ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年03月

 
  喪失(2)
 
 
慰めの片言さえ失うだろう
呂律の解釈が生類に先立って
あらゆる力を失うように
道具という道具が既にへし折られたように
 
廃物になれば静かになるだろう
廃物に向かっても静かになってくるだろう
ボールはころころと小さく堂を巡り
振動は震えに変わって
支柱は横たわったまま
 
部屋に止まったままの勾配があり
片付けられた跡があり
しかしすべては腐っている
臭いが死んでいるのだ
 
遠くで信条が怒張しているが
人はそれを優しいと言い
指さす何ものもなく
繰り返してきた偏見を塗って楽しむだろう
 
命の公式を語る口は毛深く
あちこちに紙屑を詰めて営み
先見は獣よりも拙劣だが
あり得ない未来を鼻先で語って
酩酊の落とし前の
押し付け先を探っている
 
無謬の洗礼を自らに施し
蓄えたものは価値あるものと
吹いて回る至る所に
警告の刀剣は錆びた割礼を施し
ジュークボックスはポップな溝を踏み外す
 
テーブルの上にループが飾られ
逆さ張り付けの聖者の周りで
縫合の糸を掛けては切って
枝の使命を果たした祝宴を開いて
幼子にへつらいを教える
 
人はそのようにも
発狂する縁(よすが)を求め
二次元の格子を漁って
喪失の落差をたどるほど
動かない地上を欲していたのか
 
難を逃れた脱臼の因果律は
気づくことも気づかれることもなく
往復路しか持たない道具の口径に
持ち主を失う行程をなぞっている
 
 
(2015年03月26日、同日一部修正)
 
 
 
 

去年から批判対象としている人は相変わらず
自らの聖霊体験を絶対化して全能感に酔っているようです。
彼の言説の神と人に対する不備も齟齬もすでに明らかなのに
何とも不幸な人々を生んでゆく営みのようですが・・
今回の以下の批判対象は別の人です。
 
 
  史実と信仰
 
 
史実にこだわる信仰者がいて
 
はっきりさせないと気が済まないようで
例えば
創世記と進化論が対立したり
また
キリストの肉体を持った復活についても
いろいろ論争はあるようです。
 
私としては
そんな昔のことは分からないよ
・・で済ませていて
二千年前のことを史実として信じる信じないかで
今の自分がキリスト者であるかどうかが決まるなんて
どう考えてもおかしいと思っていますから
 
信仰は史実に依拠しない
 
と書いたことがあります。
 
 
しかしながら一方で
私たち人類の罪ということを考える上では
歴史に無関心ではいられませんから
信仰者に限らず
歴史について考えることは人として当然です。
 
そういうわけで信仰者も
歴史について語ることはあるでしょう。
 
ただしそれを信仰と結びつける場合には
かなり慎重にならなければなりません。
 
というのは
聖書はキリスト教の聖典であり
キリスト信仰の拠り所として書かれており
究極的に人の命と生き方を
神との関わりで述べている書物だからです。
 
史実を時系列で並べて書かれた歴史書とは異なり
また叙事詩のように文学として書かれたものとも異なり
また政治目的で書かれた書物とも異なるからです。
 
強いて言えば宗教目的で書かれた書物ということになります。
だから宗教的に歴史を解釈した部分が多いと思っています。
 
信仰者は
聖書の著者たちの霊感(インスピレーション)を
信仰に通じるものとして信頼することになるのですが
 
聖書と信仰によってすべての問題に答えられる
という聖書万能みたいな解説は
自分は聖書に通じているので神の意思を知っており
歴史を解き明かすことが出来る
という思い上がりから
自分信仰に至る道であると書いておきます。
 
聖書は読むとき必ず読む人によって解釈されており
しかも人は神ではないのだから
その解釈は常に不十分だという自覚が必要です。
 
私の言うことも一つの解釈ということになりますが
では納得すれば変わりうるかということでしょう。
 
私を納得させる意見があれば私は変わるでしょう。
宗教においては、なんというか・・
主張するために主張している人が多いような気がしています。
 
 
あるブログに書いてあった記事を引用します。
今日記事を書くモチーフになっています。
 
  引用(A)とします・・
「なぜ、そのような生ける神がこの世界を創造し、
 支配しておられるのに、
 この世界には不正や悪や不平等や争い、戦争があるのか
 とだれもが疑問を持ちますが、それは
 生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
 生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。」
 
神の行為を人の側で正当化しよう、
あるいは人の側で正当化できる
という作者の意思が現れているようです。
 
神義(神の正しさ)に関わる記事です。
 
まず当然湧き上がってくる批判として
  引用(A)から
何故、悪や戦争があるのか・・について
「生ける神を畏れることのない私たちの罪によってもたらされ、
 生ける神の愛による支配、裁きの正しさの確かな証拠なのです。」
では何ゆえ災いが起こったとき神は介入しなかったのか、
何ゆえ多くの人々が死ぬというのに黙って見ておられるのか。
神義の疑問はなお残ります。
 
さらに、これではまるで
「災いが起こりました。これは人の罪によるものです。
 私たちが悪いんです。だから災いが起こる。
 だから神は正しい裁きを下し、人が死ぬのを許可している。
 ゆえに神は正しい。これが神の愛だ。・・???」
と言っているようなものです。
 
大きな時代の流れを思いながら
個々の人間感情を無視していると思います。
この説明で神の正しさを理解するのは無理です。
 
このような言説で
神義を説こうというのはあまりにも乱暴です。
戦争は人の罪
・・ということは信仰者でなくても分かるでしょうが
神義を語るにはあまりにも片落ちだと申しあげます。
 
もう一つの問題として述べたいのは
犯罪と戦争については
加害者と被害者が想定されるということです。
 
戦後処理として裁判も開かれるでしょう。
その裁判が正しいという話ではありません。
個々の事例によって被害と加害が必ず複雑に絡んでくるし
個々の悲劇に目を向けなければならないということです。
それを人の罪で一括して話し終えたつもりになるのは
宗教者の愚かさと言うしかありません。
 
神義の問題は
あくまで神の絶対正義の問題です。
人の手に負えるようなものではなく
分かりやすく説明できる問題ではありません。
神の正義を人が明らかにするのは不可能だと思います。
神義を語る口は、あたかも
神の正義を自分が守るかのような思い上がりです。
 
 
ここで参考までに
言説を語る上での注意点について述べたいと思います。
 
個別のことを一般化すること
と同様に
一般的なことを個別に当てはめること
これらは両方とも不備と言わねばなりません。
 
前者は
個別には成り立っても
一般的には当てはまらないことがあるから
ということであり
後者は
個別のことには複雑な個別の事情が絡むから
見方が別になるだろうということです。
 
特に後者の場合が分かりにくいかもしれませんが
言い換えると
個別のことが全体に包含されるとは限らない
ということで
全体について一般的に言えることというのは
個別の事象の共通項を想定して言っている。
ゆえに
個別のことに一般論を当てはめるのは
共通項だけで個別をも語ることになるので乱暴
ということになります。
 
 
参考までに
若い頃に私が時々通っていた教会の老牧師は説教で
「日本の敗戦さえも偶然ではなく
 神の意思と無関係ではないのです」
という言い方に留めていました。
(引用の内容は記憶なので不正確ですが)
ひょっとして
神の意思を自分が語ることに恐れを抱いていたのではないか
とも思えます。
 
もう一つ別のブログで
上の引用とは対立する恐らく非信仰者の言葉ですが
これも不正確ながら引用すると
  引用(B)
「旧約聖書の神は大量殺戮魔」
といったような意見がありました。
 
私も昔、旧約聖書を読んでいて
「なんでこんなに殺すかな・・」と思ったことがあります。
しかしこのとき私は
「大量殺戮魔は神ではなく人です、人の戦争ですから・・」
といったようなことを書いた覚えがあります。
 
 
引用(A)(B)など以上のようなことから
むしろ私は
 
神がいて戦争がおこる、災いが起こる、
悲劇が起こる、何故?という見方ではなく
 
視点を人間に移して
人は戦争を起こし悲劇を起こす。
その不条理から逆に人は
絶対の秩序である神を求めざるを得なかったのではないか
という見方に変わっていったような気がします。
 
私たちが見るべきは神ではなく人なのです。
 
そういう目で見ていくと
神の話を書き綴った大昔の何千年かの物語に
人類の悲願のようなものを感じないではおれないのです。
 
 
(2015年03月26日、同日一部修正)
今日は時間がかかりました・・
 
 
 
 

 
  思い込み
 
 
誰でも思い込みはあるのだが
信仰は思い込みを砕く方向に進むはずだ
 
しかし思い込みの強い人は
熱心な人が多いようだ
 
だから
思い込みを強くする方向に
進んでしまう熱心が自分信仰だ
 
自分信仰をさらに特徴づけるのは
自分信仰は思い込みがあることさえ認めないこと
それが事態をさらに悪くする
 
思い込みがあることを認めておれば
神を主語にした甘すぎることも具体的なことも
確定して得々と語ることはないはずだ
語れば自らの全能を誇ることになるから
 
時々に思い込みが砕かれることこそ
信仰生活なのであって
それが神を恐れる態度だ
 
思い込みを認めない結果
思い込みが自分になってしまうと
神と一体の自分
聖霊と一体の自分などと言いだして
 
神がかりの体験や
神がかりを信仰者の至高の境地のように語っては
神がかりの中心にいる自分の支配と管理を絶対化してゆく
 
かくして
相談にも教えるのにも語るのにも
最も適さない者が
ただの人格が
絶対的唯一神の代行者として
信仰の奥義を示すかのように
神秘を明らかにするという矛盾と罪を
人に広め摺り込むようになる
 
・・神が秘められたものを
どうして人が明らかに出来ようか・・
 
 
思い込みは人の業(わざ)であり
信仰は神の業である
 
思い込みと信仰は
本来逆なのである
 
間違えてはいけない
 
思い込むのが信仰ではない
 
思い込みの世界に埋没して
自分を限定するのが信仰ではない
 
いわれなき思い込みを勧める者に注意してほしい
あまりに見てきたかのような結論だけを繰り返し語り
悟って動かないふうを装う者に注意してほしい
 
それは知り得ない真理を
教理の名のもとに知っていると見せかける者だ
最初にわきまえるべき神の絶対をわきまえない者だ
 
 
思い込みを時々に自戒し
神が思い込みを砕いてくださることを
祈り願って止まないのが信仰である
 
 
(2015年03月24日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
   守り
 
 
教会から離れたころ
手紙か何かで言われたことがある
 
「神様は守ってくださいますよ」
 
心配して言ってくれたのだろう
好意として言ってくれたのだろう
 
守りの結果に
この世的な保証は何もないが
既に知っている
 
神はその民を守る
どう守るか
自分がどうなるのか
知る由もないが
既に知っている
 
何も知らないが知っている
 
「神様は守ってくださいますよ」
 
「どのように」を知らないのだから
知っていることを重ねて言っても無意味なのだ
 
言った人の心配や好意
それに対する反応にかかわらず
 
この世から見れば無意味にしか見えないことに
あらゆる確認行為は無意味である
 
 
信仰に言葉で表せる意味はない
 
神がこの世を守るかどうかではない
神が自分を守るかどうかではない
 
神の守りは知っている
散々言われて知っているが
神の守りを知りようもない
 
既に無意味は明らかだろう
 
信仰を理屈や筋書きで固めれば
その固まりは
神も人も裏切るだろう
 
 
すべての伝道は
すべての言葉は
機会と切っ掛けに過ぎない
 
人の余計な約束と保証は
神も人も裏切って
縄を渡して縛り付けるようなものだ
 
いったい誰が人を神に導けるというのか
 
 
全知全能の絶対秩序を
この世を包み込む世界に信じた以上
自分がどう生きて死のうとも
お任せするしかない
 
それが御縁なのだ
 
神がああだからこうだから・・で
信じてはいないはずだ
 
既に聖書に触れて
キリストを信じた以上
聖書にこう書いてあるから・・ではないのだ
 
キリストを忘れることが出来ず
キリストが心から消えないなら
 
それが御縁なのだ
 
信仰によって出来ることは祈りしかない
 
祈りにタブーはない
叫び、疑問、敵意、憎しみ、殺意、あらゆる念慮・・
「なぜこんなことに・・」
先読みも解釈も全能ではない人に答えはない
 
条件付きの信仰はない
 
 
祈りと同時に込められているのは
 
結果のすべてをお任せします
わが魂を御手に委ねます
 
誰が婚礼の席に理屈を持ち込むだろうか
 
 
(2015年03月24日)
 
(批判)
 
>忠実であることなのだそうです。管理者に求められるのは
 
これはタイトルのようですが・・
自分が忠実であるとどうしてわかるのでしょう。
彼は自分が常に神に忠実だと言っているようです。
それによって不備にも罪にも気づかなくなっているようです。
クリスチャンが自分の罪について鈍感~無視の姿勢になってどうするのでしょう。
危惧というより危険だと思います。さらに・・
 
>管理者に必要なことは、単に仕事熱心とか勤勉ということだけでなく、
>主人の思い、願いのとおりを実現することが大事なことなのだそうです。
 
>主人の心を知っていること、
>そして主人の思いが実現することを願う心が必要だということなのでしょうね。
 
彼は
主人=神の思い通りを実現するのだそうです
 
しかも神の心を知っているのだそうです。
 
預言者か・・ってことです。
 
またしても彼は
自分の全能性を誇っているようです。
 
彼は神を
近所のおっさんのように見なしているようです。
だから分かる・・ということになるのでしょう。
しかし近くにいる人間だって
理解の及ばないことはたくさんあるというのに・・
 
どう考えてもこれはキリスト信仰とは思えないのですが・・
 
(2015年03月24日、追加)
 
 
 
 

 
  喪失
 
 
形を守る皮膚がなくなって
肌の名残りは
剥き出しの毛細管からの
冷めた蒸発に任されている
 
命ある間は
出血しても
命ある間は
 
黒がチカチカして
暗点が網目になって
部屋はぼやけて
見るものは皆揺れている
 
部屋にいる無数の瞳に
見られているようで
しばらく見つめ合う
とどまらない形に
明滅するように
 
脚の運びが遅くて
下腿の屈伸挙上が
鈍重な人工のリフト
金属パイプの乾いた擦過
錆の花粉がキラキラ舞う
 
音が時を掠め取って
不意に必然の足元に
刑場の張力を引きながら
黒を無色と慰めている
拡散する直角に囲まれて
 
 
(2015年03月2?日)
久しぶりに詩のようなものを書いて
下手だという言い訳はしたくないけど
詩を書くのに大切なのは
正直さなのだろうと思って
つまり気持ちを表現しようとして
通念的では表せない正直さへ
すっ飛びたいのだが
本当の正直さを見出すのは至難の業だと
いつも痛感する。詩の書き方さえ
忘れてしまったか・・(苦、嘆)
結局伝わらなきゃ自慰行為か自己憐憫か
またいつものように
せいぜい鬱屈した感情の発散になったら
それでミッション終了か・・
 
 
 
 

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