ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年04月

 
  発言
 
・・彼が言ったこと・・私の記事から・・
 
 
「神がかり」
2015/1/14(水) 午前 4:02
 
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17210555.html
  
>私たち人間に話しかけられる方なのですね。
>天の神、主と呼ばれる方は。
>この語りかけに対して、
>私たちの側で大事なことは聞こうとする心なのでしょうか
 
「聞きます、お話しください」と言ったら
神は話してくれるのでしょうか。
どう聞こうとすれば聞けるのか。
それとも自分には聞こえると言いたいのか・・
 
神が声をかけてくれるのは預言者だからでしょう。
 
>このサムエルのように言いたいですね。
>「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と。
 
サムエルのように言ってはいけません。
私たちは預言者ではないのですから。
神の声を直接聞けるなどと信じてはいけないと思います。
 
人に信仰を語るのに
神がかりの期待をさせるのは
・・どうも本気で
 神の声が聞けると思っているらしい・・
自分を預言者だと思っているのか。
まるで説得力がないというのに・・
 
 
「神の子」
2015/1/11(日) 午前 5:12
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17201669.html
 
>この地上の生涯を神の子の立場で歩ませて下さり
 
 
「共感」
2015/1/9(金) 午前 4:31
http://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/17196068.html
 
>生れたときからの私自身である霊は、処刑済みの扱いになっていて、
>新たに、聖である霊と呼ばれる方が私たちのうちに来て下さって、
>この方の思いが私の心に私の思いとして浮かんでくる。
 
「私の思い」は聖霊の思いだから
絶対に正しいと言いたいのでしょうか。
自己正当化の極みでしょう。
・・だんだんモンスターに思えてくる・・
 
 

 
預言者と同じ立場で神の声を聞き、
終末や天国ではなく生きている間に
神の子の立場で歩み、
聖霊の思いが自分の思いとして浮かんでくる
など、他にもあると思いますが、・・
 
彼はこれらを訂正していません。
恐らく訂正しないと思います。
彼はこれらを神の意思だと信じているから。
 
 
(2015年04月27日)
この記事は
これからも必要なときに再録してゆくつもりです。
 
 
 
 

 
  主の中で・・
 
 
3:12
わたしがすでにそれを得たとか、
すでに完全な者になっているとか言うのではなく、
ただ捕えようとして追い求めているのである。
そうするのは、
キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13
兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。
ただこの一事を努めている。
すなわち、後のものを忘れ、
前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14
目標を目ざして走り、
キリスト・イエスにおいて
上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15
だから、わたしたちの中で全き人たちは、
そのように考えるべきである。しかし、
あなたがたが違った考えを持っているなら、
神はそのことも示して下さるであろう。
 
12節はパウロの信仰と敬虔の表明のようです。
13節は求める姿勢のようです。
  12節あっての13節だと思います。
  この違いは大きいです。
14節は賞与とは恩恵または栄光のことでしょうか。
15節、さて、
  今までの彼の記事から
  神の意思を知っているという彼は
  「全き人」と言われたら
  「はい」と手を挙げそうです。
  パウロでさえ
  神は違った考えも示してくださると書いているのに
  彼は違った考えの入る余地を持ちません。
 
>使徒パウロも、信仰と事実との関係について、
>あの方が「こうした」とおっしゃるから、
 
聖書の言葉を文字通り受け取る
という彼の信仰のあり方のようですが
実際は聖書の言葉を都合よく受け取る
という信仰だということを今まで書いてきました。
彼にとって御言葉絶対は自分絶対に結び付きます。
 
>そのお言葉に信頼して、
>そうなっていると受け取っているけれど、
 
彼は
彼の信仰のあり方を
一見支持するかのように見える言葉だけを選んで
信頼というより信仰しているだけなのです。
 
>事実はこれから起こることなので、
>それを得るよう、
>その事実に向かって身をのばして
>走っているのだと言っているようですね。
 
パウロが言っているのであって
私たちがいつもそう思ってよいということではありません。
 
>私たちも、
>今、なっているかどうかに気を取られて立ち止まりがちなのですが、
>なっていない自分を認めて、
 
一見自分の不全を認めているように見えますが
神がまだ成就していないことを「なっていない自分」に
すり替えて使っていると言わざるを得ないでしょう。
前にも似たようなすり替えを彼は行っています。
不全を認めるどころか
これでは自分がなっていないのは神のせい
と言っているようなものでしょう。
 
いつ成就するかを書けと言っているのではありません。
いつ成就するのか人には分からない
ということを認めるべきなのです。
神に対する恐れと敬虔によって
人間としての不全を認めるべきなのです。
しかし彼はそのことについて書こうとしません。
 
>ただ、うしろのものを忘れて、
 
無視して見ようとせず
あるいは見て無視してゆけば
後ろのものとして忘れるというより
すべて覚えることを拒否しているのです。
これからも自分の意志によって限りなく
無視し続けて忘れ続けるつもりでしょう。
 
>ひたすら、前に向かって身をのばし、
>その事実が自分の身の現実となるようにと
>主に求めていくことのようですね。
>今日も。
 
今までの記事の流れと
以上に述べたことから
彼が書けば書くほど明らかになってきて
書けば書くほど明らかになってゆくこととして
 
ひたすら他者の言うことをすべて無視し続けて
自分の言説の中の事実どおりになることを求めると
彼は自分の筋書き信仰を宣言している
と言わざるを得ません。
 
 
(2015年04月27日)
 
 
 
 

 
  復讐
 
 
復讐について少し聖書を検索してみました。
 
 (エレミヤ書/ 11章 20節、旧約聖書)
万軍の主よ/人のはらわたと心を究め/
正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください/
あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしは訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
 
 (ローマ人への手紙/ 12章 19節、新約聖書)
愛する者たちよ。
自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。
なぜなら、
「主が言われる。復讐はわたしのすることである。
わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
 
 (ヘブル人への手紙/ 10章 30節、新約聖書)
「復讐はわたしのすることである。
わたし自身が報復する」と言われ、
また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、
わたしたちは知っている。
 
 (シラ書〔集会の書〕/ 28章 01節)
復讐する者は、主から復讐を受ける。
主はその罪を決して忘れることはない。
※ 
『シラ書』は、
ユダヤ教とプロテスタント諸派では外典として扱われ、
カトリック教会と正教会では旧約聖書に
含めている書物のうちひとつ。
『集会の書』もしくは『ベン・シラの知恵』とも呼ばれる。
タイトルは著者のベン・シラ(シラの息子の意)に由来。
  ウィキペディア Wikipedia より
 
 
旧約聖書では
イスラエルによる異民族に対する復讐は大方
神の意思によるものとして書かれているので
・・ひょっとしたら、そこから
復讐は神のもの、神に任せよ、が生まれたのかもしれません。
でもその辺を明らかにすることは学者の仕事なのでしょう。
・・正直言って私は、こういうことには詳しくありません。
 
ただ申し上げたいのは
何十年も聖書を研究してきた人の信仰と
今日、聖書の一行を読んで祈り、
信仰者となった人の信仰と
知識において差があっても
断じて信仰に優劣はないということです。
 
 
私怨によるのではなく
「復讐は神に任せよ」が聖句となるのは
人が自分の裁きを
神に委ねるという前提があるときだけです。
 
自分は正しいから
この世で守られたのち天国に行き
誰かのことを神の敵だから神が復讐する
などということを言うための聖句ではありません。
 
自分を絶対正義の位置において
誰かを滅ぼすための聖句ではないのです。
 
絶対正義の位置に立てる人は一人もいません。
 
それが人間の共感であるべきなのですが
現実にはそうなっていないのが現状で
 
その現状さえ知らない者が多いということです。
 
 
(2015年04月27日)
 
 
 
 

 
  新しく・・(2)
 
 
彼なら言うだろうということを言っています。
 
>一人の人アダムの離反によって罪が世界に入り
 
聖書の物語をそのまま歴史と現実に当てはめて
人の罪をアダム一人が悪かったからだと決めつけています。
 
私の見る限り
彼は今まで自分の罪を認めたことがありません。
そういう人間の本質についての鈍感さなら
上のような責任転嫁の判断は軽くしてしまうということです。
 
>天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑によって、
>私たちのからだを
>きれいに掃除された家のようにして下さったのだそうですが、
>空家として放置することはなされないで、
 
さてキリストの十字架刑によって
私たちはきれいに掃除されているでしょうか。
そして比喩的に空家と呼んでいいのでしょうか。
 
彼は生きている人間の現在進行形を認めないようです。
とても単純な人間理解に立っているようです。
 
私たちは掃除されてきれいでしょうか。
私たちは空家のように空っぽなのでしょうか。
罪は昔の話なのでしょうか。
 
>聖である霊と呼ばれる方を送って下さって、
>この方が住まわれるところ、神殿として下さり、
 
送られた人が神殿になるという意味でしょうか。
自らを振り返り神殿に相応しいかどうかを
人間として考えない人の発言だと思います。
 
>この方が心に書き記して下さる御思いによって行動するという新しい生き方を
>私たちの内に新創造して下さるのだそうです。
 
>それで、私たちの内に律法の要求が全うされることになるのだそうですね。
>今日も。
 
いつものように聖霊による大安心説を唱えているようです。
毎日「今日も」を繰り返せば結局いつもと言うことになります。
 
現在進行形をすべて完了形にしてしまうと
こういう話になるのでしょう。
 
 
(2015年04月26日)
 
 
  新しく・・ (再録)
 
 
習い覚えた言葉と概念に
囚われていることに対峙しようと思っても
やはり言葉でしか語っていない。
 
むしろ言葉とその先入観にまみれて書くのです
・・とでも自覚しておかないと
何も言えないし書けない。
 
何か独立した論理や感性があって
スーパーバイザーのように表現しようとすればするほど
ますます言葉の深みにはまってゆくようだ。
 
人が言葉と既成の概念をすっ飛んで超えることは出来ないが
新しい言葉の期待は関係というものに寄せられる。
 
言葉の新しい関係つまり結びつきはポエムの仕事かもしれない。
しかし比喩や逆説や飛躍など
詩的な文章に広げるとポエムに限ったことではないだろう。
 
言葉の新しい関係は
人の関係に他ならない。
 
同じ人同士においてさえ
関係に既得はあり得ない。
 
人間はいつまでも未熟なので
新しい関係を求めずにはおれないからだ。
 
 
(2014年03月16日)
 
 
新鮮さを求めず人間性を考えない信仰・・
 
完了形だけで賛美され
進行形のない信仰・・
 
使徒たちは予想したでしょうか。
新約から二千年を経て
信仰が有頂天話の創世記になっていること・・
 
 
(2015年04月26日)
 
 
 
 

 
  非合理(1)
 
 
神を人の思いで分かろうとする者は
自分の経験の中に神を見つけようとする
 
やはり神はおられたと
 
その先に待っていることは
一つは
救いが来るのを待っても
待っても来ないとき
「来なかったじゃないか」と
信仰を捨ててしまうこと
もう一つは
どんなことが起こっても起こらなくても
「あれはこうで、だからこうなって・・なのです」
と神の意思を自分で組み立てること
 
どちらもキリスト信仰ではない
 
しかしそういう信仰が信仰である間は
自分を省みること少なく
一方で神を賛美すること大であり
さらに人に伝えようとすること執拗である
 
信仰によって神の意思を知ることは出来ない
 
ゆえに信仰によって
人の運びを神意によって解釈することも出来ない
 
信仰によって神の意思を知ることは出来ない
 
神の意思を知ることは出来ないことを
知ることが信仰だからだ
 
 
  非合理(2)
 
 
切りのない思い込みに
ひとつひとつ否定を渡す
 
切りもなく思い込みに重ねる思い込みに
ひとつひとつ否定を渡す
 
受け取ろうとしない傲慢に
ひとつひとつ否定を渡す
 
さていかなる肯定を渡すことが出来ようか
 
頭の中の人の合理の柵のリスクは
動くことを禁じるが
解き放たれた非合理のリスクは
動くことを勧めるということだ
 
動かない者は満ち足りた所で
もうその先を望まないが
 
動く者ほど
神の救いを本気で求めるということだ
 
 
(2015年04月25日)
 
 
 
 

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