ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年10月

 
  最大の罪
 
 
人と人が
思いを一つにすることも
心を通わせることさえも難しいのに
 
神と一つになると言い
推測の判断とも解釈の提言とも説明せず
そうするべきこととして人に語る
 
神は絶対の存在として
人は不全の罪人として
信じたのではなかったのか
 
どうして不全の人が不全の能力で
絶対の神と一つになったと知り得るだろう
 
神と一つにならなければならない
という思い込みを育てるだけではないか
 
そういう思い込みを勧めるように
自らも教えられてきたのではないのか
 
聖霊の働きを持ち出しても
キリストの導きを持ち出しても
聖霊もキリストも神性なのだから
どうして神性の助けがあったと人が知り得るのか
つまり
三位のどの御方を持ち出しても同じなのである
 
最大の罪は自殺ではない
 
人が知り得る最大の罪は
神を恐れない罪である
 
神の領域を侵すことは
人がどんなに企んでも不可能
というのは誰もが認めることだ
 
神を恐れない罪というのは
神の領域を人が共に出来るということを
あたかも讃美のように語る態度にある
 
不全の人が
神の領域に言及するとき
補足説明なしでは決して語れないのに
いつも遠回しの表現だけで繰り返すなら
繰り返す分だけ
神を恐れない態度を
神の前に示すことになる
 
 
(2014年10月27日)
ネットを少し閲覧するだけでも
似たような反面教師はいっぱいいるようです。
過去の経験を省みて
今は私のブログで
伝えにくい普遍性も少し期待して
対象を特定せずに批判していくつもりです。
 
 
 
 

 
  口から
 
 
「口から出たものが人をけがす」
と聖句は言っているが
口から出さないわけにはいかない
つまり発言しないわけにはいかない
 
だからといって毎度毎度
平板な文言を並べることで
見た目だけ聖句のような讃美の言い方で
口の習慣を染め付けてゆけば
人をけがすことはないと言うのだろうか
悪口を言うことはなくなるのだろうか
 
選択の余地をなくして
体裁だけ整えて
一方向に進める言語世界では
 
悪意が偽善に変わるだけだ
 
悪い口が陰に潜んで
偽りの無味に変わるだけだろう
 
今日も多くの口が
神を称え
自らを戒めているつもりで
 
素顔をなくしている
 
むしろ人の口を疑うことを捨てて
問うことも忘れて
一途に勤勉に一様な表情を作りながら
湧き上がる思いを押さえ込み
人間の本音を殺して
起伏のない麻痺に埋没し続けている
 
 
(2014年10月26日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
   窓
 
 
窓から通りを眺める。
別の人の一面を見る。
見るだけだ。
景色が大きく変わることはない。
うっかり目が合うと
・・怪しまれる・・
 
窓から中が見える。
別の人の一面を見る。
ちらっと見るだけだ。
様子が大きく変わることはない。
うっかり怪しまれると
・・覗き・・
 
PCの窓を開く。
別の人の一面を見る。
うっかり目が合うことはない。
触ることで景色が変わる。
うっかり長時間が過ぎて
・・依存・・
 
車の窓からあちこち確認する。
別の人々の一面を見る。
景色は次々に代わる。
前も右も左も
うっかり眺めていると
・・事故・・
 
 
(2014年10月26日)
 
 
 
 

 
  部屋
 
 
ここに自分がいるなんて
信じられないくらい
静かで動かない部屋
 
見えない自分から見えている
変わりようもなく
置かれている家具と壁
 
人口密度のない部屋に
痛みを告げる無数の海洋生物の浮遊
 
作り話の記憶を
追いかけている幾重もの薄いスクリーン
 
巻き戻しがうまくいかないのか
時制をなくした人は人々になって
合わない焦点のさまよいに
音もなく予測不能に
破れるというより分かれる頁と頁
 
かつて寄せた想いの数々が
裏返って捻れて裏切って
半透明の息を詰まらせる
 
別れた体と体
一部と一部
欠片と欠片は
人の形を打ち消しながら
 
なおも眺める眼差しの奥へ奥へ
月の涙の
泉の神話から
逃れられないことを知るかのように
生き物という生き物を治めに来る
 
 
(2014年10月25日、同日若干修正)
 
 
 
 

 
  安らぎ
 
 
聖書の言葉だからといって
いつも分かるものではない
 
いつも分からなければならない
と思うと結局
いつも分かっているつもりになるだけだ
 
少なくとも二つのことがあると言える
無理難題でとても守れない
また今のところ理解できない
 
これを分かれとおっしゃるなら
これを守れとおっしゃるなら
私は無理ですから
今すぐ私を滅ぼしてください
という祈りも可なのである
 
神の前では
人は最初から
恥ずかしい生き物なのだ
 
信仰を持っているのだからと
安らぎのお手本にならないと気の済まない人は
分からないと言わず
恥ずかしいとも言わず
 
寡黙を敬虔の美徳として
声も音も退けた「安住の地」で
「福音」と名付けた独り言を他者に向ける
 
至らぬ自分のための主の取り成しの運びに
自分への批判などは
あり得ないとでも思っているのだろうか
 
めんどくさいのだろうか
 
信仰が分からないという祈りも可なのである
一生分からないかどうか
それこそ分からないからだ
 
 
(2014年10月24日)
 
 
 
 

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