ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年02月

 
  理解
 
 
人は目の前にない物や人を
また形のないものを
想像して
または推測して結び付けて
把握できるものに
変えてしまう習性をもっている
 
それを理解と呼んだりする
 
理解しがたい対象を
理解したい・・から・・
理解したことにしたい欲望があるのだろう
 
それは神については不可能なのだが
その想像をリアルと比べ
結び付けて生きているのが実状だ
 
追求される理解への欲望が
神という神聖なら
他のいかなる達成できない欲望よりも
高いと感じられて
超越感を求める者たちによって
もてはやされるのだろう
 
本来は人ひとりの存在の証しとして
高い低いなど関係なく
キリストへ寄せる切なる思いと
祈りだけが本質となるべき信仰なのだが
 
心の偶像は避けようがない
せめて信仰という命が残るように
本物が聞いていると信じることで
神に祈っているのだ
 
恐らくそれ以外に
信じ仰ぐ姿勢は人にはないだろう
 
 
(2015年02月27日、同日若干修正)
 
 
 
 

 
  心の中の偶像
 
 
キリストに祈り
キリストを意識するとき
思い浮かべるキリストは
キリストに寄せる思いの理想像である
 
注意しないと
思い描いたキリストに
「よくできたね」と
自分を肯定させ
褒めさせる信仰になってしまう
 
最も危険な偶像信仰である
 
熱心であればあるほど
心の中の偶像は強化され
偶像信仰は自分信仰になってゆく
 
目に見える偶像よりも怖いのは
心の中の偶像である
 
これを避けるには
常にではなく・・折に触れて・・
という人の必然によって
偶像を意識し
偶像崇拝の罪の赦しを祈るしかないだろう
 
これを日常の祈りとして
 
相手は思い描いたキリストであっても
祈れば
本当のキリストによって
祈りは聞かれているという信仰の
最後の砦である
 
 
(2015年02月27日、同日一部修正)
神と聖霊についても同様と考えています。
 
 
 
 

 
  弱さ・強さ
 
 
あらゆる邪悪から自分を除外する前提は
自分信仰を正当化し強める要素です。
 
>信仰にもいろいろな段階があり、
>信仰の強い人、知識で割り切っていける人もいれば、
>信仰の弱い人
>(信仰の知識で割り切れず、良心の呵責を覚える人)
>もいるわけですから、
>天の神、主が願っておられる在り方は、
>信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れる在り方のようですね。
>批判しないで。
 
まず信仰の本質は知識ではありません。
信仰は知識で割り切るものではありません。
 
「自分の信仰は強いんだ」と言わんばかりの
信仰というものが分かっていない人の
分かったつもりになっている言説。
 
それゆえ人を軽く見てしまうのです。
 
>批判しないで。
 
倒置法の強意表現のようですが
批判に対して
「批判しないで。」と書いて
済ませられるものではありません。
だから人を軽く見ているということです。
 
こういうのを説得力のない文章と言います。
 
しかし自分信仰と傲慢は人を軽く見るので
これで済んだ、これで十分だ、と思うのでしょう。
 
>信仰の強い人:偶像に対して知識を持っている人、
>他の神々は本来存在しないものであるとの知識を持っていて、
 
このように簡単に
信仰の強さも、偶像に対する知識も、
言葉で書いて済ませられるものではありません。
偶像は心の中の偶像もありますし・・
 
信仰は常に
良い方向に成長することも
悪い方向に堕落することもあり得ます。
知識だけで避けられるものでもありません。
 
こういうことを考えると
彼の言説は
「偶像に対して自分は知識があるので心配ない」
という立場で語っているとしか思えません。
問題を共有する態度が見えません。
 
>お互いが相手を裁き合ったり、批判し合い、
>見下したりしないで、
>信仰の強い人は、弱い人に配慮して欲しいと
>思っていらっしゃるいうことのようですね。
 
正面からの批判に対して
一貫して
上から目線の見下す態度で臨んでいるのは誰でしょう。
 
「裁く」と「批判する」を同列に述べています。
この二つは違うのです。
前に似たような違いについて書きました。
人の言うことを聞かないから今になっても
こういう書き方をしてしまうのでしょう。
 
二つの記事引用部分を見ると彼は
「自分は受け入れる姿勢を持っているので
 批判されても批判しあったりはしません
 (無反応で当てつけだけするのが正しいと思っている)」
と思っているようです。
 
彼が言う「配慮」というものが恐ろしくなります。
どんな配慮をしているのだろう・・
・・前に書いた「愛をこめて」と同じような
偽善の酷い贈り物になりそうで・・
 
相変わらず彼は
自分を別格で
信仰において悟っていて心配のない教師と信じており、
上から見下して教えていると思います。
 
どこまでも上滑りなのは
憂慮すべき対象から自分を除外しているからです。
 
言葉だけ丁寧にしても
謙虚ということにはなりません。
 
 
  (ローマ人への手紙、第14章)
14:1
信仰の弱い者を受けいれなさい。
ただ、意見を批評するためであってはならない。
14:2
ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、
弱い人は野菜だけを食べる。
14:3
食べる者は食べない者を軽んじてはならず、
食べない者も食べる者をさばいてはならない。
神は彼を受けいれて下さったのであるから。
14:4
他人の僕をさばくあなたは、いったい、
何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、
その主人によるのである。しかし、
彼は立つようになる。
主は彼を立たせることができるからである。
  (ローマ14:1-4)
 
信仰が戒律や細かいこだわりに堕してゆくのを
憂慮して書かれた手紙でしょうか。
 
聖書は奥深いので
文脈、歴史的背景、文献的考察を考慮しても
なお読解は困難です。
 
それが
聖書解釈は提言として
一つの解釈例以上のものではないという根拠です。
 
また言葉はいつも同じものを人に与えるとは限りません。
相手により、相手の状況により、
与えるものは変わってきます。
 
聖書全体に言えることです。
だからどんな人にも意味があるとも言えるでしょう。
だから誰が使ってもリスクがあるとも言えるのです。
 
リスクを考えもしないで
神の言葉だから絶対で
一つの文章と解釈で伝えられるという信仰を
解釈信仰として批判しました。
解釈信仰は自分信仰と同じで危険な信仰のあり方です。
 
詳しい解釈は苦手なので控えますが、
この時代のこの情況では
こういう言い方を必要とした人が多かった
ということでしょう。
 
それを現代に持ってきて
そのまま当てはめて語るのは
さらに自分の解釈を付け足して当てつけて語るのは
人を軽く見て、言葉を軽く見て、
ゆえに信仰を軽く見ている証拠です。
 
 
書いた文章でもよく見れば
彼の自分信仰と傲慢の言説の中に
おかしなところを発見するのは難しくありません。
前に書いたように
彼の言説が彼の信仰を否定する反証になっています。
 
 
神の前に
平等で対等な立場で書くべきところを
 
神の前に
 
自分は分かっているから上の人
ゆえに信仰の強い人
 
だから教える
 
他者は分かっていない下の人もいるでしょう
ゆえに信仰の弱い人
 
だから受け入れてあげましょう
 
という前提で語る傲慢があり
 
ゆえに
乞食にくれた残飯のような
憐れみを施している自らの無礼に気付かず
 
批判せずに、
それよりよっぽど悪い侮辱を
平気で与えてしまう
 
殴られるより悪い優しさがある
 
 
(2015年02月27日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  思慮
 
 
聖霊を直接体験できると言い張る者は
とても便利に信仰を使って
困ったときには
自らの思慮の深みを覗く
 
そこにはいつも神の答えがあると信じている
神の都合を彼は知らないのに・・
 
思慮の深み、心の奥、情念の澱、
そこにあるのは聖なるものばかりではないのに・・
・・よほど自分の心は
奥まできれいだと思っているのだろう
 
受け入れる器であることは大切だが
器に神の答えがいつもあると信じて
求めた果てに答えがないなんて考えない
・・答えはあった・・でないといけないのである・・
 
かくしていつも何らかの答えを手に入れる
・・そうなるはずだから・・なのである・・
 
人として考えることを捨てて
その都度直接神から与えられる体験を信じているから
人として考える作業など必要ないと思っている
 
神のものは神に任せ
人のものは人が考えるなんて考えないのか
 
そうして答えは聖霊からのものと信じて
神格を与えてしまうと
誰に何と言われようとも訂正はしないし
そもそも異なる意見など聞こうともしない
 
無謬?の答えが次から次に
頭に心に積み重なってゆくのだろう
 
学習は経験の実績が担保するが
自分信仰は一方向以外の学習を拒否し続けるので
これまで生きてきたのは信仰?のおかげと
実績は強引に独りよがりに
彼にとってだけプラスに蓄積する
 
誰かが異を唱えると
それはそのまま
神に異を唱えることになり
その誰かは神の敵となり
排除しなければならなくなる
 
人間の世界では
その信仰は自己中心としか見えないし
自分信仰になるのだが
彼は神からもらったという確信を自動的に強めてゆく
 
その繰り返しで世を渡り
迫害でもないのに人の言うことを聞かない自分を
パフォームしてゆく経過と結果が
許容されるために
 
とても寡黙で文句を言わず
決して邪魔にならない役立たずとして
「敬虔?な信仰」を信仰の模範に仕立て上げて固持し
アピールし続けるしかなくなるのである
 
いつまでも変わることなく
反省しない人になる
 
聖霊が心に書きつけて一つになっている自分
という信仰であるらしい
 
彼が反省するわけがない
何故なら
反省するということは
聖霊は間違うこともあると認めることになるからだ
 
彼は不変の聖霊と一つになっているので
彼も不変でないといけない
だから
間違いも罪も認めない
という執念に生きるしかない人になる
 
 
それでも地球は回っている
・・これは観察の賜物だが・・
それでも神意は分かっている
・・これは殆ど憑依の因業である
 
 
(2015年02月26日)
 
 
 
 

 
  希望
 
 
希望は絶望からしか生まれない
 
希望と絶望は同値である
 
希望と絶望は分けられない
 
絶望するとき同時に希望を抱いている
 
絶望するとき
起死回生を望まないではおれないのだ
 
信仰はそこから祈りに導くかもしれない
 
そのとき信仰も希望も一種の狂気なのかもしれない
 
しかしその狂気は
希望だけに満ちています
という感謝と讃美よりはマシな狂気だろう
 
希死は常に
死ななくてもよい状況を想定している
想定している
 
希望は儚いが
希死を過ごさせて
絶望を過ぎ去らせるかもしれない
 
絶望が過ぎ去ると
希望の記憶のような気配が残るが
希望は残らず
次に新しく生まれるのを待つだけだ
 
絶望がなく希望だけがあるというのは
何かを欲しがっている状態
つまり欲望か
または多幸気分の表出に過ぎない
 
絶望のない希望は
人を平気で傷つけるほど
野蛮な心性だ
 
勘違いしてはいけない
 
希望と絶望は同値である
 
希望は常ではない
 
希望との出会いはそのとき一度限り
 
一期一会なのだ
 
 
(2015年02月26日)
 
 
 
 

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