ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年12月

 
  無機質
 
 
意固地なまでの強さが
無機質であるなら
火をかけても
水をかけても方向がない
 
細胞もなければ
吸気も呼気もなく
熱は化学の妖怪で
力は物理の調伏だ
 
一日一日ピストンの往復に
放縦な破砕の粉塵
煙は霧散し
色をなくして散るだけで
顕現している公害の神殿
 
真昼に見つからない白色を当てて
背中の冷汗を押す崖っぷち
真夜中の潜熱に
夢の毒気を煽る赤目の眼底
 
デルタ線分の構造式を
振って並べた文字列が語る永遠
αからΩまで
ピンからキリまで
すべてつながってあますところがない
式も環もなく永遠を表す重根
 
ループ回路の摩擦に
ひび割れる二重位相の
失敗したモルフィング
 
違う景色の同時性
線分は交わる
くずれおちるはずがない
元々欠損の自生種ゆえ
 
 
(2014年12月31日、同日一部修正)
明日アップすればよいのに・・とも思いながら
時々感情が溜まると詩のようなものを書きたくなります。
 
 
 
 

 
  砕けた魂
 
 
前に「鰯の頭」と書いたことがあったけど
理想像つまり心の中の偶像があって
それを心で仰いでいても
それに向かって祈っていても
許されてほしいという場合がある。
 
一つは偶像だという意識がある場合
前にも書いたが
これは信仰者の常態であるので
自覚があれば修正可能である。
 
もう一つが今回のテーマなのだが
砕けた魂ということ・・
 
例えば
崖っぷちにいる人
そこに住んでいるしかない人
 
また
キリストの山上の垂訓の
「心貧しき人」につながる。
 
マタイによる福音書(新約聖書)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
  (マタイ書)
 
また
「砕けた魂」のいるところ
 
詩篇(旧約聖書)
51:3
わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
 ・・・・
51:16
あなたはいけにえを好まれません。
たといわたしが燔祭をささげても
あなたは喜ばれないでしょう。
51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
  (詩篇)
 
何らかの苦難の中にいて
生死の境界近くにいて
死活の瀬戸際にいる
 
この世ではとても孤独
 
自慢できる何ものも持たない。
思い上がりようがない。
 
信じているのが偶像であろうとなかろうと
自らの権威を求めようがない。
 
自らが生き続けることでしか
信仰を示すことが出来ない。
 
祈るしかない。
 
こういう人は他のいかなる信仰者よりも
牧師よりも神学者よりも偉大だ。
 
 
(2014年12月31日)
 
 
  徒(いたずら) (再録)
 
 
徒な出会いであったかもしれぬ
片隅に腰掛けて
俯(うつむ)いていた小さな影
あるいは老婆か
生きるための祈りであったか
死にゆくための祈りであったか
別のことであったかもしれぬ
ああ誠に徒なる
かの人が出会い
私が出会ったのは
私が無駄な時も位置も捨て去りたいとき
この世で最も無為な徒労へと引き戻す
墓穴が欲しければ
それを指で掘り
それを再び指で埋めよと
そして小さな影の
かの人を思い出す
大きな雲の
空を見上げるように
 
 
(1998年1月21日)
 
 
 
 

 
  詭弁
 
 
>天の神、主は、御自身が直接働かれることもあるようですが、
>多くの場合、人を通して、人を用いて働かれるようですね。
>人間を同労者、御自身と共働する者として、
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
神が御心の成就のために人を使うことはあるでしょう。
しかし
「神が人を使う」ゆえに「人は神が分かる」
というのは思い上がった人の考え方です。
 
「神が人を使う」
神はそのことを知っているが
人は神より低い存在であるから
人は人知を超えた神の意思を確定することは出来ない。
 
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
よほど自分に栄光を帰したいのか・・
 
少なくとも今の世にあっては
栄光は神のものです。
 
さりげなく詭弁をぶち込んでくるものです。
 
もし推測を書いたに過ぎないという言い訳なら
栄光は神のものだから
 
>人間を同労者、御自身と共働する者として、
>栄光を分け合おうと思って下さっているということでしょうか。
 
とは書かないはずです。
 
ほのめかすような婉曲的表現の狡さについては前にも指摘しました。
 
>イエスを、
>死者の中からよみがえらせなさった父である神と呼ばれる方が、
>私たち一人一人に対して持っておられる御思いを実現して下さり、
>私たち一人一人を通して働かれるために必要な、
>全ての良いものを準備していて下さるのだそうです。
>このヘブル書の記者の祈りのように。新しい年も。
 
間違ってならないのは
これが神を待ち望む祈りと願いだということです。
 
いつのときも人に分かるように成就された、
または成就されるから安心だ
という既知のことを語っているのではありません。
 
「新しい年も。」と書いてしまうと
では今年もそうであったと言うことになります。
神が必要なすべての良いものを準備していて下さったかどうか
「下さらなかった」と言えば背教のような気がして
かといって
今年とても辛かった人が
「下さった」と神の前で言えば
神の前で自分に偽ったことになるでしょう。
神の意思も行為も
人間に判定できるような安物ではありません。
 
どちらも言わなくてよいのです。
祈りと願いでよいのです。
それが人間の務めですから。
 
人としての身の程をわきまえない者は
自分は既に神を知っているということにしたいので
これらのような詭弁を婉曲的な言い方で語ります。
 
かつ無反応で言いっぱなしなので
一度も間違いを認めたことがありません。
・・十分注意したほうがよいでしょう。
 
 
(2014年12月31日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  秘密
 
 
白日の下にさらされれば
みんなじりじり焼かれて
気泡を発して炭化するだけなのに
とどめようとする冷却が
次には人を凍らせてゆく
 
拍動は暗幕だらけの内懐に
とどめよう
から
へばりつかせるように
幼子を求め
ごちそうを与えて
保持の形相を呼吸する
 
うつ気分はあふれ
統合は失調し
境界は破られてゆく
 
人のわざ
アイドルの一挙手一投足を見守り
自らの足を掻いている
 
痛みのグルーピングは
御法度の憮然に堕ちて
毛づくろいの笑顔が並ぶ
 
強迫は隣人に及び
詮索は疎通を逸らし
転換と転化がくるくる回る
 
病理よ
すべて焼かれるなら
せめて気泡の嚥下を拒むという
可愛い娘たちの胸を守ってくれ
 
誰も咎めることのないように
秘密のまま終わるように
 
 
(2014年12月30日)
(2014年12月31日、一部修正)
 
 
 
 

 
  理性と信仰
 
 
理性では決して神を捉えることは出来ない。
(ここでは「捉える」とは「理解する」ことを指す)
 
では何によって神を捉えるか。
何のことはない。
何をもってしても神を捉えることは出来ない
ということを認めるのが信仰の第一歩である。
 
聖霊によって理解する?・・否である。
聖霊も神の領域ゆえに捉えることは出来ない。
 
聖霊に捉えられることはあるかもしれないが
聖霊に捉えられたと理解することは人には出来ない。
聖三位と人間の位格の違いを考えれば当然のことである。
 
捉えがたい神を
その意志と行為を理解するのではなく
神によって見られ聞かれていることを信じることが信仰である。
 
そういう事情だから
人は神に対して恐れを抱くことになる。
 
  この恐れを持たない信仰はあり得ず
  もしあると言うなら
  それはよっぽど不当な
  人の確信による自分信仰という偶像崇拝に他ならない。
 
したがって理性で神に憧れ
神を思い描いて祈るとき
人は必然的に不可避的に偶像崇拝をしていることになる。
これが信仰の原罪である。
 
この偶像崇拝を
折に触れて自覚し反省することによってのみ
人は偶像に蝕まれることから立ち直ることが出来る。
 
  自分信仰の偶像崇拝は
  よほど自覚しない限り偶像から立ち直ることは難しい。
  何故なら元々立ち直ろうという意思を持っていないからだ。
 
以上に述べたような信仰が生まれ
また維持される力を
詳(つまび)らかにすることは人には到底出来ないが
人の立場から言えることは
何らかの体験を通してキリストを好きになることだろう。
 
神から人の信仰がどのように見えるか
人は知らない。
人から見ると信仰はこうとしか見えないということを考えている。
 
 
(2014年12月30日)
神が関わる人の信仰を人の言葉で表すことは
不可能に近いほど難しいことだと思います。
しかし人は人の言葉しか持っておらず
ゆえに語らなければなりません。
時々私も混乱することが今もこれからもあると思うので
せめてそれぞれの時点で
考えをまとめる作業をしてゆくことになるでしょう。
私は何も悟ってはいないのですから・・失礼。
 
 
 
 

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