ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年02月

 
  自分信仰 (2)
 
 
自分信仰の言説は
基本的に自己中心に展開するため
他者のことは考えないので
殆ど説得力がなく
ゆえに繰り返すことに命を懸けている
 
語ることで
そのたびに自己完結して
足したり引いたりする必要を感じず
ゆえに修正する気は全くなく
人が異を唱えると不機嫌になるだけだ
 
「ふっ、何を言っとる」といったような
嘲笑と侮蔑の感情を言外に感じることが多い
 
自分の罪について考えることは
戦略的に益があると判断して
そう見せることもあるというだけで
迫真性のないのが特徴である
 
自分信仰の言説に賛同する者は
既に賛同している者が大部分だろう
 
自我の弱い人々の中には
表面的な優しさに騙される人もいるが
特に年長者では既に他の言説に
捕まっていることが多いだろう
 
自分信仰が宗教に親和するのは
言説における神の冠や旗によって
正当性の担保が欲しいからに他ならない
 
自分信仰に捕まった人には
一日も早く
人間に戻ってほしいと願うが
 
恐れないでほしい
戻ったときには
・・恐らく傷だらけになっている自分を
見ることになるだろうけど・・
 
 
(2015年02月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
彼の言説においては自明となっている聖霊
について
彼は語っています。
 
>この、聖である霊と呼ばれる方を通して
>心に来る思いについて行く者は、
>自分の理性による善悪の判断という
>砂地の上に自分の行動を建てるのではなく、
>天の神、主の御思いという岩盤の上に
>自分の行動を建てていくことになるのだそうですね。
 
聖霊が心に書きつけて
その思いと一つになると言い
 
>「子」として、家族として
>生きるようにして下さっているのだそうです。
 
ゆえに罪に定められることはないと
彼は言っています。
 
 
どうして聖霊だと分かるのか
聖三位をどうして人が聖三位だと分かるのか
 
聖霊が教えてくれると言うなら
何故教えたのが聖霊だと分かるのか
・・無限に続く疑問に
 無限に聖三位が教えたと言い続けるしかなく
 実質答えられない・・何故かと言えば
それは自分信仰だからで
根拠も理由もなく
我を無理やり張り続けるしかないからです。
 
神の前に恐れて保留する
という態度がないのでしょう。
 
というようなことを言って
私は批判するのですが
 
 
彼はまた聖霊について
同じようなことを繰り返すのです。
 
>私たち各自、一人一人に関わるご自身の御思いを、
>私たち一人一人の心に置き、書き記して、
>それぞれがそれぞれの分、ご自身と一つ思いを持ち、
>天の神、主と、それぞれの分について
>一つ行動をとる者として下さるのだそうです(ヨハネ14:12)。
 
当てつけみたいなことを書くけれど
反論・批判返しをしない・・
かといって自説を修正する意思は全くなく
じとじと同じことを繰り返す・・
 
しかもそれをキリスト教として
他者がいることをまったく気にせず
コミュする気はないくせに
トラコミュに平気で出してくる・・
 
その繰り返しです。
 
議論不能であることを彼は強みだと思っているようです。
聖霊体験や異言など
直接体験を主張する者は大方そうなのでしょう。
 
しかしそういう信仰のあり方は
あらゆるカルトの主張を正当化します。
 
カルトの直接体験の主張に対して
それは間違いだと言えなくなります。
 
「ともかく」も「置いといて」もないのです。
とても危険な過ちを犯しているからです。
 
直接体験信仰は本質的にカルトです。
 
 
  直接体験
 
 
直接体験信仰は
神は確認不能という疑問に答えられないことと
邪悪なカルトに対して何も言えないゆえに
何も言わないゆえに
無関心というスタンスで
問題にしないゆえに罪深い
 
聖三位を直接体験できるという信仰は
姦淫に等しい罪である
 
姦淫の罪はしばしば
偶像崇拝の罪のたとえとして用いられる
 
神以外のもの、
例えば、教理、牧師などの人物、
そして自分の神秘体験などを
信仰対象とする偶像崇拝である
 
それが神だと信じることは
神を侵す(犯す?)行為だ。
 
最も致命的な問題は
偶像と言う自覚がないことだ
それでは立ち直りようがなくなる
 
直接体験信仰は自分信仰であり
本質的に単立カルトである
 
姦淫とも言えるが
自分信仰はオナニー
つまり宗教的自慰行為であり
大方自分と仲間だけで完結する
 
 *** 
 
すべて理にかなって
すっきり説明できる信仰はなく
あるという信仰はむしろ怪しいが
 
だからこそ
説明できない信仰について
謙虚でなければならないだろう
 
そこは神の領域だからだ
 
 
(2015年02月24日)
 
 
 
 

フィクションです・・
 
 
  ガス抜き
 
 
たとえですが
理由もなく
1+1=3 と言うのです
3は 永遠、完全、・・
 
リンゴ1個は、1
リンゴ1個に リンゴ1個なら
リンゴ2個
だから 1+1=2 と言ったのです
 
しかしまた 1+1=3 と
最初に言ったのとまるで同じ調子で
くりかえし言うのです
なぜなら
神に教えてもらったからと
神の証拠だからと
しるしだからと
みわざだからと
 
人が勝手に決めてはいけないのに
 
そう繰り返すことが神意と
思っているようなのです
だから無条件で
どこまでも
理屈じゃないと
 
それは理屈じゃないってこととは違う
 
もう身の毛がよだつのです
ホラーです
 
じめじめと
ただ
変わらない
何を言っても変わらない
 
しかもそれを
悦びとしているようなのです
そういう状況で
余裕が持てることを
 
不動のカビです、コケです
じめじめと繁茂し続けるのです
そういう生態系があるのです
 
これは強いと言うのか
逃げていると言うのか
 
完結、完了、済み、だって
 
このような生命体とは
話し合いが成り立ちません
 
衝撃だけでも与えようとしたが
何も聞かない
 
聞かないことが使命だと信じている
 
周りに結界でも作りたい
誰も染まらないように
 
でも生きているように見えるから
生存権だけは認めてあげよう
 愛を込めて ・・ 皮肉です
 (前に批判した悍ましい言葉)
 
創造主は何故そのような生命体を
お造りになったのでしょう
創造主は何故そのような世界に
私をお造りになったのでしょう
 
何故私が
同じ名前で呼ばれなければならないのか
 
デナシ、クルワセ、モドキ、ドベイ、
トモカク、オイトイテ、ダソウデスネ、
デスネ、スネ、ネ、・・
 
これはガス抜きです
これはガス抜きです
 
 
(2015年02月23日)
 
 
 
 

前の記事で自分信仰について述べましたので・・
 
 
  信仰と自分
 
 
自分の考えはこう・・でも
神の考えは分からない
・・と一歩引くのが信仰
 
信仰に関わる神と
自分の信仰の思い込みとは違う
という可能性をも信じるのが信仰
 
信じないのが自分信仰で
誰にでもある思い込みを信仰としてしまう
 
大して変わらないようで
実は大きな違い
 
違いは元々
誰もが知っていて
神と違う人の
存在の儚さの自覚だ
 
存在の儚さは誰でも持っていて
誰も避けようがない
 
儚さは常に一つの哀しみである
 
哀しみを無理に
感謝と讃美で埋めようとすると
うわべの笑顔の代わりに
儚さの自覚が
神に対する人の存在のあるべき姿が失われる
 
神の心は分からないと一歩引くのが信仰
 
最終的な判断を
神に任せる敬虔である
 
 
(2015年02月22日)
 
 
 
 

 
  自分信仰
 
 
信仰者は実は多くの場合
自分は特別に神に愛されている
という被愛妄想を持っている
 
最も邪悪な自分信仰は
自分は特別・・ということを
神の意思と決めつける
 
そうなると
誰かを神に愛されない敵と見なすことになり
言葉で表面上は取り繕っても
死んで地獄へ落ちればいい奴と
裁かれて死ぬ奴そして地獄へ落ちる奴と
誰かを決めつけることになる
 
神を恐れないから
そういう信じ方を御心に適うと決めつける
 
神と人の関係は
そこに神を恐れるかどうかが現れてくる
 
自分より
神に対する関係の
劣っている者を想定すれば
神の下に平等ではなくなり
それはつまり
神への信仰が的外れになり
そのまま押し通せば
神ならぬ自分を信仰するのと同じだ
 
自己中心と自分信仰を分けるのはそこだろう
自己中心は人の常だから
 
信仰者は自分の敵と神の敵を分けるが
自分信仰者にとって自分の敵は神の敵だ
 
意識しないところで
言葉にならないところで
自分信仰は固着し
不可逆になってゆく
 
意識下のプロセスの結末は
やがて他者の意識上には現れるので
 
恐らくそれが最後の警告
 
 
(2015年02月22日、同日一部修正)
(2015年02月25日、一部修正)
 
 
 
 

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