用の危険性を信仰者に指摘するのではなく、
逆に自ら率先して、
聖句引用→他罰的になってしまうなら・・
 
迫害されたと被害者のつもりになってしまって、
逆に婉曲的に陰湿に攻撃する口実を探せば
断片的になら幾らでも見つけ出せるのが聖書です。
幾らでも人を聖句をもって邪悪な敵に仕立て上げられるのです。
聖書の私物化と呼んでいます。
もちろん、そういう引用の仕方が間違っているのですが・・
・・残念ながら、これは珍しくはないのです。
 
聖句の引用は、特に断片的引用は、
よくよく注意したほうがよい
という教訓の例として学ぶべきでしょう。
 
 
(2014年10月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  悪い癖
 
 
飾りのない本音
生の感情
人間としての意思
 
本来これらは
人が信仰に至る過程で活きていたはずだ
とても豊かな感受性で
人は信仰を賜ったはずだ
 
しかし信じたのち
「信仰」を体よく保持するため
なぜか信仰者は
信条に合わない揺らぎを
迷いや邪念と見なして
人間としての知情意を排除しようとする
・・人の知情意は神の御心ではないと・・?
 
信仰に不可欠だったはずの人間性を
生かすのではなく
隠し封じる癖を身に着ける
・・隠すことが美徳だと・・?
 
そうやって一方向に限られてゆく「信仰」に
人の精神も言語世界も縛られてゆくのだから
むしろ信仰を賜る器を損なってゆくというのに
・・「信仰」は完成して更に賜る必要はないと・・?
 
既知の神と既知の信仰
不動の永遠ゆえ
更新通知を受け取る運びはないと・・?
 
神ではない
・・人のどこが不動で永遠なのだ・・
 
年とともに
ただでさえ鈍化してゆく人間の感受性を
神に告白し
かつ人は人として
磨く努力をするべきなのに
賜ることを欲して
失うほうを選んでいる
 
なぜ悟ったかのように
人間離れしてゆくのだろう
 
 
(2014年10月28日、同日一部修正)
疑問を疑問として話さなくなったら信仰は終わりです。
 
 
 
 

 
  台詞
 
 
どんなに大事なことでも
仲間うちで調子を合わせるように
笑顔と頷きを向け合い
期待通りの言葉を並べるのだろう
 
まるで社交界の儀礼ではないか
 
それを教会の扉を開くたびに
条件づけられてゆくのだろう
 
背く人は背教者、神の敵、
あげくの果ては地獄行きか・・
 
「地獄」も条件付けられた言葉だ
 
キリストが人の罪を背負って
十字架に付けられることで
人の刑罰が終わって
赦されて生まれ変わった
という決まり文句で
許された喜びを生きるなら
 
もう罪を犯さないのだろうか
・・恐ろしい思い上がりだ・・
 
それで感謝し讃美する
「主よ、あのような背教者でないことを感謝します」
 
どこかで聞いた台詞だ
 
 
(2014年10月28日、同日加筆)
・・ルカ18:11・・
 
 
 
 

 
  信条
 
 
結論以外何も語ってはいないのに
柔らかく聞かせる語り口は
静かに思考を眠らせる
 
明らかに欠落があるのだが
教え諭すような優しさに
異を唱える口は均されてゆく
 
長年にわたって自らも染まりながら
培われたプロの説法の知恵であろう
 
積極的に考えない限り
内容の薄い常套句が
無抵抗に染みてゆくように出来ている
 
思慮の浅瀬で
弛んだ感性の隙間から深く奥へ
 
溶解することもなく
分解されることもなく
骨格に似せた石灰質が
選択と判断の
関節の可動域をなくしてゆく
 
信条は句読の戒律
「既知の神」の偶像を固めてゆくプロトコルだ
 
命を救うほどに新鮮だった活性は
水辺の葦ほどにも戻っては来ないのだろうか
 
 
(2014年10月27日)
 
 
 
 

このページのトップヘ