的外れの批判(2)2
 
 
前にも取り上げましたが、偏狭な学者気取りの文章です。改めて批判してゆきます。対象は、佐倉哲という人です。独りよがりに一気に決めつけてくることなど、筆致が楽山に似ています。宗教と信仰の的外れな理屈に溺れているようです。佐倉哲は、理解力がないのに、学者気取りで書いてきます。
 
佐倉哲は、楽山と似て、超常を語るのが宗教だと思い込んで、史実性や、辻褄で、否定してきます。おおよそ的外れで、分からないはずの超常を、論理とは言い難い拙劣さで書いてきます。世の中には、信仰も宗教も分からないのに、慢心だけで書いてく傲慢な偏執者がいるようです。
 
こんな人間がいて、様々な気取りで、自己満足のみならず、他者に影響して、他者を巻き込んでくる、というのが、宗教をめぐる現実であることを、警鐘としたいと思います。害と混乱しかもたらさない楽山と、その成りすましキャラが、不幸と災いの伝染者となっているのかもしれません。
 
 
わたし自身の(キリスト教)棄教の経験から言っても「信仰を棄ててしまえばあっけないもの」です。これは、棄教とは無理を止めることだからだと思います。無理な姿勢を止めて自然体に戻るからだと思います。本当は何も知らないくせに、まるで何か知っているかのごとく振る舞う無理(信仰)をやめて、知らないことは「知らない」と、自らの無知を認めること。これが棄教の本質だと思います。
佐倉 哲
 
信条や教理を無理に信じ込むことが信仰だという大間違いです。信仰は、個人の人生の体験と、聖書から、心に訴えかけるものを感受して、共感によって、キリストを好きになり、離れがたくなり、生きる縁(よすが)とすることです。信仰は現実の支えであって、超常だけでは信仰にはなりません。
 
佐倉哲に、理も、無理も、明らかにすることは出来ないと思います。佐倉哲自身が、無理であり、高所大所から言ってくるように見せかける詭弁屋だからです。恐らく、精神が、幼稚で、まとまらないことの代償行為でしょう。そこには、根深い怨念があると思います。
 
 
聖書とは
What is the Bible?
96年x月x日
聖書という言葉の指すものは決して一つではありません。「どの時代の誰にとって」ということを明確にしなくては、決して答えることのできないものです。
 
聖書の言葉の指すものは、読者にとって、生きるために必要と判断された場合、信仰となります。「どの時代の誰にとって」ではありません。生きている自分にとってです。人間としての共感や共通や共有はありうると思いますが、事実や史実がどうとかは、本質からは遠く離れているのです。
 
佐倉氏は、超常を信じ込むことが信仰だという先入観のお化けです。だから、言ってることが、いちいち、本質から外れてゆきます。どの宗教のことでしょう。キリスト教にもカルトみたいな人たちは紛れ込んでいるでしょうが、それは、信仰ではないのです。
 
 
聖書の間違い
Biblical Errancy
03年11月27日更新
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することです。たとえ神の導きを仮定したとしても、実際に聖書の各書を書いたのは不完全な人間なのですから、それはきわめて疑わしい主張のように、わたしには思われるからです。
 
聖書は神の言葉と言われることから、「すべて正しく、いかなる間違いも含まない」ということですが、人が、間違いなく読み取れるかというと、神の言葉を、受け取る人の言葉の限界があり、全て正しく・・というわけにはいきません。そのことを知っていることが信仰の節操であります。
 
ですから、決めつけないことは大事ですが、救われたのだから、否定できないということがあり、そういう言葉の意味や価値は、今、不可欠のもの、という気持ちでいればよいでしょう。少なくとも、佐倉哲のように、正否を理屈で決められる問題ではないので、見当外れも甚だしいです。
 
 
聖書は書き換えられたか
Has the Bible Been Rewritten?
97年8月15日
「聖書は神の霊によって書かれたものであり、いかなる誤謬も含まない」という聖書信仰が、わたしたちにとって意味あるものとして認められるためには、単にオリジナルの聖書に間違いがないというだけでなく、現在のわたしたちに伝わってきた聖書に誤りがない、ということでなければなりません。
 
上に述べたように、今の時点で言葉について、変な理屈で、正否を論じて、結論が出るようなものではありません。信仰は、決めつけられるようなものではなく、学習し成長してゆくためのものです。聖書は、人間である私たちのためなのです。その理解が佐倉氏には全くありません。
 
佐倉哲は、人間が誤りなく理解できないといけない・・と言っているようですが、むしろ、同氏のように、正誤を決めつけてくることこそ、聖書の読み方を知らないということです。評論みたいに書いているが、宗教と信仰の理解が、偏狭で、短絡的で、幼稚です。
 
 
しかし、果たして、長い伝承の経過のなかで、聖書は誰かによって書き換えられた可能性はないのでしょうか。本論は、「申命記」の作者に関連した部分の最新翻訳をいくつか吟味することによって、聖書が人間の意思によって意図的に書き換えられている事実を示し、しかも、この場合、その書き換えの動機が聖書信仰そのものであること、つまり「聖書には誤謬がない」と信じる聖書学者が、聖書の矛盾を隠蔽しようとしたためであることを明らかにするものです。
 
佐倉氏は、まるで、聖書も信仰も完全なものでないといけないと言っているようですが、神の言葉が、人にとって完全に受け取られることのほうが無理なのです。信仰は、完全になることではありません。それを自覚して判断できるような能力が人にはないからです。佐倉哲には特に無いからです。
 
信仰が必要な人にとって、信仰を全否定することは、出来ません。佐倉哲には、心とか、共感とか、何かを受け取って実感して希望となるものを持ったことがないのだろうと思います。佐倉哲が的外れに断定してきても、それは、子供が、"絶対違うからねーー!" ・・などと決めつけて言い張るのと同じです。
 
 
聖書における「死後の世界」
The Life After Death
97年11月11日
「人は死んだ後どうなると思いますか?無に帰るのでしょうか?モーセやサムエルを はじめとする旧約の偉人達は今頃どこで、どうしていると思いますか?また神を知ら ずに死んでいった世界中の多くの人達の場合はどうでしょうか?そして現在生きてい る我々は死ぬとどうなると思いますか?」というお便りを AK さんよりいただきました。人間は死んだらどうなるのでしょうか。本論は、聖書における「死後の世界」について考察します。
 
死んだ後、どうなるか、佐倉氏は、分かるというのでしょうか。聖書の文言を、人の不完全な知性で云々できると思うほうが間違いなのです。言葉と体験から、学ぶことが必要であり、佐倉氏の言うような、今考えて、今決める、などという必要はないことを知るべきであります。
 
 
「永遠の命」の思想
The Eternal Life
97年11月29日
キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。しかし、このことは、キリスト教が本来の聖書(旧約聖書)の伝統から逸脱した宗教であることを意味しています。本来の聖書には「永遠の命」の思想なるものは存在しないからです。
 
ここで、佐倉氏は、「永遠の命」という、いちばん、難しいことを俎上にあげてきました。この人は、一瞬が永遠と感じることがある、ということも、理解していないようです。ひょっとして時間的永遠と思っているのでしょうか。そういう永遠は、人間には手に負えません。
 
佐倉氏は、永遠の命の思想がないと言っています。ひょとして、佐倉氏は、時間的永遠を考えているのでしょうか。そんな永遠など、超常のこと、人に分かるわけがないのです。あるいは、分からないことを、分からなければいけないキリスト教は、おかしいと言いたいのでしょうか。
 
「永遠の命」を得ること・・という気安く言って、表せるものではありません。思考、考察、そして、希望、などといった視点が必要であり、地上では、答えの出ることではありません。佐倉氏の文章には、そういう洞察や感受性が全く感じられません。楽山と同様に思考が浅いのです。
 
 
キリスト教と日本
征服の踊り
A Dance of the Conquistador
96年x月x日
メキシコのインディオの人々に「征服の踊り」という民族ダンスがある。それは、スペイン人がマヤ文明やアステカ文明を壊滅し、先住民を奴隷化し、メキシコにおける征服者となったこと忘れないためインディオが踊るダンスである。踊り手はスペイン人に似せた仮面をかぶり、左手に十字架、右手に剣をもって、聞く者の心をえぐるような、もの悲しいリズムにあわせて、十字架と剣を、「これを取るかそれともこれか」、というようなしぐさで交互に突き出しながら踊り歩く。これを見物するインディオの人々の顔が悲しい。私はこれを見て、いつも涙を禁じ得ない。このやり場のないような悲しみはどこからくるのだろうか。
 
こういうことで、佐倉氏が、人間としての自己顕示をして、キリスト教は、こんなに、おかしいんだと言いたいのならば、悪質なペテン師ということになります。この話は、キリスト教を征服の象徴か道具みたいにしている人々の、とんでもない過ち~罪なのです。
 
これは、一部の汚点をもって、全体を否定しようという詭弁です。かつ、悪いイメージを刷り込もうとする、悪意の印象操作でもあります。ここで、佐倉氏への信頼度は、ゼロとなります。このような詭弁が通用すると思っているのでしょうか。残酷なんだよ・・と悪口を吹き込む下種のやり方です。
 
 
十字架のあがないと日本人
Redemption and the Japanese
97年9月4日
本論は、なぜ、キリスト教の十字架のあがないの思想が、日本人にとって分かりにくいかを考察したものです。
その他
殺せ!と神が命じるとき
When God Commands a Murder
95年12月9日
イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、ある困難な宗教的問題を抱えている。殺人が、神あるいはその代理者の命令として与えられるとき、信者はいかにすべきか、という問題である。
 
佐倉氏は、吟味も考察もせずに、悪い例ばかり重ねて論ってきます。ラビン首相暗殺はユダヤ教徒が犯人ではなかったでしょうか。また、十把一絡げで、オウム真理教まで持ち出してくる下種根性は、いったいどこから来るのでしょう。佐倉哲にまともな宗教観はありません。
 
 
「世の終わり」は1914年に始まったか(96年x月x日)
Has "the End of the World" Begun in 1914?
メキリストが1914年に戻って来られ、敵のまっただ中で支配を開始されたことを示す聖書的証拠については、この本の16章で考えました。それで次に、キリストの臨在の「しるし」の様々な特色と、サタンの邪悪な事物の体制が「終わりの日」にあることを示すさらに多くの証拠とを、注意深く調べてみることにしましょう。‥‥(中略)‥‥以上述べた事柄を考えると、キリストが言われた「しるし」や、キリストの弟子たちが予告していた証拠となる事柄が今起きつつあることは明白ではありませんか‥‥。それでわたしたちは次のことを確信できます。まもなく、すべての悪と悪人が、ハルマゲドンで突如終わりを迎えるということです。(『あなたは地上の楽園で永遠にいきられます』より)
本論は、このエホバの証人の終末論を検討します。
 
引用でしょうか。佐倉氏の意見でしょうか。こういう超常の謎解きみたいな考え方をするところ、空想家の楽山に、酷似しています。これ以上、キリスト教と信仰について何も語ってほしくないです。佐倉氏の、この記事は、楽山と同様、詭弁と印象操作だらけの悪意に満ちたインチキ思想に過ぎません。
 
 
最後に
キリスト教に関するわたしの最後のコメント
My Last Comments on Christianity
2004年6月9日
「佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。」という便りを最近いただきました。もちろん、本サイトにはわたしのキリスト教に対する数多くの言及がありますが、ここ数年キリスト教についてはほとんど何も研究していないので、その理由も含めて、これを機会に、わたしのキリスト教に関する最後のコメントを述べさせていただきます。半年ほど前に書いた「結論」もまた参照してください。
 
自己顕示欲からか、言い方だけ、学者風だが、思想の質が低いから参考にもならないし、詭弁ばかり書いて、ここで、謙虚芝居とは、まさに、楽山が、ずっとやってきたことです。お仲間か、楽山の成りすましである可能性が高いと思います。恥を知らない人々です。
 
 
キリスト教が再びわたしの関心の相手となり得る日
The Day When Christianity Can Become Worthy of my Attention
2004年6月9日
「佐倉さんは、もうすっかりキリスト教批判の意欲を無くしてしまわれたんですね」というおたよりをいただきました。わたしの「キリスト教に関する最後のコメント」の発表と行き違いになるようなタイミングでいただきましたので、「最後のコメント」の補足として、なぜ、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が期待できないか、を簡単に述べます。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。
 
「かつてキリスト者であった私」・・以上より、嘘臭いです。佐倉氏は、程度の低い詭弁屋です。キリスト教に興味がないなら、二度と書かないでください。キリスト教と信仰は、思い込みではありません。キリストを好きになり、生きる同伴の縁とすることです。
 
「ドグマの奴隷」ということなら、多様なキリスト教内外よりも、佐倉氏の決めつけの教祖願望のほうでしょう。楽山も同様です。丁寧はうわべだけで、決めつけが強く、にもかかわらず、考察と理解力が欠落しており、自己愛性という点でも、楽山に酷似しています。
 
 
それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。
心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。
 
それは、佐倉氏の勝手。しかし、他者に詭弁で影響を与えないでください。数々の詭弁によるデマ宣伝、読むに堪えない芝居がかった落胆の様子、三文芝居の大根役者である楽山にそっくりです。佐倉氏は、明らかに、故意に、キリスト教を否定して宣伝しようという意図で書いています。
 
信仰は歴史的興味ではありません。何学でもありません。生きるか死ぬかを問われた人にとって、唯一の支えとなることです。楽山、シャローム、易坊、佐倉哲、などのペテン師たちには、これからも、恐らく理解できないでしょう。共感性と理解力のない彼らは人間性の「魅力」がないからです。
 
 
しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。
 
佐倉市の文章は「鼻をつまんでも」見ないでください。楽山の妄想主張にほぼ同義であります。佐倉氏は、体験入学などしていないと思います。嘘吐きでもあろうと思われる者の学者気取りの詭弁など、関わる時間が総て無駄な徒労と疲労であります。
 
長いことキリスト教と聖書を学んだ?・・とんでもない。何も本質的なことを理解していません。どうやら、カルト教祖願望の強いプロのペテン師のようです。楽山も、三文芝居の大根役者ですが、悪意と欺瞞だけの、とんでもない人のようです。楽山と同一か、同様の病質と思ってよいでしょう。
 
 
わたしは、キリスト教に関する最後の個人的関心 -- 聖書の無誤謬性 -- に結論が出てしまったからでしょうか、自分でもむしろ意外なほどの速さで、キリスト教は忘却の彼方に小さく小さく消え去っていきました。
 
独りで結論を出すことの恐ろしさを佐倉哲について再確認しています。それこそドグマです。忘却は自由ですが、ならば、キリスト教と信仰について、何も語らないでください。自己愛性の臭いがプンプンしてきます。恐らく、佐倉氏は、多くの大事なことも理解せずに忘却しているのでしょう。
 
 
キリスト教のような閉じられたシステムからは革新的な発展は期待できないし、日本での信者も相変わらず1%の域を超えられず、日本が欧米のように成り果てる心配もあまりないので、キリスト教が再びわたしの関心の相手となりえる日が来ることはおそらくないだろうと思います。
佐倉 哲
 
閉じられてはいません。信仰は自由なので、私のような単一の信仰者がブログを書いています。また、佐倉氏が、閉じられていると感じるのは、何も理解できず、理解しようともしていないからでしょう。クリスチャンであった過去も嘘だと思います。裏の顔が、いずれ明らかになってゆく人です。
 
「日本が欧米のように成り果てる心配」・・ここで、右翼的思想からの固定観念が見受けられます。欧米を「成り果てる」という言葉で否定し嫌悪しています。丁寧語は見せかけで、相当な危険人物のようです。理路は浅く、感性は鈍く、共感は皆無で、悪意に満ちています。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。したがって、聖書は真理の根拠にも権威にもなり得ません。
 
考察もなく、詭弁だけで、何も吟味できず、決めつけだけです。佐倉氏が、聖書の間違いを書いてゆくなら、私は、佐倉氏の間違いと詭弁と悪意を書いてゆくことになるでしょう。同一成りすましでないなら、シャロームの偽牧師、楽山の反キリストに、劣らないほどの、無神教カルト狂祖がいます。
 
宗教は、思い込み、妄想、訂正不能、学習不能、などに至れば、非常に危険です。しかし、それは間違っているのであって、宗教と信仰の本質ではないのです。佐倉哲は、詭弁屋、そして、煽動者だと判断します。実に、楽山のペテンの刷り込みに、よく似ています。反信仰の訂正不能、最悪です。
 
楽山やシャローム、そして佐倉哲には、文章に魅力がなく、まともを装う詐欺的な、一種異様な詭弁臭と腐敗臭を感じます。関わらないでください。本物を何一つ持っておらず、詭弁で騙して、自己満足してゆく生き方です。楽山一人かもしれないが、この世で、何の真実も得ようとしない者たちです。
 
 
反宗教の理路狭窄 詭弁

反宗教の理路狭窄 詭弁
 
 
(2021年)
(2023年01月09日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
最後のくだりを読むと、不認可とされたのは、HS側が意固地になって役所の助言に従わなかったためだということを総裁自ら認めてそうだね。😁
 
末尾の絵文字は笑い顔です。このように、楽山は、他者をバカにして笑うのが生き甲斐のようです。楽山は、キリスト教をバカにしても、救いのヒントになるような何ものも提示できない人です。書くたびに無反省・無責任の病的ナルシストには宗教的感性は皆無だと、自分でバラし続けています。
 
楽山は、どこに行って何を語っても必要とされないだろうと思います。考えることが苦手なので、評論家気取りで騙そうとします。心を洞察したり、何かを鑑賞する感受性は皆無であることが、この約4年間で明らかになったのに、オナニーのように書き続けている自己満悦が、とても見苦しいのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、佐倉哲氏を肯定的に、ブログの記事に書いています。同類なのか、成りすましなのか、いずれにしても、息を吐くように、嘘を吐き、詭弁を弄する。それ以外の、例えば真実を、一度も書いたこともないし、書く気もないのでしょう。病質のために現実認識が出来ないからです。
 
楽山は、仲間がいるかのように引用して書いてきますが、実際は、独りの一人なのかもしれません。社会適応が出来なくて、復讐に成りすましているのかもしれません。そういう楽山に振り回されることは、予想以上の、疲労と徒労と、果ては、人格鈍麻~人格破壊をもたらすと判断しています。
 
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
  誰の死
 
一つの死を前にすべての言葉は無力だ
 
茶色のうねりだったような道の中に突っ立っている
夕暮れの青ざめた人々
夕焼けさえ悪意の色で迫るかのように
焼かれる炎は
さらに焼かれる
 
誰のものなのか
 
いきなり破裂する
色も光も音も
皆ばらばらの吐物のようだ
 
誰のものなのか
 
鈍く包んでいく闇では終わらない
幽霊でもなく
幻でもなく
朝よりも静かな熱をもって
墓標よりも先に
冷ややかに立ち上がる
 
誰のものなのか
 
一つの無力の前にすべての言葉は命だ
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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