ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年01月

前の記事を考えていて・・
 
 
  快楽
 
 
人は快楽を求める
 
正しいかどうかの価値判断には
快楽原則が付きまとう
 
動物的な欲望の快楽原則以上に
人間は快楽のプロセスを追う
 
例えば一つは
 
こう言ったら
あの人は不快だろう
あの人が不快な顔をすると
自分も気分良くないし
自分のせいにされるかもしれない
言わないのが正しい
 
例えばもう一つは
 
こう言ったら
あの人は不快になるし
自分は悪く思われるだろう
でも言わなければ
それ以上に自分は気分が悪いし
わだかまりがずっと残りそうだ
言うのが正しい
 
それぞれの人のそれぞれの場合の
人間の快楽と正しさのつながり・・
 
動物よりは高等なのだろうけれど・・
 
人は快楽を求めています
 
 
(2015年01月31日)
 
 
 
 

前にも少し書いたことがあると思いますが・・
 
  正しさ
 
 
人はいつも
今の自分は正しいと思っている
 
正しいという価値基準を通って生きている
 
何か間違いに気づいて
今反省しているとしても
反省している自分は正しいと思っている
 
気づく前
まだ反省していないときは
そのまま間違いを正しいと思って生きていた
 
人はいつも今自分は正しいと思っている
 
でも今の価値基準が正しいとは限らないから
 
また今の間違いに気づくときが来て
また反省し
そのときは反省したことが正しいと思うだろう
 
という予測をしている今の自分は正しいと思っている
 
      ・・・ 
 
 
(2015年01月31日)
 
 
 
 

 
  伝道
 
 
  (テモテへの第二の手紙、口語訳)
2:11
次の言葉は確実である。
「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、
また彼と共に生きるであろう。
2:12
もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。
もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
2:13
たとい、わたしたちは不真実であっても、
彼は常に真実である。
彼は自分を偽ることが、できないのである」。
  (テモテ二2:11-13、新約聖書)
 
彼とはキリストのことです。
この中の
「彼は自分を偽ることが、できないのである」
は興味深い聖句です。
聖句ではないが「神は神を造ることが出来ない」
という逆説が
むしろ唯一無二の神の全能を示すように
「彼は自分を偽ることが、できないのである」は
キリストは救い主としての使命を偽ることが出来ない、
つまりキリストは自分を偽ることが出来ない、
ゆえにキリストは真実だということを示しています。
 
同じ章の中に次のような聖句もあります。
 
  (テモテへの第二の手紙、口語訳)
2:9
この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、
ついに鎖につながれるに至った。しかし、
神の言はつながれてはいない。
  (テモテ二2:9、新約聖書)
 
「わたし」は使徒パウロのことです。
人は鎖につながれても
神の言葉はつながれてはいない。
誰かによって伝道されるという意味ですが、
 
神の言葉としての聖書は
分かりやすかったり分かりにくかったり
不思議や謎や疑問があるけれど
それは
安易に人の脳ミソの中で固定されたり
誰かの解釈だけによって
人が「神の言葉」を確定したりすることなど出来ない
というように受け取ることもできるでしょう。
 
神の言葉は
時と場所と情況と人によって
様々に生きてくるものであって
誰も「これが神の言葉です」と言って
いつも同じように示すことなど出来ないということです。
 
人は神から言葉を与えられるのであって
人が神の言葉を与えるのではありません。
 
人から見れば人の世界において
言葉の絶対性などあり得ません。
 
人が絶対でありえないことをもって
神に対すると同様に
神の言葉に対しても恐れを持つべきです。
 
人は神の言葉の絶対性に生きることは出来ません。
言葉の絶対性は神秘つまり
神によって秘められているのです。
 
神聖が隠しているものを
人が勝手に解釈して確信し
神の代理のように語り
神のように振る舞おうとするような
神への恐れを知らぬ者を警戒してください。
 
 
上の聖句引用11-12節について
 
>もし、私たちが、彼とともに(十字架刑で)死んだのなら、
>彼とともに生きるようになる。
>もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
>もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる(Ⅱテモテ2:8~12)と。
 
「彼とともに」を曲解して
キリストと同格に生きて支配者になる
というのは前に述べたルサンチマン(弱者の怨念)の
復讐のような思い上がりです。
人は息に過ぎません。
あくまでキリストが主であり私たちは従なのです。
 
「もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる」
こういう文言は
聖書を私物化してほしいままに振る舞いたい者によって
自分に従わなければキリストに否まれるという
極めて歪曲した意味に利用されやすいので注意が必要です。
 
 
>生れたときからの私という霊は、
>イエスと共に十字架刑で処刑されたものと認め、
>聖である霊と呼ばれる方によって、
>彼(イエス)とともに生きるのですね。私たち。
 
そうあるのが理想だというなら
理想だけ書いてもしようがないと思います。
おいしい宣伝の話だけになります。
 
そう生きているというなら
自分を特別扱いして神がかっている傲慢でしょう。
今までこういう言い方で
まかり通ってきたのかもしれませんが・・
 
また同じようなことを繰り返しているようです。
それで言い得たと思ってしまうことが不思議です。
 
 
  一見
 
 
伝道のために説教したつもりで
優しく穏やか表情で
一見おいしい甘い話を繰り返していると
 
もし心のうちに
過度の攻撃性や凶暴性を秘めているような人に
本人も知らないうちに
自らの攻撃性を正当化する理由として
神の正義を与えてしまう可能性があります。
 
そういう人は素直に
吸い取り紙が水を吸い込むように
速やかに一見分かりやすい教理を吸い込み
頷き頷き
たやすく信条を受け入れ
洗礼を受けるでしょう。
何故なら
そういう根拠を誰よりも欲しがっているからです。
自分でも人でもなく
神が自分の正当性と無謬性の不変の根拠になり
その根拠は耳に優しく調子合わせがとても容易だからです。
 
そうやって誕生したキリスト者は
いつも教理由来の聖書語を話していて
一見熱心に献身しているように見えるでしょう。
彼の言葉は教えられた通りに
耳に優しく心地よく聖書由来に聞こえるからです。
その熱心さで彼は
しばしば人に対して聖書語を振り回し
先輩風を吹かせて強引に
言うことを聞かせることを好むでしょう。
 
それに対して他の信徒は
教えられた通りの敬虔によって
聖書のことを言っているのだからと
美徳とされた沈黙によって批判を控えるでしょう。
 
彼は教会の中で
狙った通りの支配的存在となってゆくのです。
そしてまた
弟子のような人を探して
教えを摺り込んでゆくでしょう。
このような
教理を盾にした傲慢の系譜が
教理信仰を訂正不能にしてゆくような気がします。
 
 
(2015年01月31日)
 
 
 
 

 
  害悪
 
 
今回の記事は
前に書いた私の知っている数少ない哲学用語
 
ルサンチマン = 弱者に募る怨念 = 弱者の道徳
 
という言葉がすっぽり当てはまる典型のようですから
このテーマが今に至るキリスト教の大きな問題として
信仰者にしばしば見られる偽善と害悪の
被害者意識と他罰的念慮の表れなのですが
・・前にも書いたんだけど・・
 
 
聖書の戦争と迫害の時代の話を
今の自分に当てはめて
信仰によって耐えることを説いている
 
自分に都合の悪い批判や指摘を迫害と同一視して(怨念)
信仰によって耐えている被害者の姿を自らに擬して(道徳)
「今に見ておれ、いつか神様が・・」精神によって(怨念)
誰かを悪者にして
この世ならぬ秩序と恵みに生き、
かつ、愛の強さを説いているつもりの自らの
奇異な「お高く留まる?」高潔さを顕示している(道徳)
 
神の善と自らの怨みを坩堝(るつぼ)に入れて
かき混ぜては自分のもたらす害悪を無視し
他者の害悪を滅ぼしたまえと熱く煮えたぎる内燃機関・・
 
 
>安心なのですね。
>あの方が一緒にいて下さるから。
 
>自分で自分を守り、自分一人の判断で行く道を決めないといけないのなら、
>いつも、間違わないように気を張っていないといけなくなりますが、
>力強い導き手、相談相手がいてくれれば、
>死の陰の谷を行くときも心強く、
>苦しめられることがあっても行き詰りきることはなく、
>途方にくれますが失望に終わることはなく、
>虐げられますが見捨てられてしまうことはないのですね。
 
自分で判断をしていないと言いたいのでしょうか。
自分の不手際を認めず
自分の行いの総てを神の領域に帰するなら
不手際はいったい誰のせいになるのか
という見方を恐ろしく欠いている自分信仰の思想です。
 
苦しめられ虐げられる自己を
悲劇の主人公のように憐れみ
また常に同じように憐れんでくれるような
いつも味方の神を想定して
健気に生きている自分のストーリーを語ります。
 
苦しめ虐げ偽り害をなす自分を
完璧に視野の外に置いて
片落ちを常態とする欠落の思想が自分信仰なのです。
 
実際には現実無視の見解に固まっているに過ぎません。
その立場を正当化するために
自己中心の解釈による聖書の乱用と悪用は
いともたやすく
招いた結果と経過をさらに自己中心に変質させて
悲惨な光景を世界に現出させてゆくのでしょう。
 
 
対等に話し合う姿勢を持たず
むしろそのような人同士の相互反応を逆に
無謬の神に背く行為と見なしているようで
悪魔の誘惑とでも思っているようで
 
自分の価値基準は神の価値基準だ
という独善によって
批判する他者を
簡単に加害者にしてしまうオートマチックなプロセスを
概観させてしまう経過と結果になっている・・
 
・・批判している他者である私も
     キリスト者なのですが・・
彼のような考え方は
味方でも逆らえば背教として容易に見捨てる
ということをも明らかにしているわけです。
・・いわば偽キリスト者捏造工場になって
「しまっている」思想の現状を省みることもない・・
 
加害者にされたほうは
痛くもない腹を探られ
食いたくもない餅を食わされることになります。
 
前にも書いたことですが
 
賛同と服従以外は背教で
批判すれば神の敵と教えることは
自己の保身を図ろうとする者によって
昔から利用されてきたことなのです。
 
 
それは
自分は全うな信仰者だ
というベースとなっている前提を改革しない限り
改まることはない曲解に始まっており
 
私も含めて信仰者が
安易な安心事に流れるお決まりの言説から
この地上では終末に至るまで
人の世界の無謬性などあり得ないことを知り
教理への盲目的服従を捨て
自らの的外れと盲目の常態を認め
内省による正直な祈りによってのみ
 
焼け跡の裸から出発する時々に
再生の恵みへの希望は
折々の溜め息と悲しみと安らぎを共有する
ということでしか表せないものだろうと思います。
 
 
(2015年01月29日、同日一部修正)
 
近況として・・
帯状疱疹の痛みは、痒み、ピリピリ、チクチク、から、
酷いときは針か釘で刺すような激痛のときを迎え
しばしば弱音や悲鳴と伴い一日が経過しますが、
このようなブログの記事を書くときに
少しく集中できると、その間、痛みが和らいでいるひとときがあります。
 
今の病気が苦痛でも・・特に不幸とは思いません。
無気力な不摂生の自業自得でもあるのでしょう。
何か書けるひとときの幸いを思いますが
・・特に幸福とは思いません。つまらない明け暮れです・・失礼・・
 
 
 
 

 
  完了?
 
 
>私たちは、このプレゼントをもらいさえすれば、
>神に対して生きている者と計算していいのだそうです
 
どういう計算か知らないけど・・計算?・・
彼の言うプレゼントをもらうことというのは
彼のような人のイエスマンになること
また、教会組織の下僕になることです。
 
人に服従する者は
神に対して生きている者とは呼びません。
 
>もし私たちが御霊によって生きるのなら、
>御霊に導かれて、進もうではありませんか(ガラテヤ5:24~25)。
 
 
  (ガラテヤ人への手紙、口語訳、新約聖書)
5:25
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、
また御霊によって進もうではないか。
5:26
互にいどみ合い、互にねたみ合って、
虚栄に生きてはならない。
  (ガラテヤ5:25-26)
 
 
自分の教理からの信念と
聖霊を同一視しています。
これだけはやってはならないという例です。
・・聖霊の何たるかを知り得ないのが人間・・
 
したがって
互いに挑み合い互いに妬み合う
ということを彼がやっていないのは
受けずに書く
・・ということに一貫しているからです。
 
「・・です」に対して
批判者「「・・です」ではない・・」
それに対して
「・・ではないという意見に対して・・だから
 ゆえにやはり・・です」
と書くのではなく批判を受けないから
相変わらず
「・・です」を書き続けることが出来るのです。
話にならない文字通りを繰り返しています。
 
受けて書く
ということがいかに重要であるかが
かえって浮き彫りになります。
彼からは自己完結と訂正不能の典型を見ます。
 
彼のような人だから
虚栄に生きて・・
結論以外を単純に切り捨てます。
・・考えない分、効率はいいのでしょう・・
 
聖書の中では
迫害の時代ですから
虚栄の意味も単純でよかったのです。
 
現代そして現在では
笑みを絶やさぬ穏やかで柔和な先生
という立場を守ろうとすることこそ
虚栄でしょう。
生きている人間なら
そのような立場を保持することは出来ないと思います。
 
彼は虚栄を繰り返しています。
虚しい栄だから繰り返せるのです。
 
繰り返せば繰り返すだけ喜ばれるような
安物の特売のようなものです。
・・安物でも多くは実(じつ)があるのですが・・
 
したがって
聖霊に従って進む
ということについて彼は何も語っていません。
彼は前提として語るだけで
 
易しさと難しさが同居している聖書を
皮だけ示して
形式的文言に終始して
とても神秘的な
服従だけを強いるような
不能の書に変えてしまっているのは彼です。
 
そして人間として
何も考えなくてもいいと勧めるから
前提だけ繰り返せばよいという判断になります。
 
罪は完了、まさに
「しまっている」状態が彼なのです。
・・いってしまっているような・・
 
>天の神、主からの、
>私たちへの一方的なプレゼントなのだそうです
 
地の神がかり、彼からの
私たちへの一方的なプレゼント
というより命令を発することの使命感に
彼の悦に入っている気分を感じます。
 
>キリスト・イエスにつく者は、
>自分の肉(生まれた時からの私)を、
>さまざまな情欲や欲望とともに、
>十字架につけてしまったのです。
 
子供を抱いている写真は誰なのでしょう。
 
子供を作るな・・では決してなく
 
前提を語るなら
まずはっきりと言うべきなのです。
 
自分が自分の生涯において
欲望から自由になることはないということ・・
 
罪が十字架によって贖われた
ということはよく聞きますが
 
欲望を十字架に付けたとは?
なくなったとしたら歳のせいか
でも種々の欲望全部なくなることはないでしょう。
あるとしたら何故よりによって
キリストを引き合いに出して十字架につけたなどと・・
 
文章の表現も筋道も
彼が理性を敵視したときから
スポイルされてきたのでしょう・・
その結実が現れています。
 
罪と
罪の赦しとを
混同して書いてしまうのも
「しまっている」状態が前提にあるからでしょう。
 
罪の赦しを祈らないのかな・・???
 
>イエスは、十字架上でこの手続きが「完了した」と宣言された
>のですね(ヨハネ19:30)。
>今、私たち人間は、罪に対して、
>死んでいるものと計算していい
>のだそうです。
 
この言い回し・・また計算・・
私たちではなく
キリスト・イエスの使命が「完了した」「終わった」
ということです。
私たちの罪も愛も使命も完了するのは
私たちそれぞれの(死ぬ)時です。
あとは裁きが待っている・・くらいに考えます。
生きている間
完了したと思い込んでいるのは彼であって
私たちは完了することはありません。
どうしてもそうとは思えないということです。
完了した自分信仰よりは
未完のろくでなしの罪人として生きる人を
クリスチャン、キリスト者、信仰者と呼びます。
 
 
(2015年01月28日、同日加筆修正)
ほうほうのていで書いて・・一応ですが、この辺で・・と
念のため・・
私は病気で心身の痛みにあえいでいるダメ人間の罪深いろくでなしですが
私は欲望を十字架につけたなどという大それた不遜な書き方はしません。
欲望を十字架につけると言えるほど強くも正しくもないから・・
・・ゆえに神を恐れるから・・
 
今まで作ってきました。参加者の皆さんにはお世話になってます・・
 トーナメント「未完?」作成
 
(補足)
子供の写真は・・ひょっとして幼児洗礼かな・・
だとすれば、一応お詫びいたします。一応というのは
要は、罪がなくなったかのような
罪を十字架につけたという表現の不備を指摘したいということです。
 
(2015年02月01日、一部加筆修正)
 
 
 
 

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