ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年11月

 
  終末
 
 
仮定の話ですが
私は何度生まれ変わっても
それが私なら、
やはりこうなっていたんだろうか・・
こういう人生に今のように立っているんだろうか・・
別の人生があっただろうか・・などと考えながら
溜め息をつくことがあります。
乏しい自分の理性や感性を賜りながら
目一杯生かそうとして果たせず、
分からない聖霊の働きがどこかにあって、
キリストを仰ぎながら、かすかな希望のうちに
今を過ごしたいと願っています。
 
少なくとも
理性によって学んだ教理によって
理性を縛られ、その理性から、
さらに教理の辻褄合わせをしながら、
それを絶対軸のように世界と終末を語り
自らの思いや確信については
神からのみ受けたものとして
聖霊によってのみ運ばれているものとして
もはや内省も修正も
罪深い人の立場で行えなくなるような
今を過ごしたくはないのです。
 
 
最後の審判について
5:9(途中から)
ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、
善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、
それぞれ報いを受けねばならないからである。
   (新約聖書・コリント人への第二の手紙5:9-10)
 
神の声を聞いたヨブの悔い改めの告白
42:1
そこでヨブは主に答えて言った、
42:2
「わたしは知ります、
あなたはすべての事をなすことができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。
42:3
『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。
42:4
『聞け、わたしは語ろう、
わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
42:5
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見いたします。
42:6
それでわたしはみずから恨み、
ちり灰の中で悔います」。
   (旧約聖書・ヨブ記42:1-6)
 
黙示録の引用
22:3
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。
神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4
御顔を仰ぎ見るのである。
彼らの額には、御名がしるされている。
   (新約聖書・ヨハネの黙示録22:3-4)
 
 
最後の審判と黙示録は
恐らく密接な関連があるのでしょう。
それに加えて
神を聞き神を恐れるヨブの告白を合わせると
終末に備えるという大きなテーマが浮かんでくるのですが
 
「自分の理性による善悪の判断を押し通し、
 創造主に対して、この方を無視し、
 反逆を重ねて来ている者」
 
教理があるから理性を捨てよ
とでも言いたいのでしょうか。
 
教理を受けたのは聖霊のみによるのであって
自分は理性によっては何も考えなかった
という神秘体験でも語りたいのでしょうか。
 
「反逆を重ねて来ている者をも、
 天の父と呼ばれる方は惜しんで下さって、
 救いの道を拓いていて下さったのだそうです。」
 
まるで他人事のような伝聞の書き方は
神から聞いたとでも言いたいのでしょうか。
「反逆を重ねて来ている者」に
自分が含まれていることについて述べなければ
神の立場で人を憐れんでいることになると気づかないのでしょうか。
 
「十字架刑において死刑を執行し、
 私たちを処刑が終わったものとする手続きを完了し、
 私たちを償いが終わったものとみなして下さる」
 
相変わらずの完了形です。
神の思いはすべて分かっていて
完了したから自分は終末の心配などしなくてよい
とでも言いたいのでしょうか。
 
「子の身分を与える霊を私たちの内に派遣して下さって、
 私たちを子とし、家族として受け入れて下さる」
 
こういう教理的観念を並べただけの話で
福音を述べ伝えたつもりなら
罪の話は忘れてよいと言ってるようなものでしょう。
 
「このプレゼントを受け取った者は、
 天の父と呼ばれる方の家族として
 額にその方の名が記されるのですね」
 
夢を見ているのではないかという話とイメージです。
「額にその方の名が記される」を語ることが
今、いかなる実感として、いかなる喜びにつながるのでしょう。
 
 
本質的に未知のものを
既知のものとして語ってしまうとき、
あちこちに現実に即していない場違いな陶酔感と、
おいしい話しか語れないか語っていけない
という奇妙な学習結果が表れてきます。
 
学んだ教理や教義や信仰観を
画一的に理解して
観念と観念とを結びつけては
個別か一般かを問わず強引に当てはめることで
完了した気分に浸るのが信仰と言うのなら
 
つまるところ現実逃避を勧める態度に等しく、
現実に起こっている苦悩や不幸や疑問や
不条理や理不尽から目を背け
解決済みとする自らの言語世界で
信仰から信念へ執念へ我執へと
人間の信仰と志向と思考を乖離させてゆく危険を
提言しておきたいと思います。
 
また、受け取ることは考えず
交流の場に
一方的に発信するだけの無遠慮によって保たれるのは、
完璧な信仰ではなく、
見ざる聞かざる、だけど言いたいことだけは言う
という
これだけは完璧に近い自己中心、
言い換えると自己への隷属ではないかと考えます。
 
信仰は隷属へ固定するためではありません。
信仰は隷属から解放するためにあります。
 
つまずかないことを前提にするのではなく、
つまずいて、たとい壊れても、
今祈ることが希望であるなら
それこそが今の奇跡なのかもしれません。
 
終末に備えるということは
今を大事にして積み重ねることのような気がします。
 
 
(2014年11月16日、同日加筆)
信仰→祈り→希望→・・奇跡?・・
こんなふうな表現が最近は癖になっているというか、
しばらくは離れないのかな・・また考えてみます。
 
 
 
 

 
  讃美?
 
 
「この方(神)の御思いのとおりに創造され、
 御思いのとおりに存在している」 
 
上のように信じているということでしょうけど、
ことさら書く必要があるでしょうか。
 
神様は別に
人にほめられる必要はないわけです。
 
讃美ばかりを強調する人というのは
今の自分の幸福の根拠を
神に求めて正当化したがる
という傾向を考えるべきでしょう。
 
言い換えると
今の自分が神を賛美してもいいほどに
不幸ではないから讃美できている。
 
あるいは苦難があっても讃美していることを
ひけらかしたいか、押し付けたいか、・・
 
今神を賛美できないほど
酷い情況から救いを求める祈りしかできない人に
 
「御思いのとおりに存在している」
と言うのは
 
御思いは分かるつもりでいて、
一方で
人の思いや気持ちの分からない者であり、
軽率で無神経で不謹慎な発言だと思います。
 
しかも前に
「神は心を痛め・・云々」と
共感する神について書いたことがあるのに・・。
 
苦難の中にある信仰者が
立ち直ったならば必ず感謝し讃美するでしょう。
誰かに言われなくても・・。
 
信仰者同士が出来ることは
苦しみや悲しみはなかなか共に出来ないので
ともに祈ることと、ひとりの時にも祈ることと、
立ち直った人と喜びを共にすることだと思います。
 
少なくとも苦難の人がいることを
ある程度でも考えるならば
自己流の言葉で言い得たかのように
 
「御思いのとおりに存在している」
といった
 
現状が総て御心のままみたいな
人間には受け入れがたい言い方は
ふつう控えるものだと思いますが、
こう書くことが人の世界で
いったいどんな幸いにつながるというのでしょう。
神様だけは是としてくれると固まる?
それとも
神様は褒められて恵むタイプ?
・・違う・・
自分の聖書語の言語世界だけに生きていると
人間的共感や配慮というのが出来なくなるのでしょうか・・
たまたまの言い間違いではなく
培った体質によるものと判断して
・・一応指摘しておきます。
 
 
(2014年11月15日)
 
 
 
 

 
  今
 
 
今どこにいるか 
という位置よりも 
今どこに向かっているか 
という方向を大事にしたい 
 
座標は任意だし 
限りなく可能だが 
ひとりの人格の動ける範囲は 
無限有限を問わず分からないし 
神ではないのだから 
どこまでも行ってしまうと 
引き返せなくなる
 
位置からは 
どの位置から始めても 
先のことは分からないが 
方向からは 
崖に向かっているのか 
袋小路に向かっているのか 
ある程度の先が 
見えてくることもあるだろうし
何より動いていられる
 
肉体の命は間違いなく 
いなくなる方向へ向かっているのだから 
せめて希望のベクトルを持ちたい 
 
消滅へ向かう希望というのは哀しいが 
悲しみだけではない方向を 
今生きていたい 
 
 
(2014年11月14日、同日一部修正)
 
 
 
  特権
 
 
言うには言うが
人の意見は聞かない 
これはまさに
神のみの特権ではないか 
神は行うが
人の意見に頼ることはない 
 
でも少し考えると
神は言い 
直ちに行い
人の言うことを
・・ときに聞くではないか 
我々のこの世的常識的判断においても
 
神は人に従うことはない 
しかし人を聞き
その望みを叶えることは
稀ながらある 
 
(これでも聖書から
人格的唯一神を信じたから・・)
 
神ならば
セカンドオピニオンなど必要ない 
しかし人が神を語るなら
セカンドオピニオン
または対立軸が必要だ 
片方だけでは
とても陰気な片落ちになる 
 
暗いのも辛いのも好きだが
陰気なのは嫌いだ 
 
 
(2014年11月14日、同日一部修正)
・・「稀」は「まれ」で、
「辛い」は「からい」にしておきます・・
 
 
 
 

 
  偶像
 
 
14:3
「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、
罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。
わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。
14:4
それゆえ彼らに告げて言え、主なる神は、こう言われる、
イスラエルの家の人々で、その偶像を心の中に持ち、
その顔の前に罪に落しいれるところのつまずくものを置きながら、
預言者のもとに来る者には、その多くの偶像のゆえに、
主なるわたしは、みずからこれに答をする。
14:5
これはその偶像のために、
すべてわたしを離れたイスラエルの家の心を、わたしが捕えるためである。
14:6
それゆえイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、
あなたがたは悔いて、あなたがたの偶像を捨てよ。
あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。
   (旧約聖書・エゼキエル書14:3-6)
 
今までこのブログで、
解釈信仰や自分信仰と名付けて批判してきましたが、
それらはまさに心の中の偶像崇拝だからです。
 
偶像を捨てましょう、などと言いながら、
自分の解釈だけを信仰として信じている・・
それが自分信仰であり解釈信仰です。
そしてそれらはまさに心の中の偶像崇拝です。
 
そういう人は
他者の偶像崇拝を否定し戒めるけれども、
自分の信仰を偶像崇拝からやすやすと除外してしまいます。
 
偶像を他人事と思って、
自分を除外するところに
心の中の偶像崇拝は生まれます。
 
 
14:11
群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、
ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、
わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。
14:12
彼らはバルナバをゼウスと呼び、
パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。
14:13
そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、
ふたりに犠牲をささげようと思って、
雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。
14:14
ふたりの使徒バルナバとパウロとは、
これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで
14:15言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。
わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。
そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、
天と地と海と、
その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、
福音を説いているものである。
   (新約聖書・使徒行伝14:11-15)
 
これは使徒が奇跡を起こしたので
その地の人々は驚いて二人を神々だと思ったのでしょう。
目に見える偶像とも言えるけれど
知らないがゆえの勘違いとも言えそうな気がします。
 
 
「あの方との一つをやめて善悪を知る者となった人間」
 
創世記の解釈になりますが、
人間は神との合一をやめた生き物として存在しています。
 
それは人が「善悪を知る者」つまり
自分で価値基準を持ってしまうことによるのでしょう。
 
「自分に都合のいい神々を作るようになった」
「造られたものにすぎないものを神として拝む」
「理性の作りだしたものを拝んでいる」
 
理性だけではありません。
似たようなことを前に書きましたが、
一途な信仰心が偶像を生み出していることもあります。
 
常に正しく揺るがないものを手に入れたい、という気持ちから
いつの間にか手に入れたと勘違いしてしまうのでしょう。
 
常に正しく揺るがないもの
というのは人には手の届かない神の領域にあるものです。
人には
折に触れて内省し祈ることが許されています。
 
その内省をしないようになるところから
偶像は固定してゆきます。
 
「生ける神に立ち帰るようにと、
 和解と招きの言葉が伝えられている」
 
生ける神はどこにいて
どうすれば立ち帰れるのか・・
もし立ち帰れるものなら
なぜ人は今も背いているのか・・
 
「和解と招きの言葉」を様々に解釈して、
それぞれが正しさを主張しているのですから、
この有り様はまた様々な偶像崇拝を可能にするでしょう。
それが解釈信仰の必然というものです。
 
聖書解釈から世界観に至るまで教えられて、
そこから外れると不義と見なされる世界では、
前に述べましたが「聖書語」とでも呼びたくなるほど、
その言語と話の筋道が一方向に向けられます。
 
同じ筋道を同じ言葉を使って語る
という繰り返しの習慣によって
それ以外の言語世界への広がりがなくなって
「一つ」つまり単一になってしまった言語世界によって、
その他を反射的に拒否する習慣も身に着けてしまうでしょう。
 
そうやって固着してゆくものが
だんだん心の偶像崇拝の対象、つまり、
神ならぬものが神との同一性を持たれてしまう・・。
解釈の専門家になろうとして一途だから
陥ってしまう偶像崇拝ではないかと思います。
 
解釈の良し悪しや正邪ではなく
解釈の無謬性を疑わない姿勢によって
生み出される偶像崇拝つまり解釈信仰ということです。
決定的な破綻を来たさない限り悔いが生まれず、
祈りは無謬?の自分を讃美することになるでしょう。
 
個人においても色々なことを解釈します。
前にも書きましたが、
そこには無謬性は本質的にないので
原罪の可能性を認めるべきですし、
そうすることによって
悔いが生まれ、祈りが生まれて
信じること総てにおいて時々に修正可能になり
ゆえに心の解放と広がりをもたらす希望となるでしょう。
 
心の偶像そのものが
あってはならない一大事なのではありません。
思い込みは常に有るものと考えたほうがよいと思います。
信仰について思い込むとき既に偶像があるのです。
一大事としての問題は
偶像など拝んでいないと思い込むことなのです。
そうなると訂正の余地がなくなってゆくから・・
 
解釈の専門家は
解釈を詳しく知っているという点では尊敬に値するのですが、
信仰はお店の商品ではないのですから、
さらに他者の人生の糧とも毒ともなる性質上、
専門家だから正しいことを言えるということにはならないのです。
 
一般的には、あらゆる集団と組織において、
属している人々の考えることが皆一緒というのは、
とても気持ちの悪いことだと思うのです・・
 
信仰と聖書についてのあらゆる解釈は
信仰を考える上での糧として提言されるべきものです。
 
個々の信仰者は糧つまり材料と切っ掛けを得て、
常に正しいものを求めるのではなく、
時々に考え、目一杯の判断をして、
その結果と経過は、内省するとともに、
祈りの場において捧げるべきものと考えます。
 
 
(2014年11月14日)
 
 
 
 

 
  新しい契約
 
 
旧約聖書エレミア書より、
31:33
しかし、それらの日の後に
わたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、
わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、
『あなたは主を知りなさい』とは言わない。
それは、彼らが小より大に至るまで皆、
わたしを知るようになるからであると主は言われる。
わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
   (エレミア書31:33-34)
 
旧約聖書エゼキエル書より、
36:24
わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、
万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。
36:25
わたしは清い水をあなたがたに注いで、
すべての汚れから清め、
またあなたがたを、すべての偶像から清める。
36:26
わたしは新しい心をあなたがたに与え、
新しい霊をあなたがたの内に授け、
あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
36:27
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、
わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。
   (エゼキエル書36:24-27)
 
聖霊についての預言のように思われます。
 
「行えば生きることができる言葉、旧い契約。
 けれども、イスラエル1500年の歴史を通して実証されたのは、
 これを行えない人間の実態だった」
 
新しい契約から約2000年の歴史と現実が証明しているように
人の罪は絶えたことがないというのも人間の実態であります。
 
「聖である霊と呼ばれる方を私たち人間の内に派遣し、
 この方によって、
 私たち人間の心に御自身の思いと同じ思いを書き付けるという道を、
 新しい契約として提示しておられる」
 
「心に書きつける」というのは比喩的表現でしょう。
聖霊が働くという言い方でも大きな違いはないと思います。
ゆえに聖霊が書きつけたから読めばいい
というほど簡単なことでないのは周知であろうと思います。
 
教理について語るとき
こうなることが望ましいという
理想を語っていることが多いようです。
 
そしてそのことは
幾つかの具体的な「こうするべきだ」を生むのですが、
それがいつの間にか
素直に?「こうなっている」に変わりやすいのが人間です。
 
聖霊に従ったと慢心しないためには
聖霊は働くけれど人はそれを
本を読むようには確認できない
ということを知るべきでしょう。
聖三位について
知ったと言うことが不遜である理由です・・。
 
前に書いたことを繰り返します。
 
聖霊の働きを信じます。
それは密かに
これが聖霊だと人には分からないように
秘められた神の意思によって働くのでしょう。
 
理想があれば
それに適わない現実の負の部分がある
ということに目を向けなければ
聞いたことにも信じたことにもならないと思います。
 
聖三位の思いを知ることよりも
聖三位への思いを希望として感受し考え
判断して行動し、あらゆる過ちを経ても、
結局は正直に祈り続けることだけが正しい
ということではないかな・・と今は思っています。
 
 
新約聖書ヨハネ書より、
15:12
わたしのいましめは、これである。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13
人がその友のために自分の命を捨てること、
これよりも大きな愛はない。
15:14
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、
あなたがたはわたしの友である。
15:15
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。
僕は主人のしていることを知らないからである。
わたしはあなたがたを友と呼んだ。
わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16
あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。
それは、あなたがたが行って実をむすび、
その実がいつまでも残るためであり、
また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、
父が与えて下さるためである。
15:17
これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。
   (ヨハネによる福音書)
 
「愛し合う」ことは(うんざりするほど)正しいけれど、
人にとって、社交辞令ではないのだから、
これほど難しいことはないのです。(13節など・・)
 
これも前に書いたことですが、
 
永遠の友である救い主は
永遠ではない人間の友とは違います。
 
14節は大いに心から
へりくだって遠慮するべきところです。
 
私は18歳の時に洗礼を受けました。
新約聖書もほんの一部しか読んでいませんでした。
そのとき洗礼を決意させたのは
キリストとは一生の付き合いになる
という思いが否定できなくなったということです。
今も続いている付き合いとは結局
祈ることに他なりません。
 
キリストそして聖三位についてくる言葉、
全知、全能、絶対、永遠、・・
どれをとっても人には手に負えません。
永遠の命、・・不可解です。
 
 
(2014年11月13日、同日一部加筆)
 
 
ずっと前に書いた詩のようなもの
殆ど叫びですが・・
 
 
  祈り・永遠の命
 
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
(2005年01月02日)
 
 
 
 

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