ウソの国:st5402jpのblog

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年03月

 
  文章検討
 
 
少し彼の文章の書き方について検討してみます。
何ゆえ読むたびに苛々するのだろうと思って
前から気になっていたことです。
彼の少し前の記事を引用します。
 
「聖である霊と呼ばれる方に覆われ、満たされて、
 この方によって心に道を、御父の御思いを書き付けていただき、
 その御思いのとおりに歩む者にしていただけるのだそうです。」
 
「・・にしていただける」
いつと書いていない。
現在そうであるということを言っているのでしょうか。
将来そうなると言っているのでしょうか。
もし将来なら
洗礼を受けたらという話なのでしょうか。
生きている間のことなのでしょうか。
終末か死後のことなのでしょうか。
 
今そうだということなら今罪を犯すことはない
ということになり、自己正当化になります。
生きている間にそうなる、ということでも
時期が先延ばしになるだけで同じことです。
 
終末のことなら、誰も経験していない、
いつか分からないことを言って何になるのでしょう。
 
いずれにしてもキリスト信仰からは
かけ離れていると思います。
 
時期をはっきり示せば、かけ離れ、
だから曖昧で済ませている。
 
実際は時期など誰にも示せないのだから
おいしそうなだけの話の書き方は避けるものです。
こういうことを福音として語れば詐欺に近いのです。
 
いくら「・・いただけるのだそうです」と書いても
空っぽの約束をしているだけになります。
 
はっきり言えないことを
はっきり言えないことだという説明もなしに
はっきり言ったように見せかけているから
ごまかしになってしまい
とても読んで気持ちの悪いものになってしまう。
 
もし気持ちのいい人がいたら
それは既に彼に染まって隷属しているか
彼の見せかけにまんまと騙されている証拠です。
見るたびごとに上に書いたことを考慮して
冷静に見てほしいと思います。
 
「・・のだそうです」
なぜ伝聞表現で書くのでしょう。
誰から聞いたとは書いていない。
いちいち先輩に聞いたわけではないでしょうから
神から聞いたと言えば預言者ということになって
差しさわりがあるので
曖昧に書いて、
さらに伝聞表現にすることで客観的に見せかけ
「・・のだ」と書くより
優しい文章に見せかけようとしているようです。
 
空しい責任回避だと思います。
実際、補足も弁明もしていません。
受け入れてもらえることだけを狙っている書き方で
モヤッと良さそうな文章を書けばいいだろう
という気持ちしか持っていない証拠でしょう。
 
文章の工夫がいちいち嫌味と言ってよく
謙虚でもなく改める方向もなく
書き続けて恥じることがないのならば
卑劣としか言いようがないでしょう。
 
聖なる信仰を夜店の安物にしてしまう行為です。
 
こういう人になりたいか、また、
こういう人から教えを受けたいか・・という問題なのです。
 
文章の未熟さを自覚しておれば人を無視しないはずです。
心貧しさということなら益々人の言うことを聞くはずです。
そう言った問題なら私はとやかく言ったりしません。
そうではないのです。
修正する気もなく謙虚さを持たない書き方を
邪悪な精神の問題として批判しているのです。
これが思い込み信仰の邪悪さと卑怯さにつながるからです。
 
聖霊と一つ、神の思いの通りに、などはとんでもないことで
継続的に改めようともしない邪悪さを呈しています。
 
だから私は
彼の言説が彼の言説に反証する
と言ってきたのです。
 
言説が信仰そのものを薄汚いものにしているので
読んだ信仰者にとって迷惑だろうということ・・。
キリスト信仰にとってプラスの要素がない。
 
フォントを大きくしたり文章を長くしたりしても
それだけ大きく強く伝わるわけではありません。
 
何故こういう言説に
忠告も注意もせずに放置しているのでしょう。
邪悪が全然変わらない。
 
 
(邪悪はお前だろ・・なんて呟きでもしたら
 何だか、えっへっへとか、ふん、とか
 そちらが嘲笑っている姿を
 思い浮かべてしまうことになるでしょう・・)
 
 
(2015年03月31日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  聖霊体験(3)
    他のブログのコメントより・・続き
    相手のコメントも全部載せることにしました。
 
※ コメントの中の「相手」は批判対象ですが、
 上に書いた「相手」つまり議論の相手は批判対象とは別の人です。
 
 
トラコミュ?というのを私はよく知らないので、なんとも言えませんが、ブログとは違って影響力が大きいのでしょうか?
仮にSTさんの批判対象となっている人が10人の信徒に何らかの影響を与えているとして、STさんの批判によってその10人が自らの間違いに気づいて改めるということを目指しておられるのでしょうか?しかし、繰り返しにになりますが、その10人の方が正しいという可能性もあるので、放っておいた方がよいということもあります。
 
>優しくて辛辣なことを言わないクリスチャンが
>人間として一対一の対等な議論を避けてきたから
>今日の事態を招いたという苛立ちがあります。
 
このあたりはよく分かります。私も時々そういう苛立ちを覚えます。しかし、辛辣なことを言えば対等な議論になるとも思えません。むしろ感情的になってまともな議論ができなくなる可能性の方が大きいと思います。もちろん無難な社交辞令は時間の無駄ですが、攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします。少なくとも私はそういう議論はしたくありません。
2015/3/30(月) 午前 2:02 <<コメントに返信する
 
>聖書から神秘体験者でも間違いを犯すことがある例
>聖書の神秘体験そのものがフィクションの可能性
 
この二つは確かに両立しませんね。鋭いご指摘です。もう少し考えてみます。
 
何らかの神秘体験があることは私も否定しませんが、それが本物かどうかは誰にも分からない。オウム真理教みたいにLSDによる幻覚を神秘体験と呼んでいる場合もあります。サリン事件で人が死んでから考えるのは確かに遅すぎます。だから、宗教は批判されることが必要だと思います。しかし、STさんの批判対象となっている人はそんなに危険な人物なのでしょうか?少しでも危険性があるなら、その芽を摘んでおくことも必要ですが、STさんのご批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、そんな危険性はないと思いますが・・・?
2015/3/30(月) 午前 2:21  <<コメントに返信する
 
 
>10人が自らの間違いに気づいて改める
>ということを目指しておられるのでしょうか?
 
それはほぼ諦めています。ブログ村のトラコミュ・・ログインしないで見れないかな・・
トラコミュには大まかなテーマによって毎日記事が寄せられます。宗教関連の記事で相手の記事が毎日載ってくるのですが、最初見たときから、これがキリスト教だと思われたくないという一念から、それまで批判もなくだら~と並んでいた相手の記事に、これがキリスト教だとは思えないという対立軸を挿んでゆくしかないと判断したので批判を続けています。私の批判が正しいとは限らないのは承知ですから、反対している奴がいるぞ・・一枚岩じゃないぞ・・ということを示すためにやっていると言ってもいいでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>その10人の方が正しいという可能性もあるので、
>放っておいた方がよいということもあります
 
(正しいという)可能性を考えて放っておいたほうがよいといってしまうと、あらゆる思想と政治についても放っておいたほうがよいということになりはしませんか。自分の、相手が間違っているという思いをそこで抑制すべきでしょうか。乱暴だと思います。
2015/3/30(月) 午前 11:23 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>攻撃的な言葉でお互いに傷つけ合うのもエネルギーの無駄遣いという気がします
 
攻撃性を何よりも忌み嫌っておられるようですが、攻撃性がないならば安心なさるのでしょうか。前に批判した人も今批判している人も当てつけ程度で攻撃性はなかったし今もないのです。
むしろ私としては攻撃性がないことを問題にしています。
真っ向から反対意見を述べているのですから驚いて怒って攻撃というか反撃があるのが正常だと思います。それが傷つけるような悪口雑言であっても反撃がないよりは双方向になる分だけ私にはマシなのです。言葉だけ嘘くさく丁寧で穏やかというのが私には最も残酷に響いてきて、いかなる反撃よりも私をズタズタにします。だからそういうときは丁寧な言葉と文脈と筆致から、出来るだけですが、本音を推測しようとします。それは当たっていないかもしれないが、衝撃になってくれという目的があるのかもしれません。
2015/3/30(月) 午前 11:24 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>批判を無視して、自分の考えを述べているだけなら、
>そんな危険性はないと思いますが・・・?
 
私は別の感じ方をしているようです。反撃せずに耐え忍ぶということは、その忍耐力がどこから来るのかと考えてみると、反撃以上の絶対否定の精神だと思います。信仰者の場合そうさせている原動力は神、そして神の敵が相手だという意識が働いていると推測します。そこからはとんでもない偽善とかが想像されてしまうのです。私が今ここで反論しているのとは全然違う世界に生きている人・・これは、育ってゆく人々のことを考えると恐ろしい種を蒔いているような気がしてならないので、相手を傷つけたとしても傷は距離が離れれば治るかもしれませんが、そういう種に関しては放置してよいという判断は、即ち危険の種を放置することになると考えているような気がします。相手を傷つけたいとは思わないが、傷よりも怖いことを推測しています。それが宗教の怖さだと思っています。人間関係ではなくなるのです。放置せずにどうするかは上の攻撃性の問題につながるでしょう。
2015/3/30(月) 午前 11:26 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
また記事にしようと思いますが、○様のコメントもHN抜いて全文載せようと思います。端折るとどうもコメントのバランスが悪いような気がするので・・
2015/3/30(月) 午前 11:29 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年03月30日、同日一部修正)

 
 
この後のレスを要約すると・・
(正しいという)可能性については、
政治については直接の影響があるので、正しい可能性があるから放置というのは成り立たないというレスあり。私としては、政治も種を蒔いているという場合もあると思いますが、ほぼ同意。他の問題としては個性による見方の違いだろうということになりました。
 
 
 
 

 
  一方通行
 
 
同じことを繰り返し書いてきて
訂正しない
問われても批判されても訂正しない
 
謝罪を求めているわけではない
 
少なくとも「聖霊と一つになる」と
「神の子の立場に立てる」は
言いすぎでした
なんて一切言わない
 
最初見たときと同じなのだ
まるで神の不変を真似ている
 
だからその根拠は
憎しみと執念だと書いた
 
何様のつもりだ
じゃなくて
神様のつもりなのだ
少なくとも
神と聖霊と一体のつもりなのだ
と考えるしかない
 
神は不変だから自分も不変じゃないといけない
とでも思っているのだろうか
 
聖三位は互いに仲がいい
 聖三位は一体だとも言われるから
 「仲がいい」という言葉が当てはまるのかどうかだが
 「仲が悪い」とは思えないので
 それでいいとしても
 
それで自分も聖霊と一体で
神の子として愛されているで終わってしまう
 
いい大人なのに
とても単純で幼稚な理解に見える
 
しかも他者の前に
そのまま押し出してきて
それで十分だと思っている
 
それで十分
自分信仰者だと証明しているようなものなのに
 
キリストは罪が処刑済み
ということを言うために登場してくるようなもので
 
しかも単純に
だから自分には罪はないと続けるに至っては
幼稚を過ぎて罪深いのだが
 
習い覚えた言葉に縛られているから
言い換える気もなく
基本的なキリスト信仰を外しまくって
生きてゆくのだろうか
 
誤解も曲解も解くすべがないのだ
 
少なくとも言葉では
夢想的芝居的筋書きに浸っているしかないのだろう
 
安い芝居を見せて
浮かれるといいよと言っているようなものだ
 
誰かが忠告したり諌めたりして変わる様子もないから
締まりのない文章を垂れ流し続けるのは
仲間も似たような状況だろうと思うしかない
 
伝聞表現は恐らく
自分は神の子だから神様から聞いたと言いたいのだろう
 
髭の生えた幼児は
どうしようもなく満たされているしかないのだ
 
人なら間違えることもあるだろうに
自分の言った言葉一つも訂正も弁明も出来ない立場に
立ち続ける以外にないのだろうか
 
だから溜まってくるのは
憎しみと執念深さだけとしか思えない
 
書き続けることに
納得のいくような
他の動機が全く感じられないのは
 
神の子として神の言う通りに書いたのだから
説得力など問題ではなく
足すことなど何もないという理由だとすれば
 
神の子キリストの
あの説得力をどう説明するつもりだろう
 
 
(2015年03月30日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  聖霊体験(2)
 
 
「聖霊体験(コメント欄より)」の続きです。
別のブログに書いた私のコメントですが
相手のレスコメントは省略します・・
コメントの中の引用部分ということになります。
 
>聖書の中にも何らかの神秘体験をした人
>間違いだらけの欠点だらけの人物として描かれて
 
聖書から神秘体験者でも間違いを犯すことがある例
 
>「神が教えてくれる」というのも、
>本当にそれは神なのか?と疑うことはできる
 
聖書の神秘体験そのものがフィクションの可能性
 
前者後者ともそれぞれの立場での話ということは分かるのですが
前者を挙げるなら後者の立場は保留すべきだし
後者をあげるなら前者の例示は出来ないと思います。
2015/3/30(月) 午前 0:14 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>批判するSTさんも間違っているかもしれないわけで、
>批判の対象となっている人が実は正しい
>という可能性もあります
 
時々に正しいと思っていなければ書けないわけですが、
もちろん神が私を是とするかどうかは分からないので
私が悪なら滅ぼしてくださいと
これはいささか衒奇的な感じの祈りだと自覚しますが
祈ったことはあります。しばしば・・
実際、恐らく年齢から言っても先に私のほうが滅びるでしょう。
動機があり、続いているから、続けるしかない状態です。
私は狂っているのでしょうかと祈ったこともあります。
もちろん神の返事はありません。
 
彼にはたっぷり神からの励ましの返事があるのでしょう
神と聖霊と一体らしいから。(皮肉です)
2015/3/30(月) 午前 0:17 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
すべての言動は災いの種になりうるし
人は神ではないから
それをいちいち間違いなく判別することなど出来ないし
つまり
すべての可能性を考えていたら何も出来ないということになります。
 
私の攻撃的な言辞に限っても
穏やかに話していたら社交になって折り合って妥協して
言論を控えて・・ということになるから
それだけは御免だという理由です。
(すべての場合がそうだとは言いません。)
2015/3/30(月) 午前 0:18 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>批判対象となっている人が狂信的になって
>サリン事件のようなことを起こしているなら問題ですが
 
人が死んでから考えると?
そういう場合だけでなく信徒がいるわけですから
彼は育てているのです。自分に従ってくれる信徒を。
そして彼も育てられた信徒の一人なのでしょう。
正直言って
優しくて辛辣なことを言わないクリスチャンが
人間として一対一の対等な議論を避けてきたから
今日の事態を招いたという苛立ちがあります。
だから個人批判だけではないつもりです。
2015/3/30(月) 午前 0:18 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>自分のブログで自分の体験談を語るだけなら、
>そんなに問題ないと思います
 
トラコミュに出し続けていることを問題にしています。
ブログだけなら批判して私がトラコミュに出しても
引用しても名指しはしてないから
誰に対してかは分からず
より一般的な内容になっていたかもしれません。
 
>批判するのもSTさんの自由ですから、
>それを止めるつもりはありません。
 
批判を批判するのも自由だけど・・?・・
私はコメントに自分の意見として説明をしているだけで
止めてくれとも止めないでくれとも言っていませんが
 
>お気に障りましたら謝ります。失礼しました
 
ここがいちばん余計です。
ここまでをまた記事にします。
2015/3/30(月) 午前 0:18 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年03月30日)
 
 
 
 

 
  摺り込み
 
 
教育は問いと答えで出来ているが
すり込みは結論だけを繰り返す
 
教育は思考を促進するが
すり込みは心に焼き付けるのが目的だ
 
教育は新しいものへの入門になるが
すり込みは新しいものへの門を閉ざす
 
教育は疑問を大事にするが
すり込みは疑問も反省も認めない
 
教育は新しいものに取って代わられるが
すり込みは新しいものを滅ぼす
 
教育は成長を促し
すり込みは不変をすり込む
 
聖なる御方の身になって
お伽話ふうに
見てきたかのようにその口を語る
・・聖なる御方の意思を自らが語る・・
聖なる台詞を人が作ることは
人にとって恐れ多く
とても気持ちの悪いものだから
控えるのが敬虔というものだが
そこに恐れを抱かない者は
まず子供か子供のような人に言い聞かせるのだろう
口答えされずに済むから
 
最も幼子から遠い者がそれを語る
 
話すけれど聞かない者
憎しみと執念深さを隠して
うなずく者を悦び迎え
去っていったものを気安く忘れる
 
教育は明日へ向かうが
すり込みは古代の霊界を描いて見せる
 
教育は朝を創るが
すり込みは闇を作る
 
教育は学問の勧め
すり込みは隷属の勧め
 
誰も神の実体を知らないから
答えが分からないのをいいことに
知っているふりをして
神の存在を言葉を
好きなように脚色し編集して
お伽話にして
幼子に教えるように語る
 
幼子から最も遠い者
 
 
(2015年03月29日)
 
 
 

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