ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

2015年05月

 
  栄光を・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(24)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 栄光を共にしたいのだそうです。私たちと、この方。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16746048.html
 
 
今日の彼は典型的な
脅し文句+ぼろくその後の安い救いのメッセージ
という書き方です。
彼にとっては定型というか
こういう書き方しか出来ないのでしょう。
自分を人よりも高みに置いた書き方が分かると思います。
 
>神がこの支えの御手をちょっとゆるめるなら、
>地球はどうなってしまうか分からず、
>私たちの身体がどう変調してしまうか分からず、
>私たちの理性もどうなってしまうか分からないのですね。
 
彼の言うことを聞かないと大変なことになりますよ
という脅し文句です・・ふつうはこういう言い方はしません。
 
>理性がちゃんと働いているのは、
>この、神の支えがあるからなのだそうです。
 
いつもは理性を諸悪の根源のように言っていましたが
今日は、こういう言い方をしています。
理性を必要と思っているのかどうか、
理性をどう思っているのか、主張が不明です。
 
>すべてのものは神に向かい、神に帰って行くのだそうです
 
こんなことはクリスチャンなら誰もが認めていることなのです。
・・のだそうです・・と
今さら何か特別なことを言ったつもりなのでしょうか。
 
 (イザヤ書、口語訳)
6:5
その時わたしは言った、
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。
わたしは汚れたくちびるの者で、
汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、
わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、
祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、
わたしのところに飛んできて、
6:7
わたしの口に触れて言った、
「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8
わたしはまた主の言われる声を聞いた、
「わたしはだれをつかわそうか。
だれがわれわれのために行くだろうか」。
その時わたしは言った、
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
6:9
主は言われた、
「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、
しかしわかってはならない』と。
6:10
あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。
 (イザヤ6:5-10、旧約聖書)
 
5節
預言者でも神を見たことを恐れています。
 
神を恐れず、友達のように仲良しだ
という言説がいかに傲慢であるかを示しています。
人はもし神の前に出たら
誰一人として平気ではいられません。
 
そして預言者は天使セラピムに促されて
神の厳しい命令に従うのです。
 
>私たち人間のすべても、一人ひとり、
>この方の前に出るときが来るのだそうですね
 
自分は大丈夫で大安心だが
お前たちはどうだ
というカルト的脅し文句です。
 
彼はやたら讃美して
こんな良いことがあるよと誘うこと以外には
こういう言い方しかできないようです。
現実を考えない者は体質として染みついて
こうなってゆくのでしょう。
 
>自分の責任を自分で負う立場でこの方の前に出、
>私の行動、思いのすべてが明らかにされるのであれば、
>それは怖ろしい時になるのかもしれません。
 
またさらに脅し文句を重ねて・・
 
>けれども、イエスによる救い、
>贖(あがな)いをいただいているなら、
>イエスが私の責任の全部を負って下さって弁護して下さる
 
ぼろくそに言った後の救いのメッセージ
いつもの彼の書き方です。
極めて単純なやり口だと思います。
こういうのを高が知れるとか底が知れているとか
というのではないでしょうか。
彼はこれで伝道の言葉になっているつもりなのです。
そして自分の未熟も罪も認めないのです。
そして今まで批判に対しては
聖句を利用して神の復讐などの
恨みの当てつけをするだけなのです。
 
>私たちと共にしたいのだそうです。 
 
神の栄光のことを言っています。
神がかりの彼はこういう言い方をします。
 
>この方のその御思いについて行ってみたいですね。
>今日も。
 
どうしても今の罪を認めず
仰ぐ姿勢を持たず
神と並んで栄光に包まれたい彼らしい記事でした。
 
そして彼は
今日も神の思いについて行く、
あるいはついて行けると思っているのです。 
 
私は
栄光は神に
赦しと救いを私たちに
と言いたいです。
 
 
(2015年05月29日、同日一部修正)
 
 
 
 

 
  実践・ウソの国
 
 
真と善は至高であり
その意味で一つだろう
 
至高を直接求めるのは
神を求めるのに似て難しい
 
偽と悪は
人の世界に溢れていて
人を見つけるのに似て
比較的に容易だ
 
真を見つけることは
偽を見分けること
善を見つけることは
悪を見分けること
 
美は真や善と少し違う
美が醜になったり見えたり
醜が美になったり見えたり
美はより複雑なのに
より直感的で直観的だ
 
いずれも普段の不断の志向と嗜好だ
 
ウソの国の住人は
虚実の虚を見ることが圧倒的に多く
ウソを見つけては嘆息してマコトに憧れる
 
 
(2015年05月28日、同日一部修正)
・・ちょっと気取ってみたような?・・
最終行が乾いた感じになったので「嘆息して」を挿入・・
 
 
 
 

 
  その方と一緒に・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(23)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 その方と一緒にいるようにして下さるのですね。いつも、いつまでも。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16743456.html
 
 
私は
彼の記事の中の
どう考えてもおかしいところ、
矛盾、破綻、詭弁、誤魔化し、言い逃れ、
などについて、気が付く範囲で、書いてきました。
それぞれの表現にはインパクトが必要なので
手加減したのでは批判にならないのです。
 
彼は
一度も納得のいく弁明をしたことがありません。
そして弁明も説明も出来ないときに彼は
聖書を引用して神の復讐を語り
そして今日は
神は絶対自分に味方してくれる
という無反省の確信を叫んでいます。
 
自分を叱って戒めてくださる神を信じていないと
こういうことになる
ということを覚えてほしいと思います。
 
今回の記事にあるようなことを書かなくても
神は
人の都合によらず
ご自身の裁きを下す
ということをわきまえる者は
反対意見の人々に
前のように呪いの言葉を浴びせ
この記事のように自分たちだけが救われ
反対者は救いを妨害するだけで救いから外れている
という意味のことを書くことはないのです。
 
私は私が救われるかどうか、
どう救われるのかということも
神に任せています。
 
神の意思がどうなろうと
敵を呪い自分を叫ぶことによって
神の意思がそれだけで変わるなんてことはないからです。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
8:31
それでは、これらの事について、なんと言おうか。
もし、神がわたしたちの味方であるなら、
だれがわたしたちに敵し得ようか。
8:32
ご自身の御子をさえ惜しまないで、
わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、
どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
8:33
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。
神は彼らを義とされるのである。
8:34
だれが、わたしたちを罪に定めるのか。
キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、
神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。
患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36
「わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている」
 (ローマ8:31-36、新約聖書)
 
前にも言ったように
聖書は
明らかな迫害者がいて
信仰を貫くために激励し叫んでいるのです。
 
やすやすと人を迫害者に見立て
神の敵に見立てる者の立場で書かれてはいません。
 
 
彼は次のような言葉を乱暴にぶつけて
相手を呪い貶め
自分を高めようとしています。
 
>誰も私たちを行きづまらせきることはできない
 
>訴えるものがあっても
 
 いったい誰が・・?
 
>主は、イエスの義をその人の義と認めて下さる
 
>罪に定めようとするものがあっても
 
>処刑済みであると弁護して下さる
 
宣言 + 今までの言説の繰り返し
 + また勝手に神の意思を自分の味方だ
 と決めつけているのです。
 
悲劇の主人公気取りのようです・・
 
>圧倒的な勝利者とならせて下さる
 
そして勝利の宣言に
さらに神を巻き込んでいます。
「ならせて下さる」・・
 
こういう場合、力だけは入っているので、
大抵、大袈裟な言葉遣いをします。
「圧倒的な」
・・どこかの独裁国のニュース報道に
 似たような言い方を聞いたことがあります・・
 
 
>命の日の限り
 
>神であり主である方と一緒にいるようにして下さる
 
ここはどのクリスチャンでも同じなんですよ・・
ただ厚かましく既に決定事項のように
都合の良い裁きを叫んだりはしないのです
・・分からないですかね・・
 
 
(2015年05月28日、同日一部修正)
あちらの記事タイトルを間違えていたので修正しました
 
 
 
 

 
  在って在る
 
 
在って在る神は
永遠不変不滅と信じています
 
キリストを遣わしたほどに
人のほうを向いていて
人格的ではありますが
 
どこかへ行けば会える誰かではありません
 
天地の創造主であることは
非人格的な摂理の存在でもあるのでしょう
 
その神という御方かつ存在に
人の思い込みの筋書きや概念やイメージを
決めつけ信じて訂正不能にして
さらに自分の好きな神様人格を当てはめて
そのお父様人格に「愛しているよ」などと
台詞まで付けるなら
恐れを持って崇めているとは
到底思えないのです
 
これは決して言葉遣いや形式の問題ではなく
信仰というものを
そして人類の歴史と悲劇を
いかに軽く考えているかという問題なのです
 
だから
自らの癒やされ体験から聖なる体験や
奇跡と言いたくなるような体験に至るまで
神様はこういうことをしてくださるのです
といったように
聖なる御方を
裁きを待つ身の人間が
あっさり決めつけて語ることは
人が自分の認識の範囲内で
神を確認しようとすることであり
決して信仰の厚い証拠にはならないということです
 
 
聖書の中には
今の災いは
前の時に敵を滅ぼし尽くさなかったからだ
といったような記事もあります
 
人の敵ならば情けをかけることもあるけれど
神の敵に対しては滅ぼし尽くすことが信仰だ
ということになってしまうのです
 
「敵を愛せよ」という教えで
悪魔と見なした者を愛せるでしょうか
 
そんな心配はないと軽く笑って
済ませていい問題ではないと思います
 
神を決めつけるということが
どれほど残酷な結果を招いているか
歴史と世界を眺めてみれば明らかでしょう
 
今のこの国は
その恐ろしい種を蒔くことを
許すか許さないかという段階だと思っています
 
 
そのような恐ろしいことになり得る神を
何ゆえ信じたのか
それは
神の正しさを知ったからではなく
 
キリストの言葉に惹かれたからでしょう
 
信仰が自分に生まれた原初の動機を
忘れてほしくないのです
 
 
そして宗教と信仰の
敵を滅ぼし尽くす種を捨てて
滅ぼし尽くすことを止める種を蒔いてほしいのです
 
 
(2015年05月27日、同日一部修正)
 
そのためにも伝道に力を入れて
御心を伝えているのだから
余計なことを言わなくても大丈夫
などと言う人がいたら
その人は上に書いたようなことをまだ
理解しようとさえしていない人だと思います。
 
 
 
 

 
  あの方の憐れみ・・
 
 「祝福のそよぎ」批判(22)
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
 あの方の憐れみ深い思いが、私たちの心にも来るのだそうです。
 
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16741342.html
 
 
彼が信仰と信じているものを受け取ると
今までの昨日までの経緯をきれいさっぱり忘れて
自分の罪も悪も無かったことに出来る
という立ち直り方が出来るようになるでしょう。
 
ということは
どんな罪を犯そうとも
次の日には無罪になっているというわけです。
というより
彼がやったことはすべて正しく
罪にならない仕組みのようだから
罪を自覚することもないのでしょう。
 
例えば昨日誰かを傷つけたとしても
今日はまたヘラヘラ笑って
何ごともなかったように
告白もなく
自分の神を賛美できるというふうに・・
 
しかもそういう笑いをも
すべて神が与えてくださると
彼は言っています。
 
ここまで無反省の
彼が信仰と名付けている境地に
立ちたい人がいるのでしょうか。
 
しかも、その上で、
彼は「神の憐れみ」を説こうとしているのです。
 
悪い記憶をすべて削除して
なかったものにして
偽善と無視と超忘却の超常信仰を唱えている・・
 
 
>自分の中からは、
>憐れみの心のかけらも出て来ないものであることを知って
  ・・・・・・・
>私の心にも、憐れみ深い思いが来るようになるのだそうです。
 
この「・・・・」の中に、彼はいつものことですが、
非常に単純な理性による信仰の仕組みと筋書きを書いています。
 
 筋書きは同じですが、
 また詭弁を弄しているので追ってみると
 
 生まれたときからの霊は罪を犯すような
 ぼろくその悪だからという認識で
 キリストの十字架とともに処刑され
 
>イエスの十字架刑での処刑を私の処刑として下さる
>との提案を受け入れて、
>イエスの十字架刑での処刑に私も合わせていただき
 
 キリストの十字架は
 人の罪が赦されるためでした。
 赦されるべき罪は「もうないよ。大安心」
 となるためではなかったはずです。
 
 あとは聖霊が来て
 神の思いを自分の心に書きしるし
 
>私の心にも、憐れみ深い思いが来るようになるのだそうです。
 
 に至ります。贖罪&憐れみ製造工場の工程・・
 
 神に彼が憐れまれる
 という意味に勘違いしないでください・・
 
 記事タイトルですが
 
>あの方の憐れみ深い思いが、私たちの心にも来るのだそうです。
 
 と考え合わせると
 
 神の憐れみ深い思いと同じような
 憐れみ深い思いが自分に来るので
 神が憐れむのと同じように
 自分が人を憐れむようになる
 と彼は言っていると思います。
 
 彼は、なおも
 自分の憐れみは神の憐れみだと言いたいようです。
 
 さらに、彼の神以外からは
 憐れみは生まれないと言っているようです。
 ・・自分に従え
     と言うことでしょう・・
 
この彼の憐れみが本当の神の憐れみになるでしょうか。
彼に憐れまれるのだけは御免です。
 
 
彼の信仰は
数行の文章によって表すことが出来るようです。
多くの人が信仰について考えるのとは全く別の世界です。
 
彼は毎日のように
彼が信仰の仕組みとして書いた文章の
筋書きをなぞって、うん、うん、
よし、よし、・・と確認すれば
すべてのことはそこから導き出され
そのとき即、
神の御心として絶対化することが出来て
誰の言うことも聞かなくていい、
聞いたことも起きたことも忘れていい、
何故なら、それらは無かったのだから
・・ということですから
   大安心もするわけです・・
 
 
>互いに心の中で悪をたくらまないことを喜ばれる方のようです
>(ゼカリヤ7:5~11)。
 
記事の前半に示され
一部引用されているゼカリヤ書ですが、
 
 (ゼカリヤ書、口語訳)
7:9
「万軍の主はこう仰せられる、真実のさばきを行い、
互に相いつくしみ、相あわれみ、
7:10
やもめ、みなしご、寄留の他国人および貧しい人を、
しえたげてはならない。
互に人を害することを、心に図ってはならない」。
7:11
ところが、彼らは聞くことを拒み、肩をそびやかし、
耳を鈍くして聞きいれず、
7:12
その心を金剛石のようにして、
万軍の主がそのみたまにより、さきの預言者によって伝えられた、
律法と言葉とに聞き従わなかった。それゆえ、
大いなる怒りが、万軍の主から出て、彼らに臨んだのである。
7:13
「わたしが呼ばわったけれども、彼らは聞こうとしなかった。
そのとおりに、彼らが呼ばわっても、わたしは聞かない」
と万軍の主は仰せられる。
7:14
「わたしは、つむじ風をもって、
彼らを未知のもろもろの国民の中に散らした。
こうして彼らが去った後、
この地は荒れて行き来する者もなく、
この麗しい地は荒れ地となったのである」。
 (ゼカリヤ7:12-14、旧約聖書)
 
彼は12~14節を示していないようですが、
 
5~8節までは問いただし戒める言葉(省略)、
9節と10節は憐れみについて、
11~14節はイスラエルの反逆と
神の怒りと懲らしめが書いてあります。
 
このように聖書には
民を叱りつける恐るべき神が書かれ伝えられています。
 
彼は、都合のいい、気持ちのいい、
そういうところしか示さないようです。
あちこち聖書の箇所を示すけれど
説明は自分の気に入ったところだけのようです。
 
しかし彼は
前回、恐ろしい裁きの
イザヤ59章の強烈な聖句を載せています。
 
恐らく彼の敵=神の敵と見なした相手を
呪うためでしょう。
こういうところも彼は読んでいるわけですが
・・憂さ晴らしのための聖句引用か・・
 
聖書の使い方においても
神を恐れないようです。
 
 
(2015年05月27日、同日一部修正)
 
「大安心」は彼の記事の文言です。
彼はこう書けば安らぎに導かれるとでも思ったのでしょう。
しかし現実を見ない安心事はただ空疎なだけで、
その基盤にあるものを今まで考えてきて
何も変わっていないと言うしかありません。
 
私が「大安心」を見たのがいつの記事だったか・・
何度も書いてきた言葉なので分からなくなって、
彼のブログで「大安心」を内容検索したら
やはり6つの記事がヒットしました。
私が批判を書き始めてからは恐らく
2014年12月24日の
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16383110.html
だけのようです。
 
最近は書かなくなっているようですが
撤回も訂正もしてはいません。
彼にとっては
彼が書いたことは聖霊を通じて神の言葉になっている
という信念があるような気がしています。
・・これはこれで恐ろしいこと・・
 
 
 
 

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