ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年01月

前に少し書いたことだが・・
 
  常在
 
 
信仰者に常在しがちなものがある
・・ハッピーエンドストーリー・・
 
苦難を切り抜けた思いでいっぱいの
悩み苦しみの後の悟った気分は
もう苦しまなくていい
苦しみはもう終わったと思いがちだ
 
苦しまないために
安らぎのために信仰があるから・・
 
それは確かに一つの解放だったけれど
 
苦しまなくていい・・は
悩まなくていい・・から
考えなくていい・・になってしまいがちで
 
かくして辻褄合わせに走る
いつもそこに走る
 
整った・・ゆえに・・間違いない
 
ほとんど神の立場である
 
あれだけの苦難を乗り越えたのだから
という
信仰以上に自負を持つ
 
しかし解放されたということは
目の前に広いスペースがあるということだろう
未来と未知があるということだろう
次があるということだろう
 
しかしやはり
・・負える荷まで降ろそうとしてしまう・・
 
そこにも快楽原則や欲望が見え隠れしている
・・神の期待の何たるかを知らないのが人間・・
 
ゆえにあとは伝えればいいと思ってしまう
語れば信仰自慢に過ぎない話を
 
本当の御馳走は
御国にて頂く気持ちを持てないだろうか
 
常在なのは神であって人ではない
 
 
(2015年01月26日、同日一部修正)
 
これは本文外に記すと決めたので・・
 
やっと手に入れたものを
逃がさない思い入れ~決意の思い込みは
信じることの堅固さと結びついて
いわば
恋を失いかけて取り戻そうとするような
失いたくない男女を問わず
ズルズル人間の根性である
・・私は21歳の喪失感を今も引きずっている・・
 
 
 
 

 
  乱用
 
 
今まで彼が言ってきたことについて
信仰を自己中心に解釈して凝り固まり
曲解し独善に陥ったがゆえの非人間性や
数々の矛盾や破綻を
指摘してきたつもりですが
 
彼はそれでも
自分は聖霊によって語っていると言うのでしょうか。
自分が自分の人間離れしてゆく言説を結局
誰のせいにしようとしているか
分からないのでしょうか。
 
今回は半ば脅迫めいた書き方をしています。
ひたすら他者に向けて・・
このことがそのまま
自分を棚に上げて深みがなく
よそよそしい他人事の語り口につながっています。
 
自己の教理からの信条しか語れない人そして
自分自身の不全と罪について実感を持たない人の
恐ろしさを感じます。
 
>人間に従うよりも
>神に従わなくてはなりません。使徒5:29
 
こういうことは信仰者のみならず
どの自分信仰者もカルトも言うのです。
 
こういう短い「聖句引用の危険」は既に書いたことです。
 
>私たち人間、・・
>自分の理性を神とし、
>自分一人で善悪を判断し、
>決定する者となっているのですから(創世記3:22)
 
自分を含めた主語であるのに
へりくだった自分ではなく
まるで客観的に眺めるかのように
実感として訴える内容もなしに
どこまでも教える立場で語っているようです。
 
聖書は創世記の失楽園のところです。
 
 (創世記、口語訳)
3:22
主なる神は言われた、
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、
善悪を知るものとなった。
彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、
永久に生きるかも知れない」。
3:23
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、
人が造られたその土を耕させられた。
3:24
神は人を追い出し、エデンの園の東に、
ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、
命の木の道を守らせられた。
 (創世記3:22-24、旧約聖書)
 
この聖句の感想としては
人が自分の価値判断を持っている実存
また持たなければ生きていけない現実
つまり人の知恵ということなのでしょう。
その中には悪しきものも
罪を犯させるものもあるということなのですが・・
 
彼は神の基準で生きる道を示しているつもりのようだが
具体的なことは何一つ示し得ていません。
 
彼はここを根拠として
理性を神とすることを御心に背くことと見なし
誰が理性を神としているのか分からないけど
今までの記事からは
まるで毛嫌いしているように
理性は敵だ
と解釈しているわけです。
 
>その私という人間に従うよりも、
>神に従うことこそ生きる道なのだそうです。
 
こういうことは
どの自分信仰者もカルトも言うのです。
 
そして
このこと以上のことを
彼は何も語っていません。
 
教理の繰り返しだけ、
これこそ理性の硬直した姿なのです。
 
つまり人に与えられた柔軟な可能性である理性を
既に処刑済みにしてしまっているからです。
 
理性を肉欲と同じ扱いで忌み嫌い
否定して排除した結果
教理ワードだけが一本調子で残り
敬虔からも思索からも祈りからも何も語れず
 
それで教理の同語反復を神の言葉として
語ったから分かれと言うほうが無理なのです。
 
 
そして勢いだけで内容の薄い言説によって
肉と理性を悪の対象として同一視した上で
極めて誤解を招きやすい聖句の引用で
 
>肉(生まれたときからの私という霊)に従って生きるなら、
>あなたがたは死ぬのです
 
この聖句と解釈を
相変わらずの教える立場から
いったい誰に向けようというのでしょう。
 
 
(2015年01月26日)
・・何かぼうっとしてる・・
文脈の乱れ、間違い、等々、ご指摘いただければ幸い・・
 
 
 
 

 
  求道
 
 
信仰者は求道者である
 
信仰は道を求めるはずなのに
なぜか
道を得たつもりになってしまう
 
ある種の有頂天
あるいは夢見心地
 
「いやいやそうじゃなくて
 祝福とともに解放されたんだから
 信仰を持つ前と
 違うところは必ずあるじゃないですか」
 
道の一部は非信仰者より分かると言うのか
  ・・・否・・
 
多くの問いへと
道が開かれたということだ
 
気づけなかったものに気づいた
ということは
気づけなかったということに気づいた
ということだ
 
思いに終わりはない
 
解放されればよく見えるようになり
よく見えるようになれば
足らざるをよく見ることになるので
足らざるの問いは尽きることなく
やはり見えていないもの多く
 
ゆえにいつの経過も
見えていない足らざる人
 
祝福なら
問いの産声を聞け
 
信仰者は求道者である
 
 
(2015年01月25日)
語呂合わせ好きの私は
「道を求める」→「未知を求める」
と引っかけたかったが・・抑えたというか
・・顔が痛いので終わりにしたい・・
さっき記事、うんざりして
終えたつもりだったのに・・(嘆、苦、痛)
 
(2015年01月26日、加筆)
トーナメント・・
 求道は 殺風景な 冬の海
 
 
 
 

健康問題のため集中力も足りないし
かなり感情的にもなって
私の文章が乱れているのは自覚しておりますが・・
 
  驕る
 
 
人の弱みに付け込んで
しめしめという感じで文章の体裁だけを改め
取り返そうとするのは醜いことだと思いますが・・
自分の醜さを内省する意識を持たない人は
平気でそれをやってしまいます。
段落を分けて改行して
語気を強めて書かれているのですが
・・同じことの繰り返しです
 受けて書くという気のない人の
   業(ごう)とでも言うべきものでしょう・・
 

あなたがたは地上に富を積んではならない。
 そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、
  また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
富は、天に積みなさい。
 そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、
  また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。マタイ6:19?21

 
虫が食ったり、さび付いたり、
盗人根性で動いたりするのは
富とともに
自らの心が富んで?かえって卑しくなり
おごり高ぶるところに起きやすいのです。
 
先ず聖書の十戒を持ち出します。
 

「わたしは、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、
あなたの神、主である。
あなたには、
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、
自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、
下の地にあるものでも、
地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、妬む神、……。」
とあります。

 
偶像崇拝を妬む神の戒めですが・・
 
>人の世には、神と呼ばれるものがたくさんありますが、
>宗教の形をとっているそれらは、分かりやすいものですね。
>宗教の形をとらないで私たちが神としているもの、
>それが、さらに問題なのでしょうね。
 
>神でないものを神とする。
>その最たるものは、自分の理性を神とすることなのでしょうか。
 
理性については私はたくさん書いてきたと思うのですが
それらを受けて書いたとは到底思えない短さと内容です。
・・同じ繰り返しです・・
 
自分の信仰しているつもりの教理が
理性の産物であることは平気で除外して
今までと同じように
人間に理性を持つなと言っているようです。
・・理性を神としている人とかいるのでしょうか・・
すごく目の敵に、神の敵に、しているようです。
自分は理性を持っていないとでも言うのでしょうか。
・・どうしようもなく、自分を見てない・・
それが神がかりだと言ってきたのに・・。
 
いつもと同じ内容が続きます・・
 
神と人について
>お互いよく分かり合って、
・・・・
このような
まるで人と人との話し合いか交渉事のように
語る姿勢が彼の信仰なのです。
 
>天の神、主を呼ばれる方よりも
>自分を上の位置に置いてしまったのだそうです。
 
ふつう、自分はどうなんだ
という問いが起こるはずなのですが、
前にも書いたように彼は自分を除外しています。
 
>この方に相談したり、
>意見を聞いたりすることをしないで、
>自分一人の理性の判断で
>ことを決めて行こうとする者
 
どうやって相談するのか
あなたは相談できるというのか
結局、自分の神がかりを自慢している。
 
 
人間の問題を他人事として考えているから
上澄みだけをさらったような文章に
掘り下げたという跡が感じられない。
内容的には
欲望と書けば少しは分かるかもしれないものを
わざわざ理性と絡めてしまって
一貫してますと返したつもりか
気にしていないつもりか
 
おおよそ同意も共感も不可能な書き方で
人間とは思えない信条で繰り返し
それによって・・だから神だと
根拠も理由もなく自分から神を出し
神から自分を出したがる記事で
疑問と問題点以外生まれてこない文章だと思います。
 
今までと同じで・・何も変わることなく・・
だからこちらも似たようなことしか書けないが
 
セメントの壁と譬えたことがあるが
この謂われなき粘着質は
湿った粘土質なのかもしれません。
 
 
彼の心は目一杯偶像の産物で富んでおり
決して心貧しくなく
自らの神がかり信条と記事を
天にも地にもますます積んでいる
 
人に対しては無神経で
闘争的かつ攻撃的でありながら
自分の心を気にしないのに
心の懐具合だけは気にしていて
余裕のある穏やかさに見せかけている
 
・・もっと荒いことを書きたくなるのでこの辺にします・・
 
 
(2015年01月25日)
 
 
 
 

 
  視野
 
 
視野は狭さを痛感するとき最も広い
何故なら視野の外の大きな未知を認めているからだ
視野は広さを自認するとき最も狭い
何故なら視野の外の未知を全く認めていないからだ
 
傲慢は何事も自責しない
何故なら傲慢は最善の自己において完結していて
雨が降っても風が吹いても
苦難の原因を自己に求めることがなく
不当な他者を想定して罪に定めるからだ
 
傲慢は人に教えることは欲しても
人から受ける器を持たない
既に傲慢は満ち足りており
足すことも引くことも
求めないのが傲慢の器だからだ
 
傲慢は万能感から人を侮り
しばしば他者の視野の狭さを指摘するが
それは自己の視野が
他者より広いことを自慢するに等しく
ゆえに視野の広がりを求めていないので
万能感の視野は最も狭い
 
傲慢は真実に近づくことは出来ない
何故なら傲慢は
真実を既に所有しているつもりであり
ゆえに真実に触れることを
既に拒んでいるからだ
 
 
(2015年01月23日)
つまりは誰でも傲慢になり得るということなのです・・
 
 
 
 

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