ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年11月

 
  正直
 
 
祈りの場において
禁句があるとすれば
神を低く見るような言葉ですが
信仰者が信仰者である間
そういう言葉は使わないはずだと思います。
 
なぜなら自分より低い存在を
神と信じることはないからです。
 
例えば・・の話・・
「神など信じない。
 神に会ったらぶん殴ってやる」に
「信じていないなら
 ぶんなぐる対象を意識する必要もないでしょう」
 
しかし
上の神に下の人が文句を言う
ということはあり得ます。
「神は不公平だ、なんでこんな目にあう」
・・ヨブ記を思い起こさせる・・
人から見るとしばしば
神は不公平にしか見えないことはあるのです。
 
信仰について
人がわきまえるべきことや
人が感じられる範囲については
理性も知性も情緒もフルに使うべきですが
 
神の恵みや守りを強調して
神について語ったことにするなんて信じられません。
 
教理の無謬を信じることは
神の思考を人の思考に納めようとする人の思考です。
ゆえに
教理を確認し頷きながら追う思考は
明らかに教えられた理屈つまり半端な理性です。
人の理性への服従です。
それは信仰そのものではないと思います。
それで納得していることが信じられません。
 
神義つまり神の正しさを考えるとき
人の知恵では分からないとしか言えないと思います。
 
罪びとのために命を捧げたキリストからでないと
信仰は語れないような気がします。
 
 
短い記事というのは私は割と好きなのですが
中身を掘り下げる思考もなく反省もなく
疑問に答えることもなく
無反応な繰り返しでアップだけは続けているというのは
殆ど意地か嫌がらせとしか思えません。
 
説明も応答もない自分だけの神の正しさで
人を押さえ込もうとする意図を感じます。
神の知恵に成り上がった人の
処世の知恵にまみれた沈黙でしょう。
今日も。
 
 
(2014年11月30日)
 
 
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
 
(1999年04月12日)
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
(90年代後半か・・)
 
 
  魂の讃美歌
 
心の奥の奥
その深みにあって
限りなく命に近いもの
と表わしても
実体に半歩も近づいたとは言えない
 
荒野に呼ばわる声がして
求めてやまないもの
弱い肉体の
心を熱してやまないもの
 
死にかけた肉体や
死にかけた心においてさえ
まだ燃えることのできるもの
求めることをやめない
望むことをやめない
 
人間の持っている
力に類するものの中で
最後まで耐え忍ぶ源
 
誰も作れない
誰も飾れない
しかし与えられて
人にあるもの
人を人にするもの
 
見るところ人には空しく
辻褄の合わない
あらゆる矛盾を孕(はら)むかのようで
果てもなく切りもなく
それでいて肉体に関わり
心に近しい
 
滅ぼされて滅びない
殺されて死なない
 
やさしい言葉から
激しい言葉まで
涙ながらに尽くしても
あらゆる形容と
定義をやすやすと拒んで
逆に以上のすべてを
生み出すもの
 
分けられず
分かれず
わからず
別れない
 
 
(90年代か・・?)
 
 
 
 

 
  他者
 
何かを主張するとき
自分は自分が染まっている言語世界から語るので
正しいと思っていても内容も表現も
誤解していたり誤解を招きやすかったりするので
他者の意見が重要になります。
他者の意見を受けて自分の意見を修正したり
さらに説明を加えたりする余地がそこに生まれます。
 
ということは
賛同者以外の他者の意見を聞かなくなると、
しだいに人間同士が意見を交わす必要を覚えなくなり
人間である他者にも自分にも問題意識を感じなくなって
言っていることの不備や偏りや間違いに気づかなくなります。
 
そうなると人の意見に対して
自分の意見を返すということもできなくなってゆきます。
 
それでますます意見交換をしなくなり
自分の言いたいことを言い放つけれど
その反応を知ることも
知りたいと思うこともなくなります。
 
そうすると
反対意見があまり来ないという状況が続いて
ますます今のままでよい
という人の言論としては致命的な
無謬性の一方通行を歩むことになります。
 
宗教活動には珍しくないことです。
神についてだから議論は必要ないという先入観があって
一方通行へ向かう自分を正当化してしまうのでしょう。
 
実際には
問題なのは神ではなく
受け取る側の人の問題なのですが・・
・・神の権威を借りて人を問題にしないのです。
そんな権威を神が貸した形跡はどこにもないのに・・
 
つまり人としての可変性を失えば
その態度を支えるために持ち出されるのは
神の無謬性になってしまうということです。
 
人にだって
人の傲慢の元も先も
ある程度見えています。
ただ傲慢な人にだけは見えていないのです。
 
受けることをしなくなったから。今日も。
 
 
(2014年11月29日)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
わからないと
なぜ言えない
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
食道も塞がってしまうのだ
わからないと
なぜ言えない
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
わからない私は黙っていよう
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を喉に残したまま
吐き出さないでおこう
 
 
(96年か、それ以前)
吐き出さないでおこう・・と吐き出しているのです。
生きている限り黙っていることなんかできはしません。(加筆)
 
 
(補足・・私のスタンスとして)
 
もし議論や話し合いがあって
そのテーマが
 
神の御心はどこにあるかを確定すること
または
正しい聖書の解釈はどれかを確定する
ということなら
 
私は明確に
分からないことだ
と言うだけで議論を拒むでしょう。
 
確定ではなく
色々な意見を比較することが目的なら
どんな人でも
ある程度の意見を述べることが可能ですが、
 
確定となると
それは神のみが知ることであって
人間の側は確定した結論は持ち得ないからです。
 
そんなのを持ってしまったら
知り得ないことを確定するわけで
人による明らかな神の領域への越権行為になり
それだけで神に対する恐れを知らない傲慢
ということになります。
 
問題の性質上
明らかに人の領分を越えているということです。
 
 
(2014年11月29日)
 
 
 
 

 
反面教師は批判の動機と題材だけは与えてくれる
と前に書きましたが
それは批判対象が批判返しつまり反論をしてくれる場合です。
 
批判を読んでいないか読んでも
全く無反応でいられるほどの
非人間性を持ってしまっている場合は
 
こちらは批判しているのに
同じことや似たようなことを繰り返すだけなので
発言に対する批判の題材が増えるというわけにはいきません。
同じ批判を毎回平気で書けるほど無神経にはなれないから。
 
自分の教理的内容を繰り返すのは
人の信仰が不変だから
変わりなく繰り返すことが信仰だと思っているのでしょう。
 
神様からの良い話なら誰が拒否するでしょう。
人からの話だから何度聞いても疑問を抱くのです。
しかも辻褄合わせの繰り返しだけで
完了しているから喜び楽しめというほうが無理なのです。
それで喜べると思うのならどうか出てこないで
独りで喜んでいてくださいと言いたくもなるのです。
 
そういうあちらの記事の有り様をもって
教えられたとおりの筋書きをずっと繰り返す人ですよ
という印象を並べることくらいしかできません。
 
前に似たような人がいて
人間とは思えなくなったので
批判を一時的に停止したことがあります。
そういう人が
キリスト教の世界には多いのだろうと推察します。
 
最初に言ったように批判に勝ち負けはありません。
元々勝ちを目指してなどいません。
 
罵詈雑言は別として
反応しない状態を是とすることは
一般の議論や話し合いでは稀です。
 
宗教において特異な現象のように思われます。
宗教の怖さと言うべきでしょう。
 
 
(2014年11月28日)
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
(1980年頃かと思う・・)
これは想像~イメージ~フィクションに過ぎません。
 
 
というわけで話を変えます。
 
 
  祈り・殺してくれ
 
自分についての祈り
「助けてください(生かしてください)」から
「殺してください」まで
 
「殺してください」と祈ることは
教理と体裁にこだわる宗教では
神への冒涜として禁句なのかどうなのか
よく知りませんが
 
死活の崖っぷちで祈るとき
自分の孤独と絶望と希死念慮が
少し和らぐこともあるようです
 
希死念慮というのは自殺念慮とは違うようで
むしろ希生不念慮とでも言うべきものかもしれません
 
自分の死について
神様に向かって身投げする姿勢です
神様以外に向かって身投げしない姿勢でもあります
 
教理とか教義とか信仰観とかが
何の役にも立たないことがよく分かります
 
 
(2014年11月28日)
 
 
  敬虔な
 
ケーケンなクリスチャンが
祈りをささげる場所になじめず
憐れみの眼差しに胸がいっぱいで
胸くそもいっぱいで
悟らない下等動物は
居場所を求めて
いい場所を求めて
あとずさりを始めた
ここでもない
そこでもない
気がついてみると後ろは崖で
もうあとずさりはできない
まわりには誰もいなかった
あざける者もいなかった
風がヒューヒュー吹いていなかった
教会はどこにあるのか
十字架はどこにあるのか
悟らない下等動物は
陰険なクリスチャンになって
祈りをささげた
ああこんなにも人畜無害であるのに
 
 
(96年か、それ以前)
これは想像~イメージ~フィクションに過ぎません。
 
 
 
 

 
  信仰者
 
 
クリスチャンの接頭語のように
付けられる「敬虔」はというと・・
おとなしく口数少なく
社会のお邪魔にならない控えめな人々
・・これは全くクリスチャンのあるべき姿ではありません
 
クリスチャンであってもなくても
人は必ず社会のお邪魔になっているし
言論においては大いにお邪魔になるべきだと思っています
 
信仰に常識以上の禁句があるわけではないし
信仰は言論の自由を制限するものではない
 
さらに言うなら人はしょっちゅう
神様のお邪魔になっている
くらいのことは考えておくべきでしょう
 
 
どんなに考えても考えなくても
人は神の筋書きを知ることも作ることもできません
でも
神はこんな御方
キリストはこんな御方と
想像し憧れるのは信仰者の不可避な常であります
ですから
そのイメージやストーリーが自分の思い込みであり
神の事実ではないことを自覚することが
神を恐れることだろうと思います
 
へりくだるとはそういうことだと思います
敬虔も謙虚も同様です
 
 
神への恐れを抱くなら
いかに過激で強烈な断定を行っても
時々に節々に
神に対して自分を低くする態度が表れるでしょう
 
神への恐れを抱かないなら
いかに優しく柔らかい表現を用いても
時々に節々に
神に対して無反省な態度は表れてしまうのです
 
 
あくまで大ざっぱな話ですが
クリスチャンは何やら使命感を持ってしまうので
反対意見をぶつけられたとき
 
返す言葉がなくて悲しげな当惑の表情を浮かべるなら
何を言いたいのかまだ分からないから
当然当分は待つことになります
 
信仰の優しさと厳しさの問題になるから考えてみる
といったような冷静な応答の出来る牧師は非常に少ないです
 
返す言葉か表情か態度が一変して
目をつり上げて怒った顔になるか
とても冷たい顔になるか
人を食ったような悟り顔の笑みを向けるかして
聖句か教理的聖書語でも捲し立てるなら
頬を差し出すわけには全然いかないので
見込みなしと判断して少なくとも一旦その場を去りましょう
 
疑問や反対意見を言うことは全く正当ですが
それが通用しない教会組織やキリスト者に対して
逆に根深い怨みが固定してしまう前に去ったほうがよいです
 
去ることに対してひょっとして例えば・・
 
マタイによる福音書(新約聖書)
18:20
ふたりまたは三人が、
わたしの名によって集まっている所には、
わたしもその中にいるのである」。
 
・・とかを持ち出して
教会で洗礼を受けないと
教会に通わないと
キリスト者とは見なされない
などと言う人がいるかもしれませんが
原因作ったのはそう言ったその人たちなのです
 
洗礼の有無や教会に通っているかどうかで
信仰者かどうかを判断する資格は人にはありません
それは神が決めることです。
 
 
人間は関係の中で生きているので
ひとりで孤立しているよりも
集まって祈りを捧げられるなら
そのほうがよいとは思いますから
洗礼を受けなくてもよいとも
教会に通わなくてもよいとも言いませんが
そうならざるを得なくなったら仕方ないのだし
神に対して自分を偽り続けるよりはマシでしょう
 
聖書と祈る気持ちがあれば
信仰は誰にも否定できません
 
何よりも
人の信仰を裁くのは神だけです
 
神を恐れてください
 
人を恐れないでください
 
 
(2014年11月27日)
洗礼を受けていない求道者もほぼ同様だろうと思います。
なおここでは
クリスチャンとキリスト者と信仰者は同義として、
よく分からないが気分次第で?使い分けています。
 
 
 
 

 前置き・・(長い・・)
 
ドラマなどを見るとき
主役の俳優は
主役に成りきって演じます。
 
だから真実味があるわけですが
一歩引いて考えると
共感や感動が生まれるのは
 
実話でもフィクションでも
もう一人の主役が
感情移入して見ている自分だからです。
 
ストーリーの中の主役の言動に
自分の経験と言語世界から
主役らしい言動を時には予測さえしている
 
主役はドラマの中の主役とは限らず
脇役や傍観者である自分になって
自分を含む仮想のドラマの中で
 
感動を生み出している主役の自分がいます。
そこにはかなりの思い入れが伴うので
当たったり外れたりします。
 
ドラマであり何より娯楽でもあるから
外れても「そうだったか・・」で
また自分でその世界を作り直してゆきます。
 
あるいは「本当はこうだ・・」と
勝手に思い込みを強くすることもあるでしょう。
当てが外れても害はないのです。
 
娯楽だから
人間ドラマだから
いろんな想像を掻き立てて楽しみます。
 
 
さて、神様のストーリーで
同じような思い込みがあった場合
神様に人が思い入れを託した場合はどうでしょう。
 
神様大好き人間の確信は
容易に改まるということが難しくなります。
違うという展開が分かりにくいからです。
 
ことの成り行きが示してくれるとは限らない
さらに神様大好き人間は
成り行きさえも自分中心に見方を変えて
 
神様ストーカーになってしまうからです。
そして何よりも神様を主役に見立てているが
本当の主役は自分になってしまっています。
 
娯楽ではないから
神様のストーリーだから
その楽しみの向かう先で起こることは
 
神様を信じる人々に向かいます。
他の人々を巻き込みます。
とても大きな実害の種を蒔くでしょう。
 
そのように神様ストーリーを作り上げても
神様ストーカーは自分の作った虚構などとは
全く思わないままなのです。
 
そのような忌まわしい事態を避ける方法は
神様ではなく人間を語ることに他ならないのですが
それは一番気づきにくいことなのです。
 
かくして神様ストーカーは
御心は計り知れないと口では言いながら
見ないで信じています。
見えない神ではなく自分の神様ストーリーを。
 
語れば語るほど破たんを重ねながら
苦しむこともなく今日も
神について得々と語り続けるのです。
 
 
(2014年11月26日、同日、以下加筆)
「神様ストーカー」は「ストーカー」が「忍び寄り追いかける人」
という意味で、神様を追いかけることは出来ないから
不適切かもしれませんが、ここでは
神様と同じになっている教理の筋道を追いかけ確認する人
という意味の比喩として使っています。
 
 
 
   教理
 
 
ひょっとしたら誰よりも信仰を語っている本人が
いちばん信仰について無関心なのではないか。
何か物を扱っているようにさえ見えることがある。
 
毎日毎日、順を追って
扱いに支障はないか確認しているようだ。
そんな確認は神に対して通用しないのだから
明らかに人が人の所有を確認している。
 
 
聖書を解釈して作った一つの教理に
割符を合わせるようにぴったり合ってしまう人
というのが世の中にいるのだろう。
 
そういう人は教理を信仰とするし
人にも信仰として教えようとする。
しかしそれは教理という一つの思想に過ぎない。
 
謂わばその教理は
一つのストーリーのようなもので
神は主役として登場するに過ぎなくなっている。
人がそう定めたからだ。
 
問題はそのストーリーが教理として、
人の話ではなく、
神の話として語られるということだ。
 
そう信じてしまうと
反する者は神の敵ということになってしまう。
 
敵が自分つまり人の敵に過ぎなければ
ときに譲り合ったり
残酷なことを控えたり
少しは人が人に情けをかけることもあり得るが、
 
神の敵となると
相手を人間と思う必要さえなくなり、
滅ぼしつくさなければならない、
根絶やしにするのが正義ということになる。
 
こういう「大義」こそ
昔から今に至るまで
宗教戦争や宗教テロの
そして原理主義を形成する種ではないか。
 
そういう意味で
キリスト教が日本でメジャーでないことは
むしろ幸いなのです。
リバイバルなどしてもらっては困るのです。
必要なのは復興ではなく改革だから。
 
 
日常的な世界から
非日常的な神の領域を
仰ぎ信じること
それが信仰なのだが
 
ゆえに信じ方の正邪は
常に神に任されているのだが
 
教理というものを
神の教科書として学ぶか
人の作った参考書として学ぶか
 
神の教科書は
いかなる聖書解釈をもってしても
誰も作れません。
なのに 聖書=神の言葉=教理 
と考えている信仰が・・むしろ多いのです。
 
 
人の学問や教理的思考の整合性は
神には当てはまらない。
 
神に当てはまるかどうか分からない
と書くべきかもしれないが
人は人の言葉を使うしかないのだから
人の言語世界では
神には到底当てはまらない
・・としか言いようがないと感じる。
 
 
(2014年11月26日、同日一部修正)
(2014年11月27日、一部修正)
 
 
 
 

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