栄光を・・
「祝福のそよぎ」批判(24)
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/MYBLOG/yblog.html
栄光を共にしたいのだそうです。私たちと、この方。
http://blogs.yahoo.co.jp/shkhknsyg/16746048.html
今日の彼は典型的な
脅し文句+ぼろくその後の安い救いのメッセージ
という書き方です。
彼にとっては定型というか
こういう書き方しか出来ないのでしょう。
自分を人よりも高みに置いた書き方が分かると思います。
>神がこの支えの御手をちょっとゆるめるなら、
>地球はどうなってしまうか分からず、
>私たちの身体がどう変調してしまうか分からず、
>私たちの理性もどうなってしまうか分からないのですね。
彼の言うことを聞かないと大変なことになりますよ
という脅し文句です・・ふつうはこういう言い方はしません。
>理性がちゃんと働いているのは、
>この、神の支えがあるからなのだそうです。
いつもは理性を諸悪の根源のように言っていましたが
今日は、こういう言い方をしています。
理性を必要と思っているのかどうか、
理性をどう思っているのか、主張が不明です。
>すべてのものは神に向かい、神に帰って行くのだそうです
こんなことはクリスチャンなら誰もが認めていることなのです。
・・のだそうです・・と
今さら何か特別なことを言ったつもりなのでしょうか。
(イザヤ書、口語訳)
6:5
その時わたしは言った、
「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。
わたしは汚れたくちびるの者で、
汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、
わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6
この時セラピムのひとりが火ばしをもって、
祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、
わたしのところに飛んできて、
6:7
わたしの口に触れて言った、
「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8
わたしはまた主の言われる声を聞いた、
「わたしはだれをつかわそうか。
だれがわれわれのために行くだろうか」。
その時わたしは言った、
「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。
6:9
主は言われた、
「あなたは行って、この民にこう言いなさい、
『あなたがたはくりかえし聞くがよい、
しかし悟ってはならない。
あなたがたはくりかえし見るがよい、
しかしわかってはならない』と。
6:10
あなたはこの民の心を鈍くし、
その耳を聞えにくくし、その目を閉ざしなさい。
これは彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟り、
悔い改めていやされることのないためである」。
(イザヤ6:5-10、旧約聖書)
5節
預言者でも神を見たことを恐れています。
神を恐れず、友達のように仲良しだ
という言説がいかに傲慢であるかを示しています。
人はもし神の前に出たら
誰一人として平気ではいられません。
そして預言者は天使セラピムに促されて
神の厳しい命令に従うのです。
>私たち人間のすべても、一人ひとり、
>この方の前に出るときが来るのだそうですね
自分は大丈夫で大安心だが
お前たちはどうだ
というカルト的脅し文句です。
彼はやたら讃美して
こんな良いことがあるよと誘うこと以外には
こういう言い方しかできないようです。
現実を考えない者は体質として染みついて
こうなってゆくのでしょう。
>自分の責任を自分で負う立場でこの方の前に出、
>私の行動、思いのすべてが明らかにされるのであれば、
>それは怖ろしい時になるのかもしれません。
またさらに脅し文句を重ねて・・
>けれども、イエスによる救い、
>贖(あがな)いをいただいているなら、
>イエスが私の責任の全部を負って下さって弁護して下さる
ぼろくそに言った後の救いのメッセージ
いつもの彼の書き方です。
極めて単純なやり口だと思います。
こういうのを高が知れるとか底が知れているとか
というのではないでしょうか。
彼はこれで伝道の言葉になっているつもりなのです。
そして自分の未熟も罪も認めないのです。
そして今まで批判に対しては
聖句を利用して神の復讐などの
恨みの当てつけをするだけなのです。
>私たちと共にしたいのだそうです。
神の栄光のことを言っています。
神がかりの彼はこういう言い方をします。
>この方のその御思いについて行ってみたいですね。
>今日も。
どうしても今の罪を認めず
仰ぐ姿勢を持たず
神と並んで栄光に包まれたい彼らしい記事でした。
そして彼は
今日も神の思いについて行く、
あるいはついて行けると思っているのです。
私は
栄光は神に
赦しと救いを私たちに
と言いたいです。
(2015年05月29日、同日一部修正)