ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年11月

 
  教え
 
 
伝道の書(伝道者の書、コヘレトの言葉)
(コヘレトは伝道者の意)(旧約聖書)
3:14
わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、
これに加えることも、これから取ることもできない。
神がこのようにされるのは、
人々が神の前に恐れをもつようになるためである。
3:15
今あるものは、すでにあったものである。
後にあるものも、すでにあったものである。
神は追いやられたものを尋ね求められる。
 
壊すにも造るにも
創造主である神は人に相談する必要はないのだし、
恐れも慈しみも変わることはないのです。
しかし
人の信仰は変わります。
成長することもあるでしょうし、
変わらないと思っているうちに
腐ることだってあるのです。
 
人は答えを知りたがり、
ゆえに信仰は固定観念になりやすく、
人の解釈も永遠不変であるかのように語り、
自分が守ってもいない教えを
答えとして人に教えたがるのです。
 
・・と、前の記事を引きずりながら前置きして・・
 
 
マタイによる福音書(新約聖書)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、
情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである
 ・・・
5:33
また昔の人々に
『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』
と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:34
しかし、わたしはあなたがたに言う。
いっさい誓ってはならない
天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。
5:35
また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。
またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。
5:36
また、自分の頭をさして誓うな。
あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。
 ・・・
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。
悪人に手向かうな。
もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、
ほかの頬をも向けてやりなさい

5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、
その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、
あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ
 
27,33,38,43節は旧約の教えになります。
それに対してキリストは、
「情欲をいだいて女を見ること」
「誓うこと」
「悪人に手向かうこと」
「敵を憎むこと」をするな、
つまり罪だから禁じるということでしょう。
特に28,39,44節は
キリストの教えとしてよく知られている箇所です。
旧約よりも厳しいと言ってよいでしょう。
 
情欲を抱いて女を見る男がいなくなったら
人類は滅亡するというのに・・
憎まず愛せたら敵とは呼ばないのに・・
 
守れるのはキリストご自身だけかもしれません。
 
守らないと救われないなら
私はキリスト者にはなっていません。
 
 
前にも述べたことですが、
キリストは厳しい教えとは裏腹に、
社会から罪人と見なされていた人々に近づき
限りない慈愛を示し彼らを愛されました。
 
これは一つの解釈に過ぎないのですが・・
 
キリストは人々が教えを守れないことを既に知っていた
とも思えます。
 
ペテロの裏切りも予測しておられたくらいですから
あり得ないことではないでしょう。
 
前にも書きましたが、
キリストが無理な教えを語られたことは
 
罪なき人は一人もいない
ということを表しているように思えるのです。
 
 
それを示しているかどうか・・
キリストが罪びとに優しく、
自分には罪は無いと思っている人に厳しかった
という例を挙げてみると、
 
ヨハネによる福音書(新約聖書)
9:41
イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが
『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
 
「見える」は盲人の譬えとして、
「分かっている」「知っている」と言い換えてもよいと思います。
「分かっている」つもりになるところには罪があるのだと思います。
 
分かっていて知っているつもりの人にとっては
人の信仰も
神と同じように不変であることが好都合なのです。
 
※ 補足として
当時は病気や障害も悪霊の仕業として
社会から罪とされていたことを付け加えておきます。
 
 
ルカによる福音書(新約聖書)
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。
そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、
不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12
わたしは一週に二度断食しており、
全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、
目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、
『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。
神に義とされて自分の家に帰ったのは、
この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、
自分を低くする者は高くされるであろう」。
 
このように傲慢は厳しく戒められています。
こんなの守れない・・は、どうしようもないことかもしれないが、
傲慢については、人が気づきさえすれば、
その都度、改めることが可能だからでしょうか。
そして人の傲慢は何より
神に対する傲慢だからだと思います。
 
 
冒頭の伝道の書の引用にもありますが、
神を恐れること、
これが信仰の初めにあるべきだと思います。
少なくとも改める気持ちがないと
具体性も説得力もない憧れを並べることになります。
 
キリストの教えは、
教え通り守ることよりも
教え通りに出来ていない自分を考える糧としたほうがよい
という印象を持っています。
(・・他の格言や名言とかにも似たようなことを感じます・・)
 
死活の崖っぷちにいる人は
救いの言葉に縋(すが)りつくしかないでしょう。
そういう時は誰にでも必ず来ると思います。
しかしそういう時ばかりではないのなら
 
教えを答えと受け取るだけで、
立派だ、あのようになりたい、キリストと一つになりたい、
と憧れて讃美を繰り返すよりも、
人間と自分自身について
人間の立場で考えるべきことが沢山あると思います。
 
信仰は神の賜物、答えを出す必要はないのです。
 
人間の理性を邪悪と考える人がいるようですが、
答えが出たかのように
自分の答えを無批判に認めさせたがる人が多い時代、
信仰者には新鮮でアクティブな心が必要です。
神を仰ぎながら神の価値基準を知り得ない世界に生きて
一人一人が自らの価値基準を持ってしまった人間だからこそ、
自らを省みて神との決定的な違いに気づくために
自ら思考停止を招かないことが一番大切だと思います。
 
キリストの教えを聖書で読むならば、
答えよりも多くの問いが
生きている人に糧として与えられるでしょう。
 
 
(2014年11月25日)
(2014年11月26日、一部修正)
(2014年12月03日、若干修正)
 
 
 
 

 
  不変
 
 
神は不変であるというのは
全知全能の完全で永遠である
というのと同じことで
 
これは決して人には当てはまらないことです。
 
人は絶対でも全知全能でも完全でもないので
不変であるはずがないのです。
不変であってよいはずはないのです。
 
人は変わらないつもりでも
変わってゆくものです。
頼りなく移ろう生き物です。
 
神は最初からおられ
永遠で死ぬことがありません。
人は生まれてきて
必ず死んでゆくのです。
 
神は絶対です。
人は欠点だらけです。
 
今さらこんなこと書かなくても明らかでしょう。
 
神が信仰を与え
人が信仰を受け取るのですから
受け取った人が変わる以上
信仰もうっかりすると恐ろしく変質してゆきます。
 
信仰が不変だと思っている人は
よほど不変であることにしたい人です。
 
神が不変の存在で
聖書と解釈モデルとして教理があっても
神の創造物として
人は成長のないモデルではいけないはずです。
 
悔いることのない人は
神を称えながら実は
成長をやめてしまった自分を称えているのです。
 
神は不変だから信仰も不変で心配ない
と言う人は知らない間に
自分が排泄した悍ましい堆積物に隷属することになるでしょう。
 
 
(2014年11月24日)
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
  キリストの神格と人格
 
父・子・御霊(みたま)の三位一体でも
神が遣わされた神の子でも
いいのです所詮は聖書の解釈に過ぎず
全知全能の神は
全知でも全能でもない人によって
規定されるようなお方ではないのです
キリストは人か神か
キリストの神格を否定はしません
しかし
キリストが救いを人に述べ伝えるとき
神のレベルで話して人に伝わるでしょうか
神性は人間性から見ると
しばしば理不尽でさえあるのです
人間に理解できるキリストは
あくまで人間のレベルで
語りかけてくださるキリストです
神格が人格の低みに
身を下ろしてくださったとき
キリストはメシア以上の
イエス・キリストとなられました
 
 
(90年代後半から・・?)
 
 
 
 

 
  人間なら
 
 
どこまで事実か分からない二千年前にこだわり
いつ来るか分からない未来の終末にこだわり
今の自分を省みない信仰者にはなりたくないのです。
 
教理は解釈の一つのモデルです。
信仰の対象ではありません。
 
教理と信条に縛られる信仰は
人間性を損なう可能性があると思います。
 
 
遠藤周作の「沈黙」について
もう少し述べてみたいと思います。
 
小説のクライマックスでは
宣教師が踏み絵を踏まないと
農民が一日に一人ずつ処刑されてゆくという状況です。
 
結局、宣教師は悩んだ末に
絵踏みをして転ぶというストーリーです。
 
役人からはそれで十分なので宣教師は長らえます。
踏む前に踏絵から
キリストが「踏みなさい・・」と語りかけるのですが
たといキリストの語りかけがなくても
人間なら踏むしかないと思います。
 
もし仮に
ずっと宣教師が絵踏みせず
次々に農民が殺されていって
宣教師が「信仰を守った」なんて言ったとしたら
この宣教師はもはや人間ではないと思います。
 
絵踏みは他に農民を救う手段がないから
やむを得ず取った行動です。
裁きは神に任されます。
この絵踏みゆえに背教と見なされるなら
私は信仰などクソくらえ・・なのです。
 
 
聖書には私が読んだ範囲でも
分からないところが結構あります。
 
創世記(旧約聖書)
22:2
神は言われた、
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、
わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。
 ・・・
 22:7
やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。
彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。
イサクは言った、
「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
22:8
アブラハムは言った、
「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。
こうしてふたりは一緒に行った。
 ・・・
22:10
そしてアブラハムが手を差し伸べ、
刃物を執ってその子を殺そうとした時、
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、
「アブラハムよ、アブラハムよ」。
彼は答えた、「はい、ここにおります」。
22:12
み使が言った、
「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。
あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、
あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。
 
最後の「今知った」というのも
神は全知なのに・・なんだよ・・と言いたくなりますが、
 
アブラハムが息子イサクを殺す寸前で神は止めた、
最初からそういう神の意図だった、
殺させはしなかったという解釈もあるでしょうけれど、
 
アブラハムはイサクを殺そうとしたのです。
神が止めなければ
アブラハムはイサクを殺しただろうという流れです。
神を信仰していたアブラハムがおかしいと思うのです。
 
アブラハムが人間であるなら
「どうか、息子の代わりにわたしを殺してください、
どうしてもとおっしゃるなら、私は死にます」
とか言うべきでしょう。それで背教なら、
私の信仰など・・クソくらえ・・なのです。
 
 
士師記(旧約聖書)
11:30
エフタは主に誓願を立てて言った、
「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、
11:31
わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、
わたしの家の戸口から出てきて、
わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、
その者を燔祭としてささげましょう」。
 ・・・
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、
彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。
彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、
「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。
わたしを悩ますものとなった。
わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。
 ・・・
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、
父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。
彼女はついに男を知らなかった。
 
やっちゃったよ・・娘を焼き尽くした、生贄に・・?
神様も酷いが、エフタもおかしい・・
神はイサクの時のように止めてさえくれない。
私の信仰など・・クソくらえ・・なのです。
 
無理をするなら新約の
「誓うな」という教えにつながる?
 
 
以上の二つは分からないというより
おかしいと私は思っています。
 
このような聖書の記事からでしょうか、
私にとって
神は恐ろしい御方、
見たくない、近づきたくない、
親しく交わるなど、とんでもない、
 
「畏まる(かしこまる)」の「畏れ」ではなく
恐怖の「恐れ」なのです。
全知全能、絶対、に人は耐えられない・・
 
聖書を引用しておかしいと言い
恐怖の対象として神を見ている私が
なぜ信仰者であり続けているつもりなのでしょう。
 
キリストから信仰に入ったからです。
 
キリストは解釈や律法について詳しい人々に厳しく、
一方で
社会から罪びとと見なされた人々に
むしろそういう人々を選んで
限りない慈しみを示した御方、
・・そして抵抗もせずに殺される・・
 
キリストにこだわり引っかかり離れられない、
これが私の信仰の拠り所です。
 
そのキリストが父と呼ぶから神を信じかつ恐れ、
キリストが汚すなと言うから聖霊を信じているということです。
 
私は救われて天国に行きたいとかよりも
人間でありたいから信じているのです。
 
教理的な救いの契約とか、
そこからだらだら流れてくる救いの
何やら仕組みの取扱説明書のような理屈とお話
・・など、どうでもよいのです・・
 
 
(2014年11月23日)
(2014年12月04日、一部修正)
 
 
 
 

 
   沈黙
 
 
旧約聖書 詩篇
28:1
主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。
わが岩よ、わたしにむかって
耳しいとならないでください。
もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、
わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。
 
新約聖書 マタイによる福音書
20:31
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、
彼らはますます叫びつづけて言った、
「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
20:32
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、
「わたしに何をしてほしいのか」。
20:33
彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
20:34
イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。
すると彼らは、たちまち見えるようになり、
イエスに従って行った
 
祈りはしばしば叫びであります。
叫びはしばしば必死の叫びであります。
同じようなことを繰り返す説法と違って
命の叫びであり、死活の崖っぷちの叫びであります。
 
聖書においては
祈り叫ぶとき神様またはキリストが答え
奇跡を起こし救うという話が書かれています。
 
しかし今の時代に生きている私たちはよく知っています。
予測さえするでしょう。沈黙は最後まで沈黙であろうと。
 
遠藤周作の「沈黙」のテーマでもあります。
神がいなかったら・・と考えたほうが説明がつきそうな気がする。
しかしそう考えた途端、沈黙は孤独と絶望になり
いかなる救いもなくなるのです。
 
神の沈黙は
現代に生きる信仰者にとって大きなテーマであります。
 
 
「イエスが十字架に架けられて死なれ、葬られ、
 3日目に墓より復活し、天に帰られた今は、
 イエスに代わって派遣されているもう一人の方、
 聖である霊と呼ばれる方について行く」
 
「この方が、私たちの心に
 置いて下さる天の父と呼ばれる方の御思いについて行けばいい」
 
「イエスの十字架に合わせられて、
 生まれたときからの霊という私が十字架につけられ、
 処刑された者は、聖である霊とか御霊とか呼ばれる方をお迎えし、
 この方が置いて下さる思いに導かれて進めばいい」
 
教理的文言を繰り返し書いておけば
いつか通じるだろうと
一途に繰り返し続けるだけでよいのでしょうか。
 
肉体と肉声を持つキリストが叫べば答えてくれる
というわけにはいかない時代に
 
「霊について行く」「思いについて行く」
「思いに導かれて進めばいい」
 
こういうことばかり聞かされて
分かりましたと答えるなら
それはイエスマンの社交辞令でしかないでしょう。
 
すると
神の恵みと導きがないとね・・と聞いた側のせいにして
ますます意固地になって凝り固まるのでしょう。
そして「恵みのない者」「神の敵」という見なしがあり
信仰者の被害者意識を育ててゆくのでしょう。
 
その度に迫害を意識して
自己の罪性に鈍感になってゆくのでしょう。
 
広い門ばかり開けているようです。
その特徴は、安易・・
 
教理しか語らないという
まさしく一途な一方向だけの理性に他なりません。
 
 
(2014年11月22日、聖句引用 明記)
 
 
 
  一途
 
 
一途な信仰は大切なのかもしれませんが
一途に信じる途中で間違える可能性があります
 
一途に信じることの位置づけが
神の御心であるかどうか
神以外の誰にも分かりません
 
一途に神ではなく神のつもりの
自分の解釈や思路を信じている可能性を
除外しないことが大切なのです
 
そうすれば
間違いを思い直すことも可能になるでしょう
 
その間違いの可能性を考えずに進むと
一途に自分を信仰することになります
 
信仰と思っていることは
そう判断している人の
今の息に過ぎないのです
 
それでも人は
一息の判断で行動して
一息入れるしかないのです
 
その時か他の時か
除外しなかった間違いの可能性によって
反省し思い直す息も生まれるでしょう
 
へりくだるとは
見かけの物腰ではなく
過ちを犯す人の立場で祈る姿勢です
 
人の判断は一つの息であり
不変の確信ではありません
 
信仰の強さとは
不変の確信を得ることではなく
一つの息を思い切り呼吸すること
 
そうすれば一つの息が過ぎ去り
新しい息によって
過ちを犯したと気づいて
赦しの祈りに立ち返ることが出来るでしょう
 
人の命は息のように過ぎ去りますが
生きている間の息はその度に新しくなります
 
一途とは
息であることに一途であることであり
一途は一つの息を生み
吸って吐いて
一生涯につながっていく歩みなのでしょう
 
 
(2014年11月22日)
 
 
 
 
 

(同日一部修正さらに修正)
 
まず、ようやく 
ローマと江戸時代の迫害について述べているようです。
五行で・・それはいいのですが、
信仰者の被害者意識の問題には触れていません。
 
むしろ自分の被害者意識を剥きだしにしている感じです。
そこは大いに問題です。
 
「御子である神とか呼ばれるその方が
 ご自身と一つになっている者を守って下さるので、
 悪い者が手を触れることはできず」
 
「まことの神は、天使を送って獅子が
 ダニエルに危害を加えることがないよう
 守って下さったのだそうです」
 
「天の神、主と呼ばれる方、あるいは御子である神と呼ばれる方は
 ご自分に属する者を守って下さる」
 
自分は神に守られるべき人ということが前提になって
聖句を解釈しています。
守られるべき自分の姿勢や態度についての
問題意識がありません。しかも・・
 
「神は、私たちの願いの通りに動く神ではなく、ご自身で決定され、
 ご計画の通りにことを運ばれる方」
 
と書いています。すなわち
神が敵から人を守る
という上の聖句の引用をすることは、
神がご自身で決定された結果として、
自分は神ご自身の願い通りの、
ゆえにまた、
キリストと一つになった人間
という前提であることを表しています・・。
 
さて、こういう決めつけは珍しくないのですが、
神によって退けられる「悪い者」
・・とは誰に当てつけた文句なのでしょう・・(嘆?苦笑?)
 
「「あなたを通してしようと思っていたことが全部できたよ。
 良かったよ」と言っていただけるように」
 
子供相手に述べているのでしょうか。
今までも全体に、
特に自分の信仰について
掘り下げて考えることをしてこなかったのでしょう。
こういう姿勢だから罪の意識や傲慢や偶像から
自分をやすやすと除外してしまうのかもしれません。
 
批判を受けて書いているとは思えないし、
自分中心の正当化で、他者を無視して
婉曲的に返したつもりで悦に入っている態度でしょう。
当てつけや悪口や呪いは批判返しにはなりません。
 
人の信仰を人の立場で考えようとせず
少なくとも人より上の立場で考えているので
自分は神に守られるのが当たり前、
言い換えると
神は自分を守るのが当たり前
という決めつけになってしまいます。
これが神を恐れない傲慢ということです。
 
もちろん神が人を救うのに
人に条件や戒律を置かれては私などは救われません。
人に必要なことは
神の下にある民としての位置をわきまえること、
罪人としての節操を持つことだと思います。
 
そのために一番大切なことは、
神義つまり神の正しさを述べることではありません。
人には神の正しさは分かりません。
大切なことは人の罪の自覚だから、
それはつまり人の正しさを疑うことなのですが・・
 
・・そういう節操をわきまえない人は、
結局、何でも分かっている立場に立ち、
神に対して無遠慮で図々しいことを平気で言います。
比喩も交えて書いていきますが・・
 
 
  コミュ
 
 
恐らく彼の中では
世界はもう完結して
既に終わったも同然なのだろう
 
罪も救いも
完了形にするのとも符合している
 
だから
終わった後の世界に目を向けることを勧め
夢のような神の国を語ることで
その素晴らしさを伝えようとする
 
だからプロセスとしての
苦悩や嘆きは
耐えれば素敵な恵みがある
という単純な言説で足りると思っていて
それだけを繰り返してくる
 
動きようのない神の道への通路を作り
繰り返しなぞることで
作った道から外れなければよい
と言いたいのだろう
 
賛同意見は歓迎するだろうが
反対意見は無視する徹底ぶりだ
 
人間は動くことで
何かを見出そうとする心を持っているが
彼は動くことを否定する
 
だから繰り返しの
刺激はするが
人に何を言われても
刺激を受け取ることはなく
ゆえに反応はない
 
セメントの壁に小石を投げているようなものだ
動くはずもないが
セメントになることによって
救いは約束されるというのだろうか
 
我が道が神の道だと疑わない
つまり邪魔するなと言いたいのだろう
 
自分のホームグラウンドで
笑顔のイエスマンたちと頷き合っているだけなら
自己満足の同好会のようなものだから
目に留めなければそれで済む
 
しかし引用は聖書からだし
聖書的な文言を並べれば
見た人の多くはキリスト教の記事だと思うだろう
 
キリスト教を安易に誤解されたくはないから
彼が批判を邪魔だと思っているなら
こちらは迷惑だと言わざるを得ない
 
発信しているだけで
誰かに聖霊が与えられて
本気で自分と一つになる人が出てくる
と思っているのかもしれないが
コミュに出て
人の意見は聞かないが
自分の意見は聞けと言う卑怯に
それは期待できるものなのだろうか
それは神の御心に適っていると思うのだろうか
 
そもそも人の意見を聞かず受けずで
コミュする気がないのなら
なぜコミュに出てくるのだろう
 
どうか誤解を受け取らないでほしい
キリスト教は牧師の上意下達ではありません
作り笑顔の同好会でもありません
 
キリスト教の世界は
貧しくても壊れていても
もっと豊かな双方向の活発な人間反応系です
 
 
(2014年11月21日、同日一部修正)
 
 
 
 

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