ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年03月

 
  聖霊体験について
    別のブログのコメント欄より
 
 
前の「批判!しかし迷惑コメント」に書いたコメントの続きです。
相手○様の話は端折って「」でくくります。○様のレスから
 
「聖霊体験というのは、体験した人にしか分からない」
「体験した人は、それがあまりにも素晴らしいものなので、
 どうしても人に語りたくなる」「腹を立てる必要もない」
「「そうか、あなたは素晴らしい体験をしたんですね。
 よかったですね。でも、残念ながら私にはよく分からないです。」
 という感じでいいのでは」
「あえて、その体験者の体験談を批判する必要もない」
 
 
恐らく上の発言は○様だから出来るのだろうと思います。
聖三位の為さることは人には分からないということから聖霊体験や異言があるともないとも断定することは人には出来ません。聖なる体験が本物か偽物かを判断することも人にはなかなか出来ません。一般的に言えることは本物があれば必ず偽物が出てくるということです。
また体験すると、○様と違って、聖霊体験は何か特別の価値か資格が伴うものという見方がなされることが多いと思います。実際特別な体験ですから・・。そうすると体験のない人は?・・ということになり、ちょっと残念ですね、あるといいですね、がまかり通ってゆくのです。
2015/3/29(日) 午前 7:49 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
記事にも書いたことがありますが、「それが聖三位からだと何故わかる」という疑問と問いが無限に続く事柄です。また期待する心からはちょっとした気分変調を聖霊体験と断定している可能性があります。認識と記憶の段階であり得ると思います。それで聖霊に従って歩んでいるという人がいて、ならばその人は完璧で過ちを犯さないのかということになり、何よりその人の言説と態度が人から見ておかしいのに、過ちを認めない、認められない、という方向に行ってしまうでしょう。
ゆえに信仰も聖なる体験も、本物であれ偽物であれ、元々聖なる体験についての、人の側からの分別が必要だと思います。人が神からの聖を断定してしまうことの怖さは知るべきでしょう。
2015/3/29(日) 午前 7:50 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
「聖霊体験をしたから人として
 間違ったことをしないと考える必要もない」
「聖書の中にも何らかの神秘体験をした人が出てきますが、
 彼らが人間として完璧かというと決してそうではない。
 むしろ間違いだらけの欠点だらけの人物として描かれている」
「もちろん間違ってもいいと開き直るのもおかしいが、
 完璧な人間になる必要もないのではないのでは」
「本物かどうかを見分けることは誰にもできない」。
 
 
>聖霊体験をしたから人として間違ったことをしない
>と考える必要もないような気がします
 
聖霊体験者が間違うというのは聖書のどこですか・・ダビデとかのこと?・・聖書の話は神が呼べばリアルに答えてくれる話です。神が教えてくれるならこんなに考える必要もないのです。現代は沈黙する神が神義の主要な問題なのだから聖書の話では答えにならないと思いますが、では聖書に出てくる神に恵まれた人は自分の間違いに気づかされないでしょうか。
間違ってそのまま一生気づかず、正しいと思い続けるなら・・「よかったですね」とか、そういう人もいる程度のことで済ませていいのでしょうか。その体験は聖霊だから絶対化を当然とする体験なのです。したがって聖霊と一つになってとかいう言い方は、自分の敵は神の敵といったような、自己絶対化に最もつながりやすいから問題にしています。
2015/3/29(日) 午前 11:36 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
>本物かどうかを見分けることは誰にもできません
 
はい。私は「なかなか(できない)」と書きました。つまり分からないから様子を見るでは済まされない問題だと思っています。経過と結果によって、人には知るべきことがあります。
本物であれ偽物であれ聖霊体験などの直接の聖なる体験があったと言い、それに基づいて人に語り広めようとする者は、個人的体験の一般化ですから、それだけの重い責任があるのだから、現実を考慮しているか、現実に通用しているか、言っていることに齟齬はないか、自己正当化が現れていないか、等々、真偽の判断は抜きにしても問うべきことはいっぱいあります。それでも反応がなくて同じことを繰り返すなら、衝撃を与え続けるだけになるでしょう。過ちの可能性さえも自覚していないのか、ということが問われるのは当然のことだと思います。
記事にするかもしれませんが、一応この辺で。
2015/3/29(日) 午前 11:36 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年03月29日)
 
 
 
 

 
  慣性系
 
 
善いと信じたことを善いと言われれば
つまらなさそうに頷くしかない社交は
善さを伝えたつもりで実は
つまらなさを伝えているだけだ
 
伝えた風味だけで
問いがなく答えだけを繰り返すのは
実際は問いにも答えにもなっておらず
人を巻き添えにする迷惑だ
 
問いを共有しなければ
答えを共有することはない
 
人はいつも双方向を切望しているのです
 
単方向の迷惑は
それが双方向の場で行われることだ
さらに単方向の迷惑は
双方向を装うことだ
 
あらゆる迷惑は
人よりも自分が優って正しいから
発信するのは当然の使命という傲慢が
見え隠れしていることだ
 
違う意見の存在を認めて求めて
修正の懐を人は残しておくべきなのです
 
問答無用の精神の快楽欲求を
発信している単方向は
自らの悟りの自己顕示を礼賛せよと
他者に水を引っかけ
自らに油を注いでいる
 
人は心の慣性系にあって
刺激がなくて停滞することのないように
鱗だらけの生き物にならないために
出会うという運びがあるのでしょう
 
波風を立てないで
どうして動かすことが出来ようか
どうして変わることが出来ようか
どうして成長することが出来ようか
 
人は揺さぶられて初めて動くのです
 
 
(2015年03月28日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  批判!しかし迷惑コメント
 
 
 (迷惑コメントのようです。コピペして削除したのち、ここに貼りました)

実は更新の度に見てました(笑)
幾つか記事を読ませて頂いて、自然にコメントしたい!って感じちゃいました♪
私のあまり詳しくないジャンル記事もあって参考にしたいと思いました(*´艸`*)
私も書き方を参考にさせて頂いちゃおうかな♪是非、私のブログも見てみて下さいね☆削除
2015/3/19(木) 午後 3:06[ ゆうママ ]<<コメントに返信する

 
 
はじめまして。コメントありがとうございます。
クリスチャンなのですか。
この記事、自分でも相当毒々しいと思うのですが・・
 
貴ブログちょっと拝見・・バイナリ?・・二進法?
・・連鎖販売取引??・・この辺にしておきます。
2015/3/20(金) 午前 4:14 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
バイナリ=連鎖販売取引・・マルチ商法とも、ネットワークビジネスとも、
即違法とはされていないが、厳格に規制され、実質禁止に近いという。
無限連鎖講=ネズミ講に類似ともいう。
 
バイナリ(二進法の、2つの、・・)
・・倍倍?、または、2系に入れてゆく連鎖、ということか・・??
 
なんか、あゆんだもん君に似てる、
コメント内容と記事に具体的な関連がない・・
迷惑コメントと判断します。
2015/3/20(金) 午前 5:22 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
「更新の度に見てました」と書いておきながら
「幾つか記事を読ませて頂いて」というのも変ではあります・・
「バイナリ ゆうママ」で検索すると分かります。
 
 
 

 別のブログに書いた私のコメント
 
 
>神という存在に人が名前を付けることはできない方である
 
神は仮称に過ぎません。人の言葉に頼らざるを得ないからです。揶揄ではなく、こういう立派なことを書いておきながら、なぜ神の行為や意志について謙譲を示さないのでしょう。
聖霊体験、異言、などの聖なる直接体験について、あって当然のごとく言葉にするのでしょう。なぜ自分の体験を語るときに、相手が神であるのに、不確かな人の不確かな体験という自覚を持ち得ないのでしょう。
人には使命があります。神を宣べ伝えることです。しかし人には使命があります。神がどういう御方であるかを人の立場で語るとき、キリスト者は、神が人の知恵や言葉の及ばない御方であるということを一番知っているはずです。なぜ知っていながら神の行為である聖なる体験を、不確かな人の言葉に、分かる得るかのように、当たり前に、ありました、交わりました、などと人付き合いのように語ってしまうのでしょう。人が、人を求めず、聖なるものからの体験を待つようになったら信仰は神秘体験を手に取るように分かるというカルト信仰に堕してしまうことが分からないのでしょうか。
2015/3/28(土) 午前 7:35 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
この世にはそういう体験を欲しているルサンチマンがいっぱいいます。・・私にだってその傾向はあります・・。人が人として、神の民として、生きたいなら、神秘を語る口は、誰よりも重くなければならないと思います。・・不確かな経験談として、仮説として、控えめに語ることを選ぶことこそ当然だと思うのですが・・。
 
HN「ゆうママ」→バイナリ(=連鎖販売取引)という迷惑コメントが来ました。そして他のブログを見ていると、よりによって2つの批判対象ブログに来ていたのです。・・批判対象ブログ=消えちまえブログではないので・・私は向こうでどういう扱いになっている?とか思いながら・・なんで俺が・・と思いながらコメント入れました・・近況?です。失礼。
2015/3/28(土) 午前 7:36 [ st5402jp ] <<コメントに返信する
 
 
(2015年03月28日、同日一部修正)
(2015年04月02日、補足修正)
 
 
 
 

 
  喪失(4)
 
 
凍土の舌と気づきもせず
固く冷たい是非をくわえて
悦び楽しむのは昔の物語から
奇跡だけを涸(から)びた唇で啜ること
 
有頂天の山に登れるほどに
口添えは救い主から限りなくて
おびただしい豆電球の賑わいに
ここだけが世界と湯通しを忘れた
 
生まれたときには何も知らず
ずぶ濡れで縋(すが)りついてからは
液体から固体への灰色の飯場で
豆腐を凍らせる生業に目覚めたのか
 
見つけたのは生もので
保存は聞かないことを学ばずに
下顎の宝石箱に入れて
処理済みのラベルを張り続けた
 
生まれてこのかた沈黙の罪を知らない
まるで見ないが聞かないが
言うだけは言う片道切符の場末では
銀食器の密室で出来た社会も
ひたすら自分びいきの贖いも
あつらえた王様は裸
 
目も嘘をつくから
目も嘘をつかれる
見なかった分だけ見誤り
救いの弁護のための告白を忘れた
 
ずぶ濡れの告白を忘れた
選ばれたが選び損ねて
砕かれるはずの罪を忘れて
油は注(さ)したが水を忘れた
 
多くの喜劇が青ざめて去った季節にも
炭素の使命が結晶化した網膜の
スクリーンを切り裂いて
寒空の粒子を光と称えた
 
凍土の洞窟に人々は住まない
凍土に同化した生き物は
息を溶かしてまた啜りながら
箱を開けて結石を眺めている
 
 
(2015年03月28日)
 
 
 
 

 
  喪失(3)
 
 
自分が特別に持つものを
誰もが持っていてはいけないのだが
優しさの当為に迫られながら
ジレンマの吸い口を舐めている
 
武士道にも似て
想念と心中を図る熱心は
勘繰り勘繰り目覚めと就寝に
称賛のレシートに落とされてゆく
 
辛さに打ちひしがれて萎れる野草
跳ね腰を失ってなお被さるために
継続する札読みを夢想して
永久の竹林に桃源の壁を作る
 
別れを告げて背後に回り
沈黙のうちに乾燥を保持する務め
表裏の心で笑顔を固めるために
不渡りのパッションを扇子に隠す
 
讃美の涙は口角に溢れ
強酸の体液を裏打ちしながら
ピリオドの守るものが悍ましくて
いつも喘ぎながら
デッドラインにかける濁点の紙やすり
 
 
(2015年03月27日)
 
 
 
 

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