ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年05月

 
  天の神、・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(26)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 天の神、主をわが力として
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16750249.html
 
 
お仲間の記事転載を得て
意気が揚がったのか、今日の彼は長めに
・・今までと同じことを書いています。
ひとかけらの成長を含めて
いかなる変化もあってはならない
というのが彼の主張のようですが
 
それをひとつひとつ否定してゆくのが
私の役割になっている日々のようです。
 
 
>高ぶりのせい自分の力により頼む者になり、今は、
>この方のもとから迷い出てしまって、栄光を失い、
>この身体も土の器のようになり、
 
「土の器」というのは
信仰を受ける器として
神に対する人を表す比喩として使われる言葉ですが
彼には
彼と同じ信仰に目覚める前の単なる
ぼろくそ人間の表現として使われているようです。
 
そしていつものように
彼の救いの筋書きを繰り返しています。
わずか数行で表せる彼の信仰です。
抜き書きして書いてみますと・・
 
>十字架刑で処刑
>罪の処刑が終っているものと手続き
>罪の処罰を終えた上で
>私たち一人ひとりに
>御思いを置いて下さって、
>私たちが、私たち一人ひとりの部分において、
>主と思いを一つにしながら生きるようにして下さる
 
このように・・
 
彼は前には
「聖霊(神)と一つ思い」と書いていましたが
最近になって上のように
「一人ひとりの部分において神と思いを一つにして」
と書いています。
彼は自分の言説に合うように
神と聖霊の言動を作り変えたようです。
人が聖三位を作り変える・・
彼の夢想の登場人物に過ぎないから出来ることでしょう。
・・部分という曖昧な言葉を添える言い逃れ・・
 
そもそも聖三位の言動を知り得る
という考えからして間違っているのです。
 
 
>風は思いのままに吹き、私たちはその音を聞くけれども、
>それがどこから来てどこへ行くかしらないように、
>聖である霊と呼ばれる方によって新しく生まれる者も、
>そのようなのだそうです(ヨハネ3:8)。
 
どこから来てどこへ行くら知らない
という未知で溢れる可能性に満ちた信仰の世界なのですが
 
どこから来てどこへ行くか知らない
と言いながら
それを上のように数行の筋書きにして
繰り返しているのが彼なのです。
彼には何の疑問も謎もありません。
すべては事実系列として既知で固定している
という彼の立場です。
信仰の奥義も神秘もあったものではないのが彼です。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:5
イエスは答えられた、
「よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と霊とから生れなければ、
神の国にはいることはできない。
3:6
肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7
あなたがたは新しく生れなければならないと、
わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、
どこへ行くかは知らない。
霊から生れる者もみな、それと同じである」。
 (ヨハネ書3:5-8、新約聖書)
 
それまでのように
この世に合わせた生き方ではなく
生まれ変わったように新しくなるのだと
聖書は教えていますが、
 
どこから来てどこへ行くか知らない
という未知で溢れる可能性に満ちた信仰の世界なのですが
 
彼の成長は信仰を得た時点で止まっている
ということを彼の記事は表してきました。
 
どのような変化や成長があってもおかしくない
という信仰の可能性は
彼には最も忌み嫌うものとして神の敵になってしまうのです。
 
>主イエスと共によみがえらせてくださり、共に、
>天の神、主の栄光の御座の前に立たせて下さるのだそうですから。
 
このように人が神の御座に立つ
というとんでもないことを
吹聴して回るのが彼の伝道なのです。
 
>この望み、この永遠の世界につながる新しい生き方で、
>この方を我が力として生きるように、と
>天の神、主は仰っておられるようですね。 
>この新しい週も。
 
この方を我が力として生きる
という生き方は、彼に言わせると、
神の力の使い方を彼が知っているかのような
言い方になります。
 
神を恐れるということを
何も知らないでいると
信仰は成長の可能性を失い
もう完成して何も変わらず新しくもないものを
新しい生き方と言って満悦してしまうようになります。
 
 
今日の「ローズンゲン日々の聖句」
 
わたしの主なる神は、わが力。
ハバクク書3章19節
 
 これだけでは信仰者にとって当たり前すぎて
 その分、どう受け取ったら良いのか、迷います。
 これだけで感動して十分だという人は
 考えない人でしょう。
 
 日々の聖句は考えることを人に勧めているのに・・
 
だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16節
 
 
ハバクク書のほうの
近いところの聖句を引用してみます。
 
 (ハバクク書、口語訳)
3:2主よ、わたしはあなたのことを聞きました。
主よ、わたしはあなたのみわざを見て恐れます。
この年のうちにこれを新たにし、
この年のうちにこれを知らせてください。
怒る時にもあわれみを思いおこしてください。
 (ハバクク3:2、旧約聖書)
 
神が怒るときのことを承知していて
その上で考え、恐れを知り、そして祈り
憐れみを乞うていることを覚えてください。
 
聖句は
神の御業を知らない人間である
ということを考えた上で
それゆえ神の運びに期待することを教えています。
 
 
 (コリント人への第2の手紙、口語訳)
4:16
だから、わたしたちは落胆しない。
たといわたしたちの外なる人は滅びても、
内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、
永遠の重い栄光を、
あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18
わたしたちは、見えるものにではなく、
見えないものに目を注ぐ。
見えるものは一時的であり、
見えないものは永遠につづくのである。
 (2コリント4:16-18、新約聖書)
 
17節の軽い艱難が
一般的な意味で軽いとは思えません。
16節の
「外なる人は滅びても、
 内なる人は日ごとに新しくされていく」
に表れているでしょう。
18節は印象深い聖句です。
 
見えないものを見えるものにしてしまって
分かると言ってしまう信仰は一時的なのです。
過ぎ去ってしまえば何も残らないのです。
 
見えないもの、分からない余地を十分に持つ信仰のみが
「永遠」と名付けられた賜物につながってゆくのでしょう。
 
 
彼のように
自分で変わらないと決めつけてしまった者は
違う意見を向けられても対応できないので
誤りを認めることもなく無視して
自分には神が付いているのだと
自分で神を決めつけることに縋りつくしかなく
同じことを呪文のように繰り返すしかないのです。
 
工事途中で放置されたままのセメントを
宝石のように見せびらかして
受け入れられないと神の敵として呪うしかなくなります。
 
そうやって万能感と敵意に浸るのみで
もはや未知への憧れも持てずに
これから何が起こるだろう
というワクワク感もない常同の世界を
ピストンのように往復するしかないのでしょう。
 
地道に・・というのとは
大きく異なる剥げやすいペンキの薄い塗料の世界を
日々の聖句ではなく
日々の自説の確認行為によって
自分が頷き
人を頷かせる手練手管だけが命になってゆくような
地衣類の化石のような自作の日々の冗句を吐いて
過ごしてゆく日々に自己満足以外の
いかなる憧れを自らの執念に当てはめてゆくのでしょう。
 
 
人間は生きている限り
意識的にも無意識的にも変わりゆく動態の中で
アクティブに芽も花も実も求めてゆくものなのですが・・
 
 
(2015年05月31日、同日一部修正)
(2015年06月02日、一部修正)
 
 
 
 

 
  禁忌
 
 
前に
人の敵ならば情けをかけることもあるが
神の敵なら殺すことが信仰になってしまう
ということを書いた
 
今回は
浅薄なヒューマニズムと言われるものと
思い込み信仰を比べてみる
 
信仰はヒューマニズムではない
と力説する人がいる
 
違うということは私も分かるのだが
 
人殺しはヒューマニズムを捨てないと起こらない
 
実際にヒューマニズムはたやすく捨てられる
しかしそれなら
人殺しはヒューマニズムのせいではない
 
思い込み信仰を捨てることが困難になれば
最悪の場合として
思い込み信仰の人殺しはあり得る
それは明らかに思い込み信仰のせいである
 
思い込み信仰は
神の絶対性を
見かけだけ礼賛する平和ボケの道化師であって
キリスト教執念派とでも呼ばれるべきだ
 
思い込み信仰が訂正不能になるくらいなら
まだ浅薄なヒューマニズムのほうがマシなのだ
 
そして信仰は一歩間違えると
思い込みを訂正不能にする信仰だ
 
キリスト者は宗教の本質を
「やさしく」軽く見ている
 
信仰はその始まりにおいて試されている
 
人の思い込みを信じるか
人の思い込みを自覚して訂正可能にするか
 
宗教そして信仰は
直観的でも教理的でも
訂正禁忌とした時点で救われない
 
訂正する必要のない不変の正しい信仰を
見出した人間はいないから
宗教が救われるための命題は
確定禁忌なのである
 
変化と成長を促すための過程として
確定禁忌は宗教的タブー禁忌であり
文字通り禁忌禁忌である
 
それは罪の自覚の共有と共感なしにはあり得ない
 
 
(2015年05月30日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  罪に
 
 
罪に定める・・と言う問題について
聖書を引用したいと思います。
 
 
前にも引用しましたが
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:34
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。
キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、
神の右に座し、
また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
 (ローマ8:34、新約聖書)
 
これは少なくとも
罪はないから無罪のために
キリストが弁護してくれる
というような単純な意味ではありません。
 
一つは
罪深い人が罪深い人を罪に定めることは出来ない
ということではないかと思います。
ある言動を罪ではないかと指摘することは出来るでしょう。
しかし、お前は罪を犯したから悔い改めなさいと
言ってしまうと罪の決めつけになってしまい
裁くことになってしまいます。
 
人を罪に定め裁くのは神だけです。
 
人が人を裁くというのは
人が人の罪を指摘するにとどまらず
人が神の立場で
人の言動を罪だと断定し
神の裁きを当て付けることです。
(今はそこまで行っていませんが
 何かの強制力を発動した場合が最悪となります)
 
 
最後の晩餐の話をしたあとパウロは・・
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
11:26
だから、あなたがたは、このパンを食し、
この杯を飲むごとに、それによって、
主がこられる時に至るまで、
主の死を告げ知らせるのである。
11:27
だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、
主のからだと血とを犯すのである。
11:28
だれでもまず自分を吟味し、
それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29
主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、
その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30
あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、
また眠った者も少なくないのは、そのためである。
11:31
しかし、自分をよくわきまえておくならば、
わたしたちはさばかれることはないであろう。
11:32
しかし、さばかれるとすれば、それは、
この世と共に罪に定められないために、
主の懲らしめを受けることなのである。
11:33
それだから、兄弟たちよ。
食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
11:34
もし空腹であったら、
さばきを受けに集まることにならないため、
家で食べるがよい。そのほかの事は、
わたしが行った時に、定めることにしよう。
 (1コリント11:26-34、新約聖書)
 
27~29節
相応しくないままでパンをたべることのないように、
即ち裁きを招くことのないように、
人の務めとして「自分を吟味」するようにとの戒めです。
 
考えないことが信仰でないことは明らかです。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
7:23
わたしの肢体には別の律法があって、
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、
そして、肢体に存在する罪の法則の中に、
わたしをとりこにしているのを見る。
7:24
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。
だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
7:25
わたしたちの主イエス・キリストによって、
神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、
心では神の律法に仕えているが、
肉では罪の律法に仕えているのである。
 (ローマ7:23-25)
8:1
こういうわけで、
今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、
罪と死との法則からあなたを解放したからである。
8:3
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、
神はなし遂げて下さった。すなわち、
御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、
肉において罪を罰せられたのである。
8:4
これは律法の要求が、
肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、
満たされるためである。
8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、
霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6
肉の思いは死であるが、
霊の思いは、いのちと平安とである。
 (ローマ8:1-6、新約聖書)
 
死に向かう肉の思いは
人間である限り消えることはありません。
肉により無力になっている人間を
生かすためにキリストの赦しと救いがあるのです。
 
ゆえに
肉によらず霊によって満たされるため
という人生と終末への目的が語られているのです。
 
一番いけないのは
神の世界は真善美に満たされているからと
人が神の真善美を真似ようとすること、
さらに、
真似て神と同じようになることが出来ると考えてしまうことです。
これは最大級の神に対する罪だと思います。
 
人が人に惚れるのとは違うのですから。
 
人は人の真善美を求めるべきです。
 
言うまでもないことですが
神がかりは神ではありません。
 
霊の思いで命と平安を得たつもりで
神がかりは神がかった肉の思いを霊の思いと勘違いして
平安を上辺だけ真似る行為なのです。
 
 
(2015年05月30日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  イエスは、・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(25)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 イエスは、かわいそうに思って、
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16747668.html
 
 
>町を、国を、その背きとかたくなさのゆえに打たれることがあるけれど、
>同時に、回復の約束もしていて下さる方
>(エレミヤ49:6、39。
 
背けば懲らしめるが
従えば救う望みを残す
という神の裁きは聖書によく見られます。
 
彼は彼の
人間をぼろくそに言った後で
救いのメッセージらしきものを書く
という書き方を正当化したいのでしょうか。
神を見習っているつもりなのでしょうか。
・・神を見習えると思うことが怖い・・
 
彼のように聖書の解釈からの
訂正不能の筋書きにこだわるだけになると
また聖書のあちこちから
都合の良い材料を持ち出してきて
人も現実も見ない、考えないで、
神ではなく自説に縋りつくしかなくなるのでしょう。
・・世の中、そんなに単純じゃない
    とは誰でも思うことでしょう・・
 
 
マタイ20:34、ルカ7:13
キリストの奇跡物語です。
否定はしませんが、
今でも分かりやすく起こればキリスト教は
彼が今まで言ってきたような
とても単純な宗教になっていたでしょう。
 
そうなってはいないところに
何故?・・という問いを持ち得ないならば
単純でない信仰を、
強引に単純にしてしまうことになるでしょう。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
10:1
そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、
汚れた霊を追い出し、
あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
 (マタイ書10:1、新約聖書)
 
使徒を遣わすときのキリストの言葉ですが
ここを引用して彼は何を言いたいのでしょうか。
二千年前と同じことが起こっているとでも言いたいのでしょうか。
 
それとも自分のことを
使徒と同じで
権威が与えられていると言いたいのでしょうか。
 
 
>「かわいそうに思って」病気を癒して下さったイエス
 
神もキリストも彼にかかると
会話や台詞で心を表せるような
コミックのヒーローのようなものになって
彼にとって都合の良い味方になってしまうようです。
 
キリストの奇跡が聖書に載っていること、
キリストが今は目に見える御方としておられないこと、
こういうことに言及しないで
良さそうなことばかり書くのも彼の特徴ではありますが・・
 
全く起こらないとは言いませんが、
奇跡が今も
起こるとか、起こっているとか、起こるだろうとか、
大昔と同じように考え言い広めることが伝道だという考え方は
信仰の最も大切なことを見失わせて
キリスト教を奇跡信仰の御利益宗教にしてしまう
ということが分からないのでしょうか。
 
 
最後に彼はまたいつもの
聖霊が同じ思いを置いて働かせる
という自説を繰り返してから
 
>ありとあらゆる病をいやして下さいますように。
>今日も。
 
この祈りのような結びは
いつもながら
目の前に神も聖霊もいる
という彼が信仰と呼ぶ信念の頑強さによって
神と聖霊を
彼のフィクションの登場人物にしてしまっています。
・・現実離れした空しい響きです・・
 
私たちは宗教ホラーや魔術を求めるわけではないのだから
肉体や物に起こる奇跡よりも
比べものにならないくらい偉大な
魂に起こる奇跡を求め待ち望みます。
 
 
(2015年05月30日、同日一部修正)
 
彼のお仲間が彼の記事を転載しているようです。
力攻めに来るかどうか見ています。
例えば本人も含めて10人が同じ記事をトラコミュに投稿すれば
合計100個の同じ記事がトラコミュに並ぶことになります。
私は一人で書き続けます。以上。
 
 
 
 

 
  やっかみ
 
 
聖書の絶対の神は
人が抱く概念もイメージも届かない御方であり
短い文章で
いや長い文章でも
表すことなど出来ない御方です。
 
つまり神を
とても分かりやすい人格のように
少し目上の友だちとして交わることも
付き合うことも出来ないのです。
 
神に対して
出来ないことをしてはならないと思います。
 
ルサンチマン
(弱者に募る怨念、負け犬根性、やっかみ・・)
は多くの人が持っているものですが
 
自分の恨みに満ちた主観を
神の愛が自分に向いていることから
強化し聖化しそうになることがあります。
 
しかし考え続けることによって
人そして自分の罪と対峙することで
自分の主観を相対的に且つ冷静に
見ようとするようになるのです。
 

そのために信仰は与えられるのだろう
と思うことがあります。
 
信仰は恨み返しの成就ではありません。
 
 
一方で
疑わないことが信仰だと決めつけて
考え続けることを捨ててしまうと
信仰を貫くことが
自己正当化と絶対化を貫くことになってしまうでしょう。
 
 
(2015年05月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

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