ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2014年12月

 
   理性と聖霊
 
 
どうしても聖霊と理性を対立させて
理性の判断を駆逐したいようです。
 
それについては前に
教理は狭小な理性の産物
ということを書いたのですが・・
 
>私たち、自分の理性を絶対化し、
>その理性の判断を
>天の神、主と呼ばれる方よりも上に置いている者なのですね。
 
理性の判断を
絶対化しているのではなく
 
神を信じている人さえも
人としての立場をわきまえるなら
人間離れした作用が特別に自分に降ってくるというのは
あまりにも不遜であろうと思うから
理性以外に持ち合わせがないので
仕方なく用いているのです。
 
それを犯罪人みたいな言い方をしている人こそ
自分の判断と言説を
聖なる霊つまり神と同一であると説いている
自らの思い上がった霊性の罪深さを考えるべきでしょう。
 
理性ではなく
聖霊に導かれることが信仰だと言いたいのでしょうけれど
そのような神の領域の判断を
直接いつも聞くことが出来ていると思い込んでいる人こそ
傲慢であり
聖なる霊から最も遠いことが分からないのでしょうか。
 
>それで、その理性の判断によって神を選ぶのですね。
>どの神を採用するかを決める立場に自分を置き、
>それが当然のことだとして怪しみもしないでいる。
 
どういう経験を経てきているのでしょう。
 
そんなに人の人生と命を委ねるような
神の候補者って多いのでしょうか・・
誰が神に採用通知を発行できるというのでしょう。
 
人は例えば私は
日本の家に珍しくない仏壇のある家に
生まれ育ちましたが
色々な縁に導かれて教会を知り聖書を知り
信仰を志して今に至っているわけです。
 
どういう経験を経てきているのでしょう。
 
非キリスト者が
また自分の言説に異を唱える者が
偽りの神を選んで
怪しみもしない・・などと・・
あなたはこう言ってしまうことで
私だけでなくとても多くの人々を罪に定めています。
神が人の正邪の決めるような
そんな資格をあなたはいつ得たのでしょう。
 
>その在り方は的外れな在り方だと認めて、
>天の神、主の主権を認め、
>イエスの十字架の処刑によって現された、
>この方の憐れみと愛をいただいていく者を、
>聖である霊と呼ばれる方による
>新生と更新の洗いをもって救って下さるのだそうです。
 
>永遠のいのちの関係に生きる者として下さり、
>新天新地を相続する者にしていただけるのだそうです。
>暗いこの世をこの希望をもって
>生きさせて下さるのだそうです。。今日も。
 
的外れ=罪という見方は
キリスト教において一般的です。
教理の文脈をなぞっているようですが、
ここでの言い方は今までの誇大的夢想の
「大安心」や「満足、充実」に比べると
必要以上に退却しています。
新生、更新、永遠、新天新地、そして
暗いこの世を希望をもって、・・
あなたに暗いと言ってもらう必要が
どこにあるでしょうか。
また
多くの人も、キリスト者も、私も、
あなたの文脈が追っているような
まるであの世のような新天地ではなく、
今この世を過ごすための必要を求めています。
 
もう教理として全うを装っても
あなたの言説は教理的文脈の一歩外に出た途端に
不安定で乱れていて
攻撃性以外に気持ちも汲み取りにくく
無理やり希望を取って付けて語り得たことにしている。
 
さらに相変わらず
自らの罪を棚に上げて対象とせず
指し示すのは他者の的外れの罪ばかり・・。
 
一般的な言い方をすれば
一般の人々をあなたの定める的外れの罪に定める
ということも分からずに
新たな展開が期待できるわけでもない言説なのに
執拗に口だけは減らない人へ。
いっそ一般の人ではなく
嫌味ったらしい言説の標的は私だと名指しして
限局したらどうですか。でもそうなったら
私は
あなたという人間と
私という人間に
罪があるとかないとかの差がどこにあるか
という話を進めることになるでしょう・・
 
あなたは自分が攻撃されている
と思っているかもしれないが
あなたの一面的な言説はそれだけで
とても一方的であり攻撃的であります。
体調の問題もあって
少し控えようかと思っているところに
また今日の
自分には理性はなく聖霊だけだ
とでも言わんばかりの
「理性絶対化」の大罪という話ですから
・・誰も理性を絶対化などしていないのに・・
 
 
(2014年12月30日)
(2015年01月06日、一部修正)
 
 
 
 

 
  罪の自覚
 
>この道を進ませて下さるのですね。
>聖である霊と呼ばれる方が。今日も。
 
もしこのとおりであるなら
信仰者は罪を犯さないはずです。
 
感謝の祈りを捧げられるでしょうか。
「今日も聖霊の導きに従いました」と。
祈れるとしたら相当な思い上がりです。
 
こういうところなのです。
聖霊によって歩む
・・これはキリスト者の理想です。
しかしそのように歩んだと言えば
神を恐れぬ傲慢です。
 
理想はあっても
過去にも未来にも理想通りだと確定できるものはない。
むしろそうではない反省に向かうべきなのです。
これが神を恐れる態度であり
単なる言葉の問題ではなく
言葉に表れている態度が問題なのです。
 
>この道を進ませて下さるのですね。
>聖である霊と呼ばれる方が。今日も。
 
こういう言い方は非常に紛らわしいので
罪を知っている信仰者は使わないということです。
 
信仰を人の言葉で簡単に割り切れて
一通りの言葉でいつも表せて
それを繰り返しておけばよいと
小学校の道徳でもしないような
教え方をしてしまうのは
安易に考えている証拠でしょう。
 
恐れを抱く人は
人の不全、人の言葉の不全
さらに人の思考の不全という
人の欠点を知るゆえに罪を知るでしょう。
 
聖霊は信仰者を正しさへ導きます。
しかし人はしばしばそれに気づかないことがあります。
そこに罪が生まれますが
悔い改めのために私たちは
せめて罪に気づけるようでありたいものです。
・・というところから始めるべきでしょう・・
 
 
(2014年12月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
>天の神、主は、私たちと心が通じ合う、
>思いを一つにし合う関係になりたいのだそうです。
>だから、私たちの思いの一つ一つを見せて欲しい、
>知らせて欲しいと思っていらっしゃると同時に、
>ご自分の思いも聞いて、知って、
>共有し合う間柄になって欲しいのだそうです
 
批判を始めたときから言ってることなんですが
神様から聞きました
みたいな・・この伝聞の「だそうです」は
とても気色が悪いです。
 
>御言葉をよく聞き、受け入れ、
>御思いと一つ思いになって、
>一つ行動をとる者に、
>共働する者になって欲しいのだそうです。今日も。
 
神の御言葉、一体どこで聞けるのでしょう。
聖書を読むということを言っているのでしょうか。
そういう言い方をするキリスト者は珍しくありませんが
キリスト者なら分かるでしょう
を押し付けられたようです。
さらに聖書は解釈次第で受け取り方が違います。
解釈によって教派とか分かれていることを考えると
あなたの言う神様の「欲しいのだそうです」は
結局誰よりあなた自身が「私の解釈は絶対です」から
私の言うことを神の御心として
神と一つ思いになり一つ行動になれ
と繰り返し言っているようなものです。
それは取りも直さずあなたが
私は神と一体だ
ということに等しいのです。
それを一度も否定していないでしょう。
 
 
  切り捨てのプライド
 
 
不潔または邪悪な言葉を極端に嫌う人がいます。
しかも徹底しないと気が済まないようです。
 
多くの人は極端ではなくても
自分のプライドと結びついて
物事を選別し
切り捨てているだろうと思います。
 
例えば「自己顕示」「嘘」とか
乱暴な言い方などは嫌われて
それを感じると
即断で切り捨ててみないようにします。
 
それは自分が自分であるための
個人の防衛なのかもしれません。
 
一方で嫌なものに対して
嫌なものを持っている人に対して
自分はお前とは違うと
自分を守ると同時に
他者を見下していることになります。
それを顕示することになります。
 
実際には自己顕示は
プライドと微妙にかつ密接に関連して
人格を表しているのです。
 
また不潔な言葉を嫌っても
人間はそれほど清潔にはなれません。
 
不潔な言葉を使う使わないでグループを分けても
その中にいる悪人と善人を分ける基準に
不潔な言葉を使うかどうかは役に立ちません。
 
また詐欺的な白々しい嘘は別にしても
虚実の虚となると
人間の本質と言ってよいくらい
嘘だからとゴミのようには
捨て去ることの出来ない重要なテーマにさえなります。
 
さらにまた罵詈雑言は別にしても
乱暴な言い方を見た途端に切り捨てることは
暗示されているかもしれない汲み取るべき他の部分の
可能性も一緒に切り捨ててしまうことになります。
 
乱暴や過激に対して反応してしまうより
激しい部分に意味があるかどうかを
落ち着いて判断する心が欲しいところなのですが・・
 
避けられないのでしょうか・・
人は本能的に~個性に応じて
切り捨てるプライドを持ってしまうようです。
 
というのも
動物と動物
動物と人
人と人
出会いという関係において
相手について最初に行われる判断は
自分にとって脅威になるかどうか・・
言い換えると
近づきたいならば
まず最初に
脅威にならない存在として傍らにいることが出来るか
ということから始めなければならない・・
それが出来れば関係は続き
出来なければ、または崩れれば関係は終わる
という宿命があるのでしょうか。
このような判断が最初になされる関係ならば
 
自分を守るために即断して否定し切り捨てても
言葉によって判断して切り捨てても
切り捨てるだけでは
本当に邪悪なものを否定したことになるのかどうか・・
 
ある程度は自分に対して遠慮会釈もなく
ストレートに言葉をぶつけてくる人のほうを
大切にするべきかもしれません。
そういう人は多くはないからです。
 
むしろ丁寧で耳に心地よいか
または邪魔にならない当たり障りのない言葉にこそ
最も偽善的なものは含まれやすいと思います。
 
 
(2014年12月28日)
これは明日アップしようなんて
私に余裕があるとは思えないので
書いたら書いたときに
あまり間を置かずにアップすることにしました。
 
 
 
 

 
  たとえ
 
 
信仰者は神の民だから
人格として自由を賜っており
自由に表現することが出来ます。
 
前に書いた下手な俳句のようなもの
 
  登り来て雲海の上の民となり
 
書いたときには考えなかったけれど
思い付いたので信仰についての
譬えとして考えてみます。
 
実際には山登りはしないので
精神活動くらいの意味です。
 
エネルギーを使って山に登っても
人間であることに変わりはありません。
したがって
  雲海の上の人
ではなく
  雲海の上の民
であります。
神の民であることに変わりはありません。
 
(※「人」と書いてしまうと
   登り来て雲海の上の人となり  ・・?
 これは頂上に達して思い上がっている感じになるでしょう。)
 
山より高く自力では登れません。
天には届きません。
 
ただ高い所に登れば
少しは見通しはよくなるでしょう。
これが人知の為せる業の精一杯だと思います。
 
神の働きばかり我がもののように讃美して
人の理性を否定し
人知の為せる業を否定し
人の持っている精神機能を働かせないことは
人として
見通しの良い所へ向かうこともしなくなることです。
 
見通しの悪い所にとどまって
  総てが見える
  天と一体だ
と言うことに等しいのです。
 
そして動く人を登る人を
  空しい
の一言で済ませてしまうことになるのです。
 
 
(2014年12月28日、同日一部加筆修正)
 
 
 
 

今日のテーマは有名なので知ってる人は知ってるから
・・言わずもがな・・かなとも思いますが・・
 
  愛の讃歌
 
 
パウロの「愛の讃歌」
 
コリント人への第一の手紙(新約聖書)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みをいだかない。
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える。
  (コリントⅠの13:4-7)
 
ここでパウロは感動的に
愛のあるべき姿を述べていますが
 
ここで思考を終えてしまうと
上のように行おうとして
上を行っている気分になるだけです。
 
なかなか守れないので人によっては
うんざりするかもしれません。
 
つまり上は愛の理想を語っているので、
これで終わりというわけにはいきません。
何ゆえ上を書かなければならなかったのでしょう。
暗に示されていることを考えるなら
 
 
愛の現実
「愛の讃歌」を否定(全否定?~部分否定)形にしてみます。
 
愛は不寛容であり、愛は時に非情である。
また、しばしばねたむ。
愛はしばしば高ぶり、誇る。
時に不作法であり、自分の利益を求める。
時にいらだち、恨みを抱く。
時に不義をよろこび真理を喜ばない。
そして、すべてを忍べず、すべてを信じられず、
望むことができないことがあり、
耐えることができないことがある。
 
これを考えることによって
現実の愛の有り様が浮かび上がってきます。
このような現実があるから
「愛の讃歌」を書く必要があり
読む必要があるということでしょう。
 
このように現実を踏まえて
上のパウロの「愛の讃歌」は
当為(「べき」の付くこと)が書かれている
というところまで考えることが必要でしょう。
好ましくない現実があるから理想を求めるのでしょうか。
 
愛の現実だけだと虚無的~刹那的になりそうですし
だからといって
愛の讃歌だけだと多幸的になるか
またはズルズル引きずって諦めの悪い人になりそうですが
「愛の讃歌」だけ読んでうっとりするのは
やはり片落ちというものでしょう。
 
 
事実と当為
現実と理想は不可分であり
どちらが欠けても片落ちということになると思います。
 
もちろん
二つ並べたから充分というわけではないでしょうけど・・
 
この箇所だけでなく
聖書を読んでうっとりとして
上辺だけ真似をして
満悦感に浸るのが信仰ではないことは言うまでもありません。
 
しかし実際、整った話だけで信仰を語ったことにする
という傾向は多かれ少なかれ見られることなのです。
 
 
(2014年12月28日)
 
「帯状疱疹」に個人的な事情を書きましたが
まさか同情はされていないとは思いますが・・
 
帯状ヘルペスウイルスによる帯状疱疹
と確定したわけではありませんし
基礎に悪性の病気があるかどうかも
今はまだ分かりません。
だから直ぐ死ぬとか遺言みたいに書いて
お涙頂戴などという意図はありません。
そういう意図で書いたのなら
私は卑怯者ということになります。
 
年を取ると死というものが
若い時ほどには不幸に思えなくなります。
死の真実を実感することは生きている限り不可能ですが
加齢によってますます死に対して鈍感になるというか
死は近くにあるのに分からないまま
ぴんと来ないものになっています。
 
もちろん人によって違うのでしょうけれど
私の場合は死そのものを怖がることより
今のところ
死までを生きるのに一番邪魔なのは苦痛です。
特に肉体的な痛みです。
肉体的苦痛は精神的苦痛をも増大させます。
その煩わしさを「帯状疱疹」に書いたつもりです。
 
痛みが我慢できる間は
他にすることもないので何か考えて
書いていきたいと思っている
ということに変わりはありません。失礼。
 
 
 
 

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